川瀬恵の話
川瀬恵(かわせ めぐみ)は恋人である立花司との待ち合わせ場所である七夕駅のホームに着いた。
時間を見てみると約束の時刻まで残り5分と言った所だったが、川瀬恵は心の中で後30分はかかるだろうと思っていた。
立花司と付き合い始めてその日で10年という節目に、彼という人物についてはある程度の事は知っていたから、今日も今日とて彼は誰かのために自分の身を投じているのだろうと思っていたからだ。
「そういえば…」
ホームから街に雪が積もる光景を見つめていると、ふと10年前の事を思い出した。
川瀬恵と立花司は高校の同じクラスの同級生であった。
今もだが人が良くて明るかった立花司は、それこそ多くの人間に好かれ友達も多かった。そんな彼に何かと接点が多かった川瀬恵はどこか魅力的な姿に自然と惹かれていった。
家も自転車を使えば行き来できるほどの近さにあり、最初は友達を連れて遊んでいたがやがて二人きりで遊ぶようになり始めた。そんな日々が続く中で、10年前の日のとある出来事が起きたのだ。
雪が降りしきっていたその日。川瀬恵が雪道を歩いていると例によって立花司は人助けをしていた。
いや、正確に言えば彼が助けていたのは人ではなく三毛の子猫であったのだが。彼は右腕を怪我していたまだ小さい子猫を道端ですくい上げる辺りを見渡した。
その様子からどうやら何かを探しているようで、その答えは怪我をした子猫を抱いて私のもとへと近づいて来て分かった。
「川瀬さん、この子猫、足を怪我しているみたいで近くに動物病院はないかな?」
彼は何かを助けるときは眉が少しだけ上がり、いつも浮かべている笑みの中にどこか真剣そうな表情が見え隠れする。その当時の私はそんな些細なことに気づく由もなかったけど、だけどそんないつもとは違う彼の鬼気迫る声色がどこか嫌いにはなれないと感じていた。
私は少し考えて直ぐに動物病院の場所を言おうとした。
「小さいけど動物病院はそこの角を曲がって…」
言葉を言い切る前に、彼は子猫を抱えたまま私の手を掴んで走り出したのだ。
突然の出来事に驚く私をよそに彼は腕を強く手を握り締めてきた。彼に握られた手はどこかくすぐったくて、しかし、気分を害するものではなかった。
「次はどこ行けば良い?」
不思議な感覚に浸る私をよそに、彼は角を曲がると前を向いて走りながら指示を仰いで来たので、我に返って動物病院までの道のりを手を繋がれながら教えた。
傍から見れば子猫を片手に雪道を駆け抜ける奇々怪々としたカップルであった事は間違いないだろうけど、その時はまるで昔見た映画の一場面に入り込んだような気分だった。
動物病院まで奇跡的に一度も転ばず無事にたどり着き子猫が診察室に運ばれるのを見届けると待合室で待たされることになった。
待合室にはストーブが一つ置かれ冬の寒さを感じる事はなかったが、如何せん病院には待ち人はいなく先ほど手を繋いだこともあって、二人きりの空間に初々しく重みを感じていた。
やがてその重さに結露する窓ガラスを見つめている彼に静かに語りかけ始めた。
「いつも、ああして人の為、世のために動いていて嫌にならないの?」
話しかけられても優しい笑みを浮かべたまま外の世界を見つめ続けた彼は私の問い掛けに答えた。
「うーん、嫌にはならないかな」
「どうして?」
「嫌いにもなれないって感じだからかな」
その回答に私は少し頭をひねって考えて見たのだがどうもふわふわとした疑念が残った。
「じゃあ、どうしてそんなに人助けをするのよ?」
追随する質問に彼は表情を変えず答えた。
「人の気持ちがわかるからかな」
「つまり感受性が高いって事?」
「うーん、それとはちょっと違ってさ。考えているのかなんとなくだけど読み取れるんだよね。だから人が困っていると自分も困っているように感じてさ、助けちゃうんだよね。」
一種の特殊能力にも似たそれに、驚きはしなかった。
それはあり大抵に同じような経験をしていたからだ。彼はなんとなくと言ったが、川瀬恵は完璧と言える程に人の考えていることが分かってしまった。
それは同時に人の気持ちというのがどれほど醜く、汚れているものなのかを幼い子供の頃から味わってきた。
だから、その当時の川瀬恵は言わば人間不信で困り果てた人間というのを見てもそこの裏にある物事を考えてしまい行動を起こす事はしなかったのである。
最初から感じてはいた、純粋無垢というか人がいいのか。困った人間を助ける。そんな彼にだからこそ惹かれたのだと改めて思い知らされた。
そこで診察室のドアが空いてかごに入れられた子猫は先程よりも元気に鳴いても戻された。
先生の話では二週間程で傷は完治するだろうとの事だったので、そのまま帰路についた。
鳴き疲れたのか、カゴの中の子猫はすっかり静かになって寝ていたようで川瀬恵と立花司は起こさないように慎重に雪道を歩いていた。そんな折、ふと彼が口に出した。
「今日はありがとう」
「お礼をいうのは立花くんじゃなくてこの子猫の方でしょ?」
「いやいや、子猫がそう言っているのさ」
「猫の気持ちもわかるの?」
驚く私に彼はいつにもまして笑みを浮かべた。
「いいや、僕が聞こえるのは人間だけ。だけどこれは本当だよ」
「そう」
私は彼が手に握ったカゴを見つめた。彼とは違い、私には動物の気持ちも言葉として聞こえたから確認をしてみたのだが。確かに、そんな事を言っていた気がする。
「それでなんだけど」
彼はそう言って立ち止まると言いづらそうにしながら言葉を紡いだ。
「僕の両親はどっちも猫アレルギーでさ、猫を飼うことが出来ないんだ。だからもし良かったら…」
「いいよ、私がその子猫を引き受けるわ」
「本当に?ありがとう」
「そんな、驚かなくても私の気持ちはわかるんでしょ?」
私は彼の手から子猫が入ったカゴを受け取りながら呟いた。彼はカゴを預けると手を離して川瀬恵の顔を暫く見つめた。
「いや、川瀬さんはどうにも気持ちが読めないんだ」
どこか困ったような表情で見つめる彼に、私は少し面白くなってこう返した
「そっか、じゃあ私が今何を考えても分からないわけだ」
言いながら私は彼に対する秘めた思いを心の中で唱えていた。するとたちまち彼は何かを悟ったような表情を浮かべ視線を逸らした。そんな姿に最初は気付かなかったが彼の心の中が見えてやっと気づいた。
「私の気持ち、見えてたの!?」
「いや、騙したつもりじゃなかったんだけど、見えにくい人でも気持ちが強いと見える時があるんだ」
彼の偽りのないその言葉に暫く沈黙が続いた。恥ずかしくなって今にも逃げ出したかった気持ちを抑えてゆっくりと彼に問いかけた。
「それで、どうなのよ」
「どうって…?」
白を切るつもりは毛頭なく、素直に聞く彼に少しの苛立ちと恥ずかしさを込めて私は目の前の彼に再び投げかける。
「私の気持ちに気づいたんでしょ?だったら返事はどうなの?」
いつもの笑みが少し苦笑いになった彼は、私から視線を逸らすと答えを言った。
「同じ気持ちです」
照れくさそうに視線を逸らしながら言った彼は、自分の気持ちを悟られまいとした現れなのだろうと後から思えばそうなのだろうと妙に納得した。
こうして、その日から私と彼は付き合うことになった。と、そうして回想しているうちにも約束の時間から20分は過ぎ、もう彼が来ることだろう。
川瀬恵は辺りを見渡してその姿を探した。
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