第3話 赤坂高級料亭『金鵄』

 仏教の説法に「四門出遊」という教えがある。

 釈迦シャカ族の悉達多シッダルタ王子が城の東西南北の門から外に出かけ、東で老人を見、南で病人を見、西では死者の葬列を見て「老病死」というこの世の苦しみを知ったのち、北で僧侶に出会ったことで出家を決意したとされる逸話だ。

 しかし、今に伝わるその話は誤りである。

 東門から城外に出た王子が見たものは、一杯の椀を巡って争う人々の姿であった。王子は「あれは何か?」と尋ね、従者の一人が答えた。

老麺ラーメンでございます。すべての人は、あの味を求めて争うのです。その魅力に抗える者はおりません」

 王子は人の欲のあさましさを知り、嘆きながら城に帰ったという。

 つまり、老病死の「老」とは本来ラーメンのことを指し、それを求めて争う人間の欲望を戒めたものだったが、いつの間にか真実は歪められ、今日では老いという意味に落ち着いてしまった。

 ラーメンとは、古来より争いの火種となった罪深い食べ物なのである。


 赤坂の料亭といえば、政財界のお偉方の接待に利用され繁栄して来た歴史を持つ。だが、平成十一年に国家公務員倫理法が制定されてからは官官接待が減少し、経営が立ち行かず閉店する老舗が近年は目立っている。

 苦境の中、なんとか看板を守っている老舗も存在する。横田蓮よこたれん一等陸尉が上官から呼び出された『金鵄きんし』もそんな店のひとつだった。

 竹林に囲われた枯山水の庭園が、夕焼けに赤く染められている。中庭に面した廊下を歩くと、笹の葉擦れが微かに聞こえるばかりで、表通りにあるはずの雑踏の音は届かない。都心にありながら静謐。都会の喧騒は黒漆喰の壁にすべて吸い込まれているかのようだった。

 着慣れぬスーツに身を包んだ横田は、なにやら現実離れした場所へ連れて来られた気がしていた。


 仲居に案内された個室には二人の先客がいた。一人は陸上自衛官の最高位、陸上幕僚長の北見正雪きたみまさゆき。その北見が下座に座っている。上座に座っている男は横田に面識はなかったが、顔と名前は知っていた。防衛省の長、防衛大臣を務める大岡佐理おおおかすけのりだ。

「横田蓮一等陸尉、ただ今現着しました。お待たせして申し訳ありません」

 横田の敬礼を北見が手で制した。

「ああ、横田一尉、ここではもう少し静かに願う。内密の話がほとんどだ。人払いには気を使っているが、大きな声はあまり立てない方が好ましい」

「はっ。心得ました」

 やや抑えたトーンで再度敬礼する横田に、北見は満足そうに頷いた。

「まあ、そんなところに突っ立っているのもなんだ、座りなさい」

「はっ。失礼します」

 横田は北見の隣、入り口に一番近い席に腰を下ろした。目の前の席には大岡が座っており、一番の上座である床の間の前の席が空席のままだ。ということは、防衛大臣よりも上の立場の人間があと一人、この場にやって来ることを示している。

 横田にしてみれば、自分の隣に座っている北見からして雲の上の存在だ。

(この会食は……なんだ? なぜ俺なんかが呼ばれた?)

「もう一人、遅れて来る……というより、もうこの店には来ているんだが、他の部屋で別の会合に出ているんだ。忙しい方なのでね、理解して欲しい」

 大岡の言葉に、横田は「いえ。自分は気にしません」と返すのが関の山だった。


「失礼致します。お連れ様がお見えになりました」

 仲居の呼びかけのあと、ふすまがゆっくりと開かれた。

「いやあ、どうも遅くなりまして。申し訳ない」

 柔和な笑顔を浮かべて部屋に入ってきた男は、自然な動作で上座の席に着くと頭を下げた。

「どうもはじめまして。内閣官房長官をやらせていただいている宇野うの真一しんいちでございます。本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます」

 次いで、横田の正面に座る大岡が一礼する。

「防衛大臣の大岡です。日頃の鍛錬ご苦労様」

 隣の北見は掌で横田に挨拶を促した。

「陸上総隊第一空挺団所属、横田蓮一等陸尉であります。お初にお目にかかり、光栄であります」

「あなたのお話は伺っていますよ。なんでも防衛大学を首席で卒業され、日々の活動でも大変なご活躍だとか」

「恐縮です」

 宇野は身振りを交えて大きな声で話す男だった。まるでアメリカ人のようだな、と横田は思った。

「あの、お揃いのようですので、料理の配膳をさせていただきます。お飲物は何になさいますか?」

 先ほどからタイミングを見計らっていた仲居がようやく口を開いた。宇野が自分の額をぺしりと打つ。

「ああ、これはどうも。北見さんは国稀くにまれでしたか? 私も今日はそれを飲もうかな。あ、仲居さん、国稀はありますか?」

「はい。用意しております」

「じゃあ、私と北見さんには国稀を。横田さんはお酒は飲める口ですか?」

「いえ。自分は下戸なので、お茶をいただけますか」

 嘘だった。どちらかと言えば酒は強い方だと自負している。だが、この面子に囲まれて飲む気には到底なれない、というのが横田の本音だった。

「そうですか。それはもったいない。人生の半分を損していますよ。……大岡くん、君は何を飲むのかね?」

「私はシャンパンを。ベル・エポックはありますかな?」

「ロゼとブラン、ブラン・ド・ブランがございますが、どれになさいますか?」

「ブランを」

「かしこまりました。国稀は冷やでよろしいでしょうか?」

「ああ、一升瓶で持ってきてください。北見さんがいるから、三本くらい持ってきていただいても構いませんよ」

「いやいや、私は最近めっきり弱くなりまして……」

「ええ? 北見さんがそんなことを言うなんて。これは天変地異の前触れかもしれませんよ。……じゃあ、シャンパンの方を三本いきますか、大岡くん」

「ははは。ベル・エポックを三種並べるというのも壮観でしょうな」

「ええと、本当に三本お持ちしてもよろしいのでしょうか?」

 仲居は困惑し切っている。

「冗談ですよ。一本ずつ持ってきてください。今日の主役は横田さんですから、我々が羽目を外すのはよろしくない。あ、お茶は良いものをお願いしますよ」

「かしこまりました。本日は掛川の茶葉が入っております。では、料理の配膳を始めさせていただきます」

 仲居は優雅なお辞儀をして退室した。

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拉麺戦争 @shibachu

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