第15話 溶け始めた氷
新学期、本日のHRはいつもよりも長引いていた。
外ではすでに部活動が始まっているのに2年B組の教室では皆が難しい表情をしていた。
委員長らしき生徒が前に立ち、担任の真夏は端で直立したまま全く動く気配がない。
今起きたばかりの正人は何の話し合いで時間がかかっているのか理解できていなかった。
またどうせくだらない話なんだろうと彼は大きく伸びをしながら黒板に視線を向けた。
【林間学校 班決め】
9月中旬に行くことになっている林間学校での班決めで苦戦していて、教室はお通夜のような空気が流れていた。
そんなものさっさと決めてしまえばいいものを、一体何に時間がかかっているというのか。
担任の真夏はゆっくりと身体を動かして口を開いた。
「柏木君あなたよ」
「俺かっ!」
凶悪な問題児をどこの班に入れるかで苦悩していた。
一人でもいい、というか一人の方がいい彼だが学校としてはそうもいかない。
「あの…よかったら私の班に入らない?」
窓際の一番後ろの席にいる彼に勇気ある一人の女子が手を挙げる。
体育祭や花火大会の時に正人に声をかけてきた渡辺だった。
彼女は勇気があるというよりも、彼への認識を改め始めていた。
「他の連中が嫌がるだろ」
「私…構わないよ」
「私も大丈夫、かな」
渡辺と同じ班らしき女子二名、これらも祭りの時に顔を合わしている。
渡辺、須藤、山下、彼女達はとても仲がよく何かをする時は常に一緒に行動している。
周りに距離を置かれ、恐れられていることは彼自身が一番理解している。
―――だからきっと相当な勇気がいったはずだ。
形だけそういうことにしておけば早く帰れる、そう考えた正人は彼女達の班に入ることにした。
女子の中に男子が一人というのにも問題はあるが、当日は単独行動すればいいだけのこと。
「…で、何の集まり?」
「回る場所を決めよっ」
目的地に行く前に一度観光地を回ることになっており、渡辺の提案でHR後に残って少ない自由時間どこに行くか話し合おうということになった。
「あぁ…俺はどこでもいいから勝手に話し合ってく…」
「だめよ」
「…先生何でまだここにいんだよ」
「担任だから」
「もう放課後だぞ」
「柏木君逃げそうだから」
渡辺が正人や彼女達に声をかけているところを見ていた真夏は教室を出ずにずっと教卓の前で突っ立っていた。
「俺のことを信用してないのか?」
あえて意地悪な発言を真夏に投げつける。
「信用しているから逃げ出さないように見てる」
「どういうことっ」
見張っていれば彼は逃げ出さない、そのことを真夏は知っていた。
「自分で何を言ってるかわからなくなってきた」
「だろうな!」
「あは…あはははっ!」
「ははっ何?コント?」
「猫宮先生ってこんな感じだったんだっ」
感情を持たない冷血の猫、常に冷たく容赦のないイメージだった彼女の印象が少し崩れた瞬間だった。
終わりの見えない女子トークが繰り広げられていた。
何故初日にお土産屋に行くのか、歴史ある場所に行って何が楽しいのか、正人には何一つ理解できなかった。
「それとね柏木君…」
「ん?」
会話の途中、渡辺は言いにくそうな雰囲気を出しながら彼に話しかけた。
「えっと…自由行動中に喧嘩は、その…」
やめてほしい、その言葉が出てこない。
青海高校と同じように他校も観光している、せっかくの旅行で揉め事は起こしてほしくない。
正人は自分から誰かに喧嘩を吹っかけることは決してしない。
このろくでなしの匂いに寄って来るだけなのだ。
「…」
「柏木君」
真夏が彼の名を呼び、じっと見つめていた。
「わかったよ、気を付ける」
勇気を出して彼を誘ってくれた、さすがに迷惑をかけるわけにもいかないだろう。
「…やっぱり」
「ん?」
先ほどまで申し訳なさそうにしていた渡辺の表情に笑顔が戻る。
「柏木君って悪い人じゃないんだね」
「私も思った!」
「私達の思い込みだったんだね」
「…」
悪くない不良なんていてたまるか、と言ってやりたかったが彼はその言葉を飲み込んだ。
柏木正人に怯える必要なんてないことを知って喜ぶ女子一同。
そして再び始まる女子トーク。
望んでもいないのに理解された彼の人柄。
「柏木君」
「…なに」
教卓前にいた真夏がゆっくりと彼の方へと歩み寄ってくる。
彼は複雑な感情を抱きながら呼ばれた方に視線を向けた。
「…え」
女子達のうるさい会話は耳に入ってこない、それどころではない光景が今彼の目の前に広がっているからだ。
夕日が彼女を照らしていた―――。
「良かったわね」
「せ…アンタ…今」
―――初めての真夏の笑顔。
笑ったことのない彼女は孤立していた正人の存在が認められたことに嬉しく思った。
「たぶん嬉しかったんだと思うの」
それはほんの一瞬の出来事、女子達はこの状況に気がついていない。
「だから笑ってみたんだけど」
「…あぁ、やればできんじゃねぇか」
「どうして柏木君が笑うの」
彼も慣れない笑顔を浮かべていた。
「たぶん嬉しかったからだと思う」
「そう」
以前彼女が作った笑顔は正人が気絶をしてしまうほどひどかった。
あの日以来真夏は自宅で練習していたのだ。
楽しさも悲しみも全く理解できない、だから今この時に見せるべきだと彼女はそう思った。
きっと今、嬉しい気持ちになっていると気がついたから。
「柏木君どうしたの?」
「…ん」
「なんかすごい嬉しそうだから…」
正人と真夏を交互に見て首を傾げている渡辺。
「ああ…、いい事があったんだろうな」
曖昧に、濁すように正人は彼女にそう答えた。
「(なに?どうして柏木が女子に囲まれてるの…?)」
生徒会長の犬塚冬子はジェラシーを全開にしながら中の様子を伺っていた。
あの柏木正人が笑っていたように見えたが、明るすぎる夕日のせいではっきりとしない。
女子が3人、そして何故あの猫宮真夏までいるのか。
「(何角関係よあれはっ)」
何か理由を付けて中に入れないだろうかと考える。
「盗み見はよくねぇな会長さんよ」
「し…してません、ってだれっ」
迂闊にも背後から迫る存在に気がつかなかった冬子、彼女に声をかけたのは嫌味な笑みを浮かべた良樹だった。
「俺だよ、合田だ」
「…え?」
「何で初対面風な反応してんだよ…」
正人を遊びに誘おうかとB組の教室前に先に来ていた良樹。
「悪いが今日のところはそっとしといてやってくれねぇか」
「は…は?何が?」
彼が恋愛に慣れていなくても冬子が正人を意識していることくらい知っていた。
シラを切ろうとする彼女に良樹は大きくため息を付いて言った。
「ってか正人って本当にクズだよな」
「は…?ま、まぁそうね」
「クズでバカでろくでなしで、本当に嫌な奴だ」
「…」
冬子の表情が変わり、良樹は背筋が寒くなるのを感じた。
「柏木はクズよ、バカでろくでなしよ」
「だろ?」
「でも…嫌な奴じゃないわ」
―――それを言わせたかった。
「んなことは知ってるよ」
「は?あ…まさかアンタ…」
はめられたことに気がついた冬子は顔を真っ赤にして良樹を睨んだ。
「だからそっとしといてやってくれ」
「…」
「それを理解してくれる奴がやっと出てきたんだ」
何を言っても誰も信じてくれない、前に正人が言っていた言葉。
だから今彼女が見ている光景は喜ぶべきことなのだ。
「…そうね」
一番の理解者として。
「それじゃ俺は帰るわ、ほどほどにしとけよ会長」
「待って合田」
「ふ…気にするな、俺は親友のことを思って言っ」
「ネクタイはちゃんと締めなさい」
「はい」
正人の事を理解してくれる人が増えているのは彼女にとっても嬉しいこと。
彼もまだ人とのコミュニケーションに慣れておらず、接し方もぎこちない。
だけど冬子が絶対に見逃したくないこと。
それは、ごく自然に振舞えている猫宮真夏にだけ見せる表情だ。
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