第23話 元担任と元生徒

 全てを失った―――。

 暴力沙汰など正人にとっては日常茶飯事だが手を出した相手が悪かった。

 病院送りにした男子生徒達の中に緑地高校の理事長の甥っ子がいた。

 向こう側が問題にしない条件として出してきたのが、


 【柏木正人の退学】


 公表なし、そして問題児を追い出せる、学校側からすればプラスでしかない条件だった。



『おう、なんだバカ息子』

「ああ…その…えっとな」

 母親になんて切り出せばいいのかわからない彼は何度も言葉が詰まっていた。


『んだよ気持ち悪いな、学校でも退学にでもなったか?』

「…」

 スマホを持つ手が徐々に汗ばんでいく。


「ああ…退学になった」

『…』

 どんな言葉が返ってくるかわからず彼は身構えた。

 彼自身の手で目指していたものを壊したこと、そしてもう何も残っていないこと。

 そんな親不孝者の息子に母の豹華は答えた。


『知ってるよバーカ』

「…え」

『すでに学校から連絡きてた』

 それなのに、彼女はいつも通りの口調だった。


「…怒んねぇのかよ」

『通り越して呆れたね』

「…」

 まだ怒鳴られたほうが楽だったかもしれない。

 呆れられることも諦められることにも慣れている、だけど今回ばかりは堪えた。


「すまん…」

『気持ち悪いなおい』

「…うるせぇよ」

 こんな息子を持った彼女が一番辛いかもしれない。

 何を言われても反論も反発もできない。


『これからのことは落ち着いてから考えろ』

「ああ」

『あ、それと』

「あ?」

 電話の向こうから小さなため息が聞こえた。


『同じ立場だったら、アタシも同じことしてるよ』

「…」

『じゃあな』


 通話が終わった後も彼はしばらくスマホを耳から離すことができなかった。

 下唇を噛んで流れてしまいそうな涙を必死で堪えた。


 学校側が正人を庇うはずがない、なのに豹華は状況を把握していた。

 誰かが彼のために動いた、そんなことをするような人物は限られている。



 罪悪感で心がどうにかなってしまいそうだった。






 あの事件が起きてから約一週間。

 真夏や冬子からの連絡は一切なく、学校の状況は良樹から聞いていた。


 結局文化祭では2年B組は喫茶店を開くことはできなかった。

 問題を起こした緑地高校の生徒達は事件を思い出す度震えて泣き叫んでいるらしい。



「まぁでも学校の方は落ち着いてきてる」

「そうか、それと何でしれっと家に上がり込んでんだテメェ」

 正人の友人良樹は日曜の朝、彼の家でのんきに寝転がっていた。


「冴えないなぁ相棒」

「つれないな、だバカ野郎」

「んで、これからお前どうすんだよ」

「さぁな、もうどうでもいい」

 今後のことを考えようとすると最終的にそういう答えに辿り着いてしまう。

 何も目指すものがなく、何もする気が起きない。



 どこにも行かず、毎日こうやってダラダラ過ごしているだけ。




「じゃ俺はそろそろ帰るわ」

「ああ、さっさと帰れ」

 とても長く感じた何もしない時間。

 大きく背伸びをしながら良樹は立ち上がる。



「…正人」

「なんだ」

「きっとまた笑える時がくるさ」

「お前の顔以上に笑えること…なかなかないな」

「たくさんあるんじゃないかなっ!」


 ろくでもない日々が戻ってくるだけ。

 経験者なのだから恐怖なんてものは全くない。




 きっとまた笑える時が―――。

 そうだ、ちょっと前まで笑っていたんだ。

 彼は良樹が帰ったあともしばらく玄関から動けなかった。



 鍵をかけようと手を伸ばした時、誰かがこの家のインターフォンを鳴らしていた。

 良樹が何か忘れ物をしたのだろうか、と彼はドアを開けた。


「残念、アタシだバカ息子」

「何しに来やがった…クソババア」

 そこには腕を組み、大きく足を開いている豹華がいた。


「学校に行くぞ」

「は?何言ってんだお前…」

「何って、手続きとかいろいろあんだよバカ野郎」

「…」

 返す言葉が見つからない。

 連絡してから来ればいいものを、本当にいつも唐突な母親である。


「つか七時過ぎてんぞ、しかも日曜だし」

「お前は平日の昼間に行って恥を晒せってぇのか」

 ごもっともな意見だった。




 先週まで通っていた学校が見えてきた。

 もう来る事はないと思っていたが、これもケジメだと腹をくくるしかない。



「柏木君」

「…先生」

 校門前で彼を待っていたのは【担任だった】猫宮真夏。


「おっす真夏ちゃん!」

「こんばんわ」

 友達のように挨拶をする豹華。


 どうでもいい、彼はそう思うようにしていた。

 なのにどうしてか彼女の顔を見た途端涙が出そうになっていた。

 真夏との約束を破ったこと、彼は再び罪悪感に襲われる。


「では行きましょう」

「…」

「おい歩けクソガキ」

「…ああ」

 重くなった足、喉は渇ききっていて頭は真っ白。

 今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。



「こっちよ」

「…?」

 真夏が誘導している場所は職員室ではない、見た感じ生徒指導室に行くわけでもなさそうだ。

 薄暗い廊下では三人分の足音だけが響いていた。



「着いたわ」

「いや…ここは…」

 【2年B組】と書かれた教室。

 手続きをするにしてもあまりにもひどい場所。


「オラさっさと開けろクソガキ」

「…」

 伸ばした手が震えていた。

 軽くスライドさせるだけで開く扉がとても重く感じる。


 大きく深呼吸をして前まで彼がいた教室の扉を開けた。



「いらっしゃいませ!!」



「…え?」

 突然周囲が明るくなり、教室から耳が痛くなるほどの声が彼を包み込んだ。


「遅いぞ柏木!」

「待ってたぜ!」

「来ないのかと思ったよっ」


 そこには2年B組の生徒が揃っていた。

 修復された跡が目立つ喫茶店用に作った看板、衣装を着ている女子達。


「ほら柏木君、座って座って」

「わ…渡辺」

 彼の背中を押してテーブル席へと誘導する渡辺。


「こちらメニューとなっておりま~す!」

「お菓子もあるよ!」

「須藤…山下…」

 全く理解が追いつかない。


「柏木君」

「先生、これは…?」

「皆頑張ったのよ」

 B組の生徒達は文化祭後、壊れたものを頑張って修復していた。

 今日のために。



 一気に感情が湧き上がってきた。



「わ…悪い、本当に…ごめんな」

 下を向くと大粒の涙が次々とこぼれ落ちていく。


「俺のせいで…ごめん…」

 それ以外の言葉が見つからない。



「もうっ何言ってるの?」

「柏木君のおかげじゃない」

「柏木が守ってくれたから今日を迎えることができたんだ」

「そうそう!」

「柏木君いろいろ頑張ってくれたし!」


―――何で俺はどうでもいいなんて思ってしまったのだろう。


「ぐ…うぐ…」

「柏木君」

「せ…んせい…」

 真夏の手が彼の肩に乗る。


「先生…、約…束破って…ごめん、な」

 涙が邪魔をしてうまく喋ることができない。


「ありがとう」

「…っ」

「皆の思い出を守ってくれて」

「う…あ…ああぁあぁあぁぁっ!」



 彼は手に入れたものを全て失ったと思っていた。

 すぐにそう思い込んでしまう正人の悪い癖。

 今、得たものがちゃんと残っていたことに気がついた。


 それは、思い出だ―――。







 2年B組だけの文化祭。

 パーティ会場にいるような光景。


「柏木君のお母さんだったんですか!」

「え!お姉さんかと思いました!」

「いやぁ君達、正直で結構!」

 彼の母親はすでに場に馴染んでいる。


 それを見ながら正人は少しだけ微笑んでいた。



「なぁ先生」

「なに」

「というかアンタはもう俺の担任じゃなかったな…」

「そうね」

 壁にもたれている彼の隣には真夏がいた。


「俺、働くよ」

「…」

「見つかるかわかんねぇけど」

「そう」

 夢はない、目指すものもない、だけど前を向くことはできた。


「その、えっと…なんだ」

 言いたい台詞はちゃんと頭に入っている、がなかなか口から出ようとしない。

 正人の担任ではなくなり、真夏の生徒ではなくなったことはもう変えられない。

 ここでちゃんと掴んでおかなくては今後会えなくなるような気がしていた。



「仕事はどのへんで探すの?」

「ん、え?あぁ…、近場で見つけるつもりだが…」

「そう」


 勇気を振り絞り、彼が大きく深呼吸をした時真夏の口が開いた。


「良かった」

「…え?」

「私のこと見捨てないって言ってたから」

「…」

 真夏にとって一番つらいのは担任じゃなくなることよりも彼と離れ離れになることだった。



「ああ…見捨てねぇよ、だから…」

「うん、私も見捨てない」


 これからはもっと進めるんだ。

 もう教師と生徒の関係じゃないんだから。

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