ヴァニタスの少女
安東 勘太郎
ヴァニタスの少女
――あー、もう! こんなに散らかして!
朝、僕が目を覚ますと、足の踏み場もないほど散らかった僕の部屋を、一人の見知らぬ少女が片付けていた。
生きているのか、死んでいるのか、はたまた夢なのか。仰向けに寝ている僕の白く霞がかった視界の隅で、ふりふりとその小さな
少女は僕の部屋の床に散乱していた、スナック菓子のゴミやカップラーメンの食べ残し、サプリメントのプラスチック容器、ペットボトルの山、ビールの空き缶やタバコの吸い殻を手際よくゴミ袋に分別して放り込んでいる。
その小柄な少女は、とても色白で、紫色の目をしていた。熟した果物のような色のワンピースは、ややタイトなデザインとなっており、少女の未熟な身体が浮き彫りとなっている。蝶をあしらった髪飾りをしている少女は、どこかコケティッシュな雰囲気を漂わせていた。
――こんなところにも! 床にシミが付いちゃうじゃないの!
しばらくその様子をベッドの上で眺めていた僕は、その少女が、床にこびりついた何か黒い塊を片付けている事に気付いた。チョコレートでも食べこぼしたのだろうか。
――きゃっ!
そして少女は、床の上に突っ立っていたビール缶を不注意で倒すと、その飲み口から突っ込まれたタバコの吸い殻がふやけた茶色い液体がこぼれた。それを見た瞬間、僕は不意な幻視に襲われた。
そのこぼれた茶色い液体は、糞と尿と血と体液が混ざり合ったものであり、それが僕の部屋の床一面に広がっていく。そして恐らく悪臭で満たされた部屋の中をぶんぶんと羽虫が飛び交っていたのである。
生きているのか、死んでいるのか、はたまた夢なのか。ぼんやりとした頭で、なんだかおぞましい光景から少女へと視線を移した。
――あっ、やっと起きた!
僕が起きた事に気が付いた少女。少女の生気に満ちた紫色の目と、その少女を眺める僕の濁った目とが合った。
――ほら、起きたんだったらお風呂にでも入るの!
そう少女がベッドに寝ている僕に対して言い放ったので、言われるまま僕はベッドから身体を起こそうとした。が、まるで溶けてベッドに貼り付いたように身体が動かない。自分の身体ではないようだ。ああ、また幻視だ。
少しずつ自分の肉体が、液体に変わっていく。溶けた僕の身体から、ありとあらゆる体液がにじみ出し、凄まじい勢いで腐食していく。しまいには、僕が寝ていたベッドを自分自身の黒く腐った体液でぐちゃぐちゃに穢していた。
――全く、世話が焼けるんだから!
体液と羽虫の幻視を視ながら、ドロドロに溶けた僕の身体に、少女の細く白くしなやかな指が触れた。それと同時に、ああ、そういえば僕はこんな形をしていたな、と僕自身の形状を思い出し、触覚が戻った。いつの間にか幻視は無くなっていた。
だがそれも束の間、少女に首根っこを掴まれるや否な、もの凄い力で少女は僕をバスルームへずいずいと引き攣っていく。汚れた服をあれよあれよと脱がされたかと思うと、いつの間にか、ユニットバスの浴槽に張られていたお湯の中へと、僕は放り込まれていた。
――ちゃんと暖まったら、身体も洗うのよ!
やや静けさが訪れたバスルームの中で、お湯に浸かりながら僕は考えを巡らせていた。ユニットバスの浴槽でお湯に浸かる事なんてまずないだろうし、そうして図らずも入る事になった久々の湯船は、熱いぐらいだった。
さっきのおぞましい感覚とは違う、お湯が僕自身ため込んだ毒のようなものをすっと抜いてくれる感覚に、僕は何度も言えない心地よさを覚えていた。
ふと少女に言われた「身体を洗う」という事を思い出した僕は、よくよく考えてみると、思うように身体が動かないから、浴槽から立ち上がって身体を洗いたくても洗えない事に気が付いた。
まだ寝ぼけているのだろうか。目を覚ます為に、湯船のお湯で自分の顔を何度か洗ってみる。虫が自分の皮膚の内側に卵を産み付けているような気がして、自分の顔を何度も何度も洗ってみる。そうしていく内に、詰まった毒が抜け、体中の毛穴から体液がしみ出し、自分の顔から肉が腐り落ちた。
気のせいかと思って、もう一度、痩せこけた自分の顔に触れてみる。ぶよぶよとした唇から肉がそげ落ち、う蝕によって冒され根元の神経からぐじゅぐじゅに腐った歯が何本も抜け落ちる。これは僕の肉の塊。腐った肉の塊。これが僕の歯。そうら、これが僕の
――あっ、何やってるの! 溺れちゃうわよ!
急に少女が浴室の扉を開けたかと思うと、間一髪のところで湯船に顔を埋めていた僕の首を引っ張り上げた。そうして湯船のお湯を抜かれたと同時に、僕は為す術も無く、その少女に泡だらけにされながら、まるで犬のように身体を洗われた。少しずつ嗅覚が戻ってくる。
――ほら、歯も磨くの! ちゃんと髭も剃るの! お風呂から出たら、服も着るの!
そうして少女は、僕の歯を少女が用意していた電動歯ブラシで丁寧に磨き、シェービングクリームを僕の顔に塗りたくると、床屋が使うカミソリで、僕の伸びきった髭を器用にそぎ落としていく。シェービングクリームからは、レモンの匂いがしていた。
◆
昼、部屋の窓からは、先ほど少女がせっせと運んでいたゴミ袋の山を、慌ただしく回収する清掃員の姿が伺えた。
僕が湯船に入っている間に、あれだけ僕の部屋を埋め尽くしていたゴミと汚れが綺麗に掃除され、またキッチンのシンクで薄汚れていた皿類は、漂白剤につけ込まれていた。
放置され汚れた服は、全て洗濯機にぶち込まれていたので、少女がどこからか買ってきた安物のワイシャツとズボンを履かせてくれた。それは僕にぴったりだった。
洗濯物が部屋の窓に備え付けられた物干し竿に吊されている。洗剤と柔軟剤の静かな匂い。何年ぶりに嗅いだ匂いだろうか。それにゴミが無くなった部屋は、こんなにも広かったのだろうか。
――こっちへ来なさい。
綺麗になった床に女の子座りで座っている少女が、ぽんぽんと目の前の床へと座るよう僕に促すので、僕は少女に正対して座った。
少女はポケットからニッパーのような爪切りを取り出すと、伸びきった僕の爪を切り、ヘアブラシで僕の髪を整えた。少女は更にぽんぽんと自分の太ももを叩いたので、僕はそこへそっと頭を乗っけてみた。柑橘類のようにみずみずしく弾力がある少女の柔肌から感じる熱と、レモンのような匂いは、安心感を僕に与えてくれた。
少女は耳かきとピンセットを取り出すと、僕の耳に詰まっていた耳垢を掻き出し、最後にアルコールを含んだ木綿で僕の耳の周りを優しく拭いた。エタノールのすっとした清涼さが、僕に清潔感を与えてくれた。
――はい、終わったわ。
聴覚が戻り、少女の声がより鮮明に聞こえてきた。少女の声は昔、教会で聞いた事があるハンドベルのような声だった。そう言えば少女の声は、どこかで聞いた事のある声だったが、何も思い出せない。
床から立ち上がった少女は、戸棚の埃をはたきながら、僕の部屋にあった物を整理していく。床から起き上がり、脚を引きずるように部屋の椅子へと座った僕は、物を一つ一つ丁寧に整理していく少女を眺め、少女が時折その手に取った物に対しての感想の声を聞きながら、僕は昔を回想していく。
――へえ、結構有名な会社に勤めていたのね。
僕は大手電機メーカーの管理職だった。上司や部下にもそれなりに慕われていた。だが所詮、仕事上の関係だった。早期退職した僕の行方は誰一人として知らないだろう。
――このアイドルさん、綺麗な人だよね。好きだったの?
お金はあったし、僕はよく好きなアイドルのライヴや握手会に行っていた。僕の生活において数少ない楽しみの一つだった。一方通行の恋でもあった。僕の思いは、届かないし、例え届いていたとしても、返ってくる事は無い。
――すっごく大きな鞄。これはアウトドア用の鞄かしら?
旅行が好きで、休みを取っては
不意に自分の下腹部に違和感を覚える。僕は自分の股間を触ってみると、自分の股間から、ウジ虫がこぼれ落ち、辺り一面に、まるで小豆を散らかしたかのように大量のサナギが床に散乱する幻視を視た。こいつらが羽化してハエになって飛び回る。ぶんぶんと僕の周りを飛び回る羽虫は、僕の眼球などに卵を産み付けていき、それがまた羽化して僕の身体を食い荒らしていくのだ。
仕方が無いので僕は、手に持っていた注射器を久しぶりに腹部へと突き立てた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
◆
夕方、部屋の片付けが全て終わり、取り込んだ濯物を全てクローゼットへとしまった少女は、いつの間にかエプロン姿になっており、全く使われていなかった僕の部屋のキッチンで、料理を作っていた。食材なんて冷蔵庫に入って無かったはずだが、これも少女が買ってきたのだろう。
慣れた手つきでキッチンに立って料理を作る少女の後ろ姿を、僕は椅子に座ったまま、ただぼんやりと眺めていた。本当に手際の良い少女だ。
フライパンからは何かが焼ける音が聞こえ、次第に僕の嗅覚を刺激していく。この匂いは、焼き魚の匂いだ。この匂いを嗅いだのはいつ以来だろうか。
――はい、今日の夜ご飯。薄味にしてみました。
僕が感傷に浸っている間に、少女は次々と僕の目の前に料理を運んでくる。
ご飯、焼いた鮭、お味噌汁、そして漬物を少々。パリパリに皮が焼けた鮭の塩気を含んだ香ばしい匂い。煮干しだしと味噌とネギが香る味噌汁の匂い。そして暖かいご飯の匂いが、僕の鼻孔をくすぐる。
何の変哲も無い、いかにもな夕食だ。おあつらえ向きな夕食だ。
――召し上がれ。
僕は震える手で箸を持ち、こぼさないようにゆっくりと料理を口元へと運び、静かに咀嚼していく。そうしていく内、次第に僕は味覚を取り戻していく。
ゆっくりと口へ運ぶ。暖かなご飯の淡泊な味と焼き鮭の塩気、口いっぱいにその味と香りが広がる。味噌汁をゆっくりと飲み込む。味噌汁の優しげな味が僕を満たす。
――おいしい?
無垢な笑顔で少女は、僕に尋ねた。
何の変哲も無い、いかにもな夕食だ。おあつらえ向きな夕食だ。だけど、こんな食事は、もう二度と味わえないと思っていた。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
誰かのぬくもりに触れたせいだろうか。僕は忘れかけていた感情が胸の奥底からこみ上げ、過去の後悔と共に、僕の目からは、大粒の涙がこぼれ落ちる。
――大丈夫。
その様子に気付いた少女は、ゆったりと歩み寄ると、僕の背中に覆い被さるように、その細い躯で、目一杯僕を抱きしめた。僕はその少女は抱きしめられたまま、声を押し殺して泣いた。
――大丈夫だから、ね。
これが僕の欲しかったものなのだろうか。これが僕の望んでいたものなのだろうか。ただこの温もりが欲しかったのだろうか。この少女ではない、誰かの温もりが欲しかったのだろうか。
本当は拒みたくなかった。本当は怖かった。迷惑をかけたく無かった。自分は汚らしい存在だ。それが受け入れられる事が怖かった。受け入れられてはいけない存在だと思ってたんだ。
だからこそ、伸ばされた手を振り払った。振り払って、更には、救いを拒んだ。それが最善だと思っていた。いや、どうしようもなかったのだ。僕はどうしようもない存在なんだ。僕のせいでもないし、誰のせいでもない。だが、もう遅すぎた。全てが、遅すぎたんだ。
どうしてこうなってしまったのだろうか。
その少女からは、甘酸っぱいレモンのような匂いがした。
◆
夜になり、少女は僕を綺麗になったベッドへと寝かせた。
僕のベッドの隣で、少女が僕の顔を覗き込んでいる。夜の帳のせいか、顔色が見えない。妙に大人びたような雰囲気に感じた。人の顔の表情が見えないのは、なんだか気味が悪い気もするが、不思議とこの少女からは、そうした気味悪さは何一つとして感じなかった。
だけどそれとは別に、ある不安が、僕を襲った。眠れないのだ。眠りたくても。
眠ってしまったら、全てが終わってしまうような気がした。この夢のような時間が悪夢になってしまう気がした。でも僕は、眠りたかった。だから僕は「眠れない」と少女に言った。
――無理に眠らなくていいんだよ。
少女は優しく僕の耳元で囁くと、その小さな手を僕の痩せ細った手の上に重ね、そして静かに握った。その温もりは、誰のものだったか。
――そうだ、安心して眠れるまで、私がお唄を歌って上げる。
すうと小さな吐息を漏らした後、少女は静かに歌い始めた。
ねむれ ねむれ 母の胸に
聞いた事のある子守歌だ。
ねむれ ねむれ 母の手に
なんて曲だったか。僕には解らない。だけどそれは、オルゴールのように煌めいて、そしてハープのように静謐な歌声であった。
こころよき うたごえに
さっきまで不安一杯で眠れなかったのが嘘だったように、僕はだんだんと眠くなる。こんなに安心したまま眠れるなんて、随分と久々だ。
むすばずや 楽しいゆめ
甘酸っぱいレモンの匂いが、ゆっくりと、ゆっくりと、僕の意識に広がっていく。ゆっくりと……ゆっくりと……夢の中へ……。今夜は……今夜こそ……ゆっくりと……眠れそうだ――――。
◆
警察官が男の死体を見つけたのは、ある真夏の朝の事であった。
男は40代前半の男性で、検視の結果、死因は持病による身体機能低下、それに伴う衰弱死だった。なんて事はない、この街では毎日21人が同じような理由で死んでいるのだ。
ただ不思議だったのは、交友関係が全く無いその男の部屋は、とても綺麗に片付けられており、また男の机の上に散乱していた大量の注射器から、その闘病の熾烈さが伺えたが、清潔なベッドの上で眠る男は、とても安らかな死に顔をしていた。
男は死んでいた。むせかえるような死臭と共にではなく、微かなレモンの香りと共に。
Fin.
ヴァニタスの少女 安東 勘太郎 @Antoine_Roquentin
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