第35話 得たものと失ったもの
豹華の事故から数日、未だに彼女は目を覚まさない。
彼は一人暮らしの家を出て実家に戻ることにした、その方が病院の行き来がしやすいからだ。
「これ着替えです」
「はい、預かります」
看護婦に豹華の着替えを渡し彼女が眠るベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろす。
いつ目を覚ますかわからない彼の母、実のところこのまま起きない方がいいのではないかと思い始めていた。
目を覚ましても豹華は一生自分の足で歩くことができない。
それを告げられた時、彼女はどう思うだろうか。
コンビニで買った弁当をテーブルに置いて冷蔵庫を開ける。
自炊をしていないので食材などは全くない、台所に立つ余裕があるのならその時間を身体を休めることに使いたい。
お茶を入れ居間に行き袋から弁当を取り出そうとすると中に小さな薄いピンク色の何かが入っていた。
指先で摘んで確認するとそれは桜の花びらだった。
いつの間にか冬が終わり、春がやってきていたようだ。
学生ではない彼には当然新しい出会いなどない。
失うものばかり―――。
そして翌日、彼はまた一つ失った。
「ごめんね…正人君」
「…いえ」
彼の勤めている安田自転車店が閉店することになった。
経営困難、近くに大きな自転車屋がありこれまでやってこれただけでも奇跡だったようだ。
それもとうとう限界がきてしまった。
「よかったら一緒に仕事探すよ」
「大丈夫です」
「…でも」
「心配しないで下さい、店長」
精一杯の笑顔を向けて彼は店を出た。
扉を閉めた瞬間に襲い掛かる不安感、いくら前向きになろうとしても絶対にうまくいかない人生。
「柏木君」
「先生か、久しぶりだな」
「そうね」
「今春休みだろ?」
「ええ」
それでも猫宮真夏はスーツ姿のままだった。
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
「…待って」
「あ?」
力強く彼女は正人の腕を掴んだ。
全く表情を変えない真夏の眼が泳いでいた。
「さっき…柏木君の職場に行ったの」
「…そうか」
真夏は店長から店じまいの話を聞いて彼を追いかけてきた。
「これからどうするの?」
「さぁ、わからん」
「大丈夫なの?」
「どうだろうな」
「今後の予定は…」
「…うるせぇんだよ!」
不安が怒りへと変わっていく、何を聞かれてもわかるわけがないのだから。
「聞かれてもわかるわけないだろうが!」
「かしわ…」
「何なんだよその表情、どういう感情の顔なんだよ!」
「…」
「何考えてんのか全くわかんねぇんだよ!」
言いたくもない、言ってはいけない言葉がどんどん口から出ていく。
「笑うことも泣くこともできねぇ奴に同情されてたまるかよ!」
「…ごめんなさい」
「もう何もかもいらねぇんだよ、俺の前から消えてくれ!」
「…」
掴んだ彼女の手がゆっくりと下がっていく。
「ごめんなさい」
始めから何も得なければよかったんだ、友人も思い出も恋というくだらないものも。
お辞儀する真夏、頭を上げた時沸騰した彼の感情が一気に冷めた。
「…先生?」
全く表情は変わっていないが、あの真夏が大量の涙を流していた。
機械のように彼に背を向けて歩き出す。
「…まっ」
伸ばそうとした手を止めたのは不安、結局正人は去っていく真夏の背中をいなくなるまで見続けることしかできなかった。
いいじゃないか、傷が大きくなる前に全部捨ててしまえ、と彼の中の何かが呟く。
その方が自分のためであり、その人のためでもあるのだから。
その日の夜、彼は全速力で病院に向かっていた。
何度も転びながらも走った。
意識のなかった母がやっと目を覚ました、なんていう感動的なシナリオなど彼の物語にはない。
傷だらけで汗まみれの彼は豹華の病室を開ける。
「ババア!」
「静かに、今やっと落ち着いたところだから」
「…」
穏やかな表情で寝ている豹華、彼女は少し前に目を覚ましたそうだ。
「何が…あったんスか」
「屋上から飛び降りようとしたんだよ」
「は…?」
意識が戻った彼女は自分の足がもう使い物にならないことを知り、床を這いずりながら屋上へと向かった。
奇跡的に看護婦が見つけて止めた時、彼女は大暴れしたそうだ。
それは決して自分の先の人生が真っ暗だと知って気が狂ったわけではない。
『あの子の足だけは引っ張りたくない!!』
ずっとそう言っていたそうだ。
豹華は息子の人生の邪魔にならないように自殺を決意した。
涙が止まらなかった―――。
全てを諦めた息子のために彼女は自分の存在を消そうとした。
彼の感情はもうめちゃくちゃだった。
朝になるまで街を歩き回り、声をかけてくる不良達を片っ端から殴り飛ばしていった。
人を殴っても物を壊しても荒れた感情は静まらない。
朝方、スーツを着た大人達が通りすぎる中フラフラと歩いていると小さな公園に辿り着いた。
顔を洗おうと水道の方へ向かうと足元に何かがやってきた。
「…お前」
一匹の猫。
一年前真夏を噛んだ猫、大きくなっているが間違いない。
ゆっくり腰を下ろし、猫の頭を撫でると彼の脳裏に大量の映像が流れた。
彼女が噛まれていたこと、彼女が初めて笑ったこと、淡々とした彼女の言葉達、そして彼女に恋をしていると自覚した時のこと。
『俺の前から消えてくれ!』
「…っ」
彼はまた走り出した。
先ほど学生を見た、それが見間違いでなければ今日から新学期。
ひどいことを言ったと今になってやって気がついた。
だから正人は彼女のいる場所へと走った。
到着した時、ちょうど教師が校門を閉めようとしているところだった。
「待て…待ってくれ…」
「誰だ…、ん?お前…柏木か?」
見覚えがある、確か体育教師で生徒指導もしている男。
ガタイのいい男教師は柏木正人が復習しにきたと勘違いをして後ずさる。
「せ…先生を、猫宮先生を…呼んでくれ」
「…なんだって?」
「たのむ…話をするだけだから」
あの超問題児だった生徒がその場でひざまずいた。
今すぐ謝らないと感情がおかしくなってしまいそうだったからここまでできた。
「猫宮先生なら教師を辞めたよ」
「…は?」
―――今なんて言った?ちゃんと日本語だったか?
「今日突然辞めると言いにきてな」
「うそ…だろ?」
「だから彼女の新しいクラスの担任は副担任がすることになった」
徐々に手が震え始めていた。
それを恐怖に感じた男教師はその先の言葉を彼にかけることなく校内へと入っていった。
必死で腕を動かしてスマホを取り出す。
感覚のない指をスライドさせて真夏に電話をかけるが電源が入っていないようで繋がらない。
「あ…あ…あぁ…」
手からスマホが離れ、膝を付いた彼は地面を叩き付けた。
「あああぁぁあああぁ…っ!!」
何かを得ると何かを失う。
辛いのが自分だけならいい、だがいつも誰かを巻き込んでしまう彼は全てを捨てようとした。
悲しませる前に手放してしまえばいい。
だが猫宮真夏を傷つけたのは彼自身。
それに気がついた彼はもう遅かった。
彼女の住んでいる場所も、実家も何もかもわからない。
絶対にもう会えないと確信してしまった彼はいつまでも退学になった学校の校門前で泣き続けた。
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