最終話 希望

 また彼は走っていた。

 彼がいつものように買い物から帰ってきた時にいるべき人がいなかったからだ。

 正人の母は一度息子のために死のうとしたことがある、だからこそこんなにも不安になってしまう。

 何か起きると嫌な予感しかしなくなっていた。


「おいババアどこだ!」

「誰がババアだクソガキが」

「…えぇ」

 近場の十字路を曲がったところで彼女は近所の奥さんと会話をしていた。

 車椅子で移動できるとはいえ外出するなら先に言ってほしいものだ。






「おい、ちょっと止めてくれ」

「あ?」

 突然車椅子を止めさせる豹華。

 もう誰も利用していない公園、真夏が猫に噛まれていたのを目撃した思い出の場所。


「そういやお前が小さい頃よくここで遊んだっけな」

「…」

「いつまで経ってもアタシの拳を避けれなかったな」

「どんな遊びを教えてたんだお前は」

 言われてみれば幼い頃にこの場所で遊んでもらっていた気がする。

 辺りを見渡しながら彼女は遠い目をして過去の事を思い出していた。



「なぁバカ息子」

「なんだ」

「お荷物になって悪かったな」

「…」

 彼からは豹華の表情は伺えない、彼女はこれからもずっとそんなことを思いながら生きていくのだろうか。


「…何言ってんだお前は」

「…」


―――お前の人生を壊したのは俺だ。

 だからそんなこと口にしてほしくない。



「正人」

「あ?」

「諦めないでくれ」

 今後の人生を―――。


「自分の人生を諦めた奴に言われたくねぇよ」

「カカッ、そらそうだ」

 15歳で産み、全てを捨てて彼を育てた母親。


「止めて悪かったな、もういいぞ」

「…いや」

「?」

「…もう少しだけ」

「そうだな…」

 せめてこの涙が止まるまで。




「ちゃんと大人しくしてろよ」

「テメェ、さては落ち着きのない女だと思ってんだろ」

「そうだろうがよ」

「まあな!」

「…」

 買い忘れがあったため再度スーパーへと足を運ばなくてはいけない。



「醤油を忘れたのは致命的だったな…」

 食材の一つや二つなら何とでもなるがさすがに調味料は代えが利かない。

 彼は大きくため息を付いて家の扉を閉める。


 眩しいくらいの夕日の光が視界を奪う。



「柏木君」

「…え」

 家の前に立っていた長い髪をした女性。


「こ…こんにちは」

「せ…先生、か?」

「お久しぶりね、元気だった?」

 柏木家を訪ねてきたのは一年前に姿を消した猫宮真夏、のはずだが少し雰囲気が違う。


「…何しに来た」

 彼女を裏切ったのは正人、なのにどうしても素直になれない。


「ごめんね、急にいなくなって」

「…」

 彼はまるで別人を見ているかのように感じた。

 だって今、正人の目に映る女性は…、


「でも会えてよかった」


 自然に笑っているのだから―――。




 諦めることができたと思っていた。

 彼女を目の前にしてそれが勘違いだったことがわかった。

 本当は会いたくて、謝りたかったのだ。


「…あ、あのさ先生、今更こんなこ…」

「柏木君」

「ん…?」

「ちゃんと迎えに来たよ」

「…え」

 両手を伸ばして微笑む彼女は本当に別人だった。



「一緒に働きましょう」


 真夏はこの言葉を彼に伝えたかった。


「どう…いう」

「見捨てないって言ったから」


 『俺が行き場を無くしたら雇ってもらおうかな』


 冗談半分で言った言葉をずっと覚えていた真夏。

 最低なことを言われても彼女は約束どおり彼を見捨てなかった。



「えっと…ちゃんと料理も勉強したから」

「…」

「まだうまくないけど…ちゃんと表情に出せるように頑張ってるから…」

「…なんで…」


 正人の居場所がなくなったから真夏は教師を辞めて約束を守ろうとした。

 正人に言われたから感情を表に出せるように頑張った。


「好きだから、私にはあなたしかいない」

「…ぐっ」

「だから…見捨てないで」

「ご…、んな」

 うまく言葉が出ない。


「ごめん…な…、本当に…ごめん」

「な…泣かないでっ」

「…無理だ」

 彼は涙を流しながらあたふたする真夏を抱きしめた。


「絶対に…もう見捨てないから」

「柏木君…」


「ずっと俺といてくれ」

「はい…っ」


 例えこの先も失うことばかりだとしても、絶対この存在だけは離さない。













 扉を開けると鬱陶しいほどのセミの鳴き声が耳に入ってくる。

 夏休み中の小学生達が元気よく走り回っていた。

 彼はバケツに水を溜めて周囲に撒く、少しは涼しい風が吹いた気がしたがそれも一瞬のことだった。

 タバコを咥え、ポケットからライターを取り出すがなかなか火が点いてくれない。


「あ~くそ…」

「相変わらず短気ねぇ…」

 呆れながら彼に声をかけたのは幼馴染の冬子。


「全く、誰に似たんだお前は」

「…間違いなくテメェだよ」

 冬子に車椅子を押してもらい周囲を散歩していた彼の母親の豹華、彼女はいつになっても口が悪い。


「つーかお前今日非番だろ」

「失礼ね、これは介護じゃないわよ」

「そうだぞバカ息子、冬子ちゃんとアタシはマブダチなんだから」

「恥ずかしいからマブダチ言うな」


 犬塚冬子は高校卒業後一年浪人をして看護系の道に進み、今現在は近くの病院で看護婦として勤めている。

 彼女ならレベルの高い大学にだって行けただろうに。



「そういや今日合田が来るんだっけ」

「ああ」

「奥さん連れてくるの?」

「らしいぞ」

 学生の時、不良として有名人だった合田良樹は結婚をして道場の師範をやっている。

 あれだけ喧嘩が強いのだ、継がなければもったいない。

 連休が取れた時は新幹線に乗ってこの地へやってくる。



「あっお姉ちゃん!」

 後ろの扉から現れた少女は嬉しそうに冬子に駆け寄り抱きついた。


「こんにちは、今ねお婆ちゃんと散歩してたの」

「そうだったんだ!」

「あ、お前は相変わらず飯食うの下手だな」

「えへへ」

 豹華はハンカチを取り出して少女の口元に付いたケチャップを拭く。


 とても優しい光景。


 何かに気が付いた冬子は辺りを見渡した後、少女に質問する。


「あれ、ママは?」

「ん~さっきお庭に猫が入ってきて餌をあげようとしてた」

 それを聞いた彼は大きくため息を付いた。


「…止めてこい、絶対噛まれるから」

「わかったっ!」

 どこで覚えたのか、少女は敬礼をして走り出そうとする。


「あ、おい希望」

「え?」

 希望(のぞみ)と呼ばれた少女は首を傾げて彼の方を見る。


「転ばないように気を付けろ」

「うん、わかったよパパ!」



 眩しい笑顔を彼らに向けて、

 少女はHOPEという名の喫茶店の中へと入っていった。

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