バーバラ・モートン前編

 7月の朝とても早い時刻、これまで気にも留めなかったなにげない風景が、バーバラ・モートンを憂鬱にさせた。自分のことしてきた選択肢すべて意味のないことに思えてくる。暑い日差しを一身に受け、人々が浮かれているように見える中で、ため息をつくことさえも嫌になる。夫と結婚したのはもう7年も前のことだが、あの幸せだった瞬間は、まるで昨日のことのように覚えている。まだ20代で、世界はだんだん良くなると信じて疑わなかった頃の話だ。調理師の専門学校を失業して、小さなケーキ工場の商品開発部門に携わった。仕事時間は長時間で、作業環境も決して良いとは言えなかったが、自分の作ったケーキが全国のコンビニエンスストアやコーヒーショップに並ぶのはとても楽しかった。彼女はもとより、何かを作るのが好きだった。人々を喜ばせるのはもっと好きで、学生の頃は家庭科と美術が彼女の得意教科だった。そんなわけで、ケーキ作りはもっぱら彼女の天職だった。

 旦那とは、学校を卒業してから工場で出会った。彼は当時現場主任で、自ら製造ラインに立っていた。新しい商品がラインに運ばれてくるたびに、彼は商品開発室に確認に来た。(ねえ、新しい檸檬タルトはこんな味でいいのかい?)彼とは週に一回、あらゆるお店のケーキを食べに行った。

 彼女は次第にもっと大きい仕事がしたいと会社を辞め、ニューヨークにある調理学校に通いなおした。栄養学の学位も取った。卒業試験の直前に彼から「卒業したら結婚しよう」と言われ、流れるように式をひっそりと挙げた。名前を変え、彼女は以前の会社に戻った。すべてがうまくいくと信じて疑わなかった。

 ちょうど一年前の新緑の季節に、旦那がたびたび女の子と会っていることを知るまでは。


 「浮気、ですか」レッドは深刻な面持ちでバーバラ・モートンの話を聞いた。彼の敬愛するニューヨークの朝のコーヒーショップで、サングラスをかけた細身のダンディな男、ロールと一緒にいた。レッドはもともと、とあるバンドのボーカルで一番顔が知られていたが、実のところベース担当のロールの男らしいマスクも一世を風靡したものだ。眼鏡のせいか、長い年月のなせる業か、幸いなことに他の客には未だばれていない。

「そうです」

「失礼ですが、お相手はわかりますか?」レッドがゆっくり尋ねる。ロールは静かにコーヒーを飲んでいた。

「いえ、そこまでは……ただ、なんとなく名前はわかります。彼の携帯電話にそれらしい人物の名前が書かれてありましたから」

「失礼ですが彼女の伺っても?」ロールが口を開いた。

「……マドンナ」

 彼女は神妙な面持ちでつぶやいたが、レッドとロールは何も言わなかった。静かな沈黙が流れた。

「姓は?」

「さあ……」

レッドとロールはお互い顔を見合わせた。

「それ以外に、旦那さんに何か変わった様子はありますか?」ロールが努めて冷静に尋ねる。

「残業が多くなりました」

「というと?」

「彼が主任になってから、年若い女の子とつるむようになりましたわ」

「彼女は彼の部下なのでしょうか?」レッドも身を乗り出す。

「そうでしょう。断言はできません」

「というと?」

「彼はたしかに主任になってからあの若い子と付き合うようにはなりましたけどね、」

「『あの』若い子?」

「ああ、マーガレットですよ。新しく彼の部下に入ってきた新人」

「へえ、詳しく聞かせてもらえないでしょうか?」レッドが爽やかに言う。

「レッド」ロールが小声でレッドに小突いた。

「ん?心配ならいらない」レッドが優しく微笑む。

「……私一人でも、コッペリアを連れてでもやるよ。ボスと話し合おう」

「すいませんモートンさん。少々お待ちください」レッドがバーバラに笑顔で言い、後ろを振り返った。

「心配性だな、君も」レッドがロールに言う。

「ボスにばれたら後で私が何か言われますよ。いったん持ち帰って、後日コッペリアと私がきます」

「とりあえずモートンさんが今いるうちに話だけでも聞くべきだ」

「そうだけど……」ロールがたじろぐ。

「中間報告として、とりあえずボスに連絡して、誰か来てもらえないか頼んでみる」ロールは携帯を取り出し、操作する。

「オルウェイはまだ学校だぞ」レッドが反論した。

「コッペリアかボスに頼むよ」ロールがため息をついた。

「すいません、モートンさん。会社に中間報告しなければならなくて遅れました」柔らかい笑顔でレッドが言う。モートンは恭しく笑った。ロールは何も言わなかった。

 ひとしきり話を聞いた後、レッドとロールの二人はコーヒーショップを後にした。

三分ほど歩いたあとで、

「もう七年も前の話だよ」とレッドは口を開いた。

「月日の長さなど関係ない」とロールは言った。

「むしろ短いくらいだ」

「ずっとずっと暗い過去ばかり追いかけているわけじゃないんだ」

「それでも過去は消えない」

「たしかにそうだ」

「君は……冷静になれるのかい?」

「他の案件に対してだって同じだよ。どんな案件でも、腹立つ奴や同情したいやつはいるさ」

「それを差し引いても、さ」

ブブ、とロールの携帯が震えた。

「ボスからだ。あー、やっぱり今回の件は君とコッペリアが配置換えだ」

「コッペリアはキーボードの大会じゃなかったのか?」

「コッペリアならまあ大丈夫だろうが、この案件は大会が終わってからになりそうだな。なんにせよ君は今日の音声データをボスに全部引き渡すんだな」


 ロールの言う通り、再びバーバラ・モートンがコーヒーショップに姿を現した時、もうすでに夏は過ぎ去ろうとしていた。

「遅くなり大変申し訳ございません」ロールが深々とバーバラに頭を下げた。隣にレッドはいなかった。代わりに眼鏡をかけた、純朴そうな青年が座っていた。見たところ学生か、学校を卒業してすぐ、といったところだろう。水色のワイシャツはおろしたてのように見える。

「僕はコッペリアと言います。レッドさんの代わりに来ました」彼はバーバラに名刺を出す。

「あらまあ、随分若い方ね」

「情報科学に関しては優秀な成績を修めている青年ですよ。心配することはありません」

「あら頼もしいわ」

「それで私どもの方で調べてみた結果ですが、結論から申し上げますと、旦那さんは確かにマーガレットさんとは会っています。が、浮気ではなさそうですよ」

「え?」

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