第5話 挨拶

 想像できるだろうか。

 休日の朝、家の扉の前で担任がスタンバっている状況を。


 覗き穴から見える真夏は姿勢を正し、無表情で開錠されるのを待っている。

 彼女が柏木正人宅のチャイムを鳴らしたのは約15分前に一度だけ、それ以降はずっとこの状態が続いている。

 どちらが先に折れたかは言うまでもない、彼は真夏がどういう教師か多少理解している。

 無視をしたところで間違いなく彼女はいつまでもそこに居続けるだろう。



「…」

「おはよう」

「…あぁ…」

 当然居留守を使っていたことを攻められることもなかった。

 何故土曜の朝に担任が尋ねてきたのか。


「昨日の三者面談どうして来なかったの?」

「そもそも親に言ってなかったからな…」

 去年も全てバックれてきた彼だが教師達も諦めており、一度も注意を受けたことはない。


「月曜に直接言えばいいだろ」

「また逃げるでしょ?」

「…よくご存知で」

 正人の全ての行動を見抜いて抜き打ちで彼の自宅へとやってきた。


「はぁ…ま、入れば?」

「いいの?」

「何もねぇけど」

「お邪魔します」





 一人暮らしをし始めてから最初に家に入れたのが担任とは何とも寂しい話である。

 唯一の友人とも言える良樹とは常に外で行動するため、この部屋は寝て起きるだけの場所。


「はい、麦茶」

「ありがとう」


 やはり彼女は機械のようだった。

 正座をして、コップに手を伸ばしても全く身体は動かさない、そしていつも通り表情を変えない。

 どの角度から見ても美人で、スタイルも良い。

 真夏は今日初めて彼の私服、というか寝巻きを目にしたが、正人本人は彼女がスーツ以外着ているところを見たことがない。


「なんつーか、先生って残念だよな」

「ひどいわ」

 三十路とは思えないほど美しいのに本当にもったいない。

 笑顔の件は失敗したが、驚いた表情や恥ずかしい顔も見てみたいと正人のイタズラ心に火がついた。



「この部屋に女を入れるの初めてなんだよ」

「私も男性の家に入るのは初めてよ」

「ぬほっ!」

 すごいカウンターだった。



「柏木君、ご両親は?」

「母親が一人、父親は小さい頃蒸発した」

「ごめんなさい」

 冷血の猫と呼ばれた彼女でも気を使うことくらいはできるようだ。


「では、授業態度と私生活について」

「ああ」

「…」

「…」

 沈黙、無表情、彼をじっと見つめる光の入っていない眼。


―――あ、これ何か考えてるな。

 正人は少しだけ彼女のことがわかってきていた。


「私は何から注意すればいいの?」

「…それを本人に聞いちゃうのはどうなの?」

 どこからツッコめばいいかわからない真夏であった。



「柏木君」

「ん?」

「学校は楽しい?」

「…」

 本当に今まで言われてきたことのない質問を投げかけてくる教師だな、と彼は少しおかしくなり笑ってしまった。

 周りからは避けられ、敵だらけの学校生活を楽しいと言えるはずがない。


「先生は学生の時楽しかったか?」

「わからないわ」

「言うと思った」


 感情に障害を持っていると言っても過言ではない彼女。

 楽しんでいるのか、それとも苦しんでいるのか、笑う場面なのか悲しむ場面なのか、その全てが理解できない。


「小さい頃のあだ名って何だったんだ?」

「ロボットよ」

「わははっ!」

「ひどいわ」

 それだけで彼女がどんな子供だったか全て把握できる。



「中学あたりから楽しいなんて思ったことないな」

「そう」

 喧嘩ばかりしてきたのだから。



「あ~でも、先生が学校にスカートで来てくれたら楽しいかもな」

「どうして」

「冗談です、すいません」

 まるでセクハラ上司になった気分になってしまい彼はすぐさま謝罪する。




 ずっと正面に座る彼から視線を逸らさない真夏。

 どうして彼女はこうなってしまったのだろうか、そう質問しても返ってくる答えはわかっている。


―――わからない、だ。



「先生さ、もうちょい増やしてみたらどうだ?」

「増やす?」

「いつも簡潔に済ませるだろ」

 会話をしていても【単語】を聞かされている気分になるのだ。

 淡々とし用件だけを伝えて去る、それは会話とは言えないだろう。


「例えば…そうだな、挨拶の後に何か付けるとか」

「何を付けるの?」

「おはよう、いい天気ね…とか」

「…」

 真顔で首を傾げる真夏。

 彼女にとって、それにどんな意味があるのかはわからない。


「柏木君は?」

「したことねぇな…」

 言った本人がまともな挨拶をここ数年したことがない。




 真夏は当初の目的を忘れてしまっていたことに気がついた。


「お母さんは?」

「実家にいる」

「そう、お話しないと」

 本来三者面談とはそういうものである。

 しかし正人は一人暮らし、何か家庭に問題があるのかもしれないが教師として見過ごすわけにもいかない。


「やめといた方がいい」

「お話しないと」

「オススメしないぞ?」

「担任だから」

 彼は一度大きくため息を付いてベッドの上に置いてあったスマホを手に取る。


【お前の親友の俺だが、今暇かいっ?】

 マナーモードにしていたため良樹からのメッセージが届いていたことに気がつかなかった。


【暇で暇で忙しい】

 よし、送信。


 やろうとしていたのはそうではない、彼は数少ない名簿の中から【母】と書かれてある箇所をタップする。



「もしも…」

『おいコラ息子てめぇ、何母親を着信拒否してんだ』

「…いやお前、ウザイから」

『あぁ!?てめぇはそのウザイ奴から生まれたんだよっ』

「あ、ウザイのは認めるのな」

 彼の母親はこういう人物である。

 幼い頃冬子には母親似だと言われたが絶対に認めたくない正人。


『ちゃんと食ってんのか?』

「さぁな、関係ねぇだろ」

『あ?そんなこと言ってると学校にタコさんウィンナーが入った弁当持って行くぞ』

「ちゃんと食べてます、すいません」

 周囲から怖がられて避けられるのは構わないが、気持ち悪がられて引かれるのはさすがにごめんだった。


「んでよ、三者面談があったんだが」

『聞いてないんだが』

「ああ、だからウチに担任が来た」

『代われ』

 彼はスマホを耳から離し、真夏に差し出す。


「…」

「…」

 少し間置いて受け取る真夏、間違いなく今のは躊躇した感じだった。



「柏木君の担任の猫宮です」

 破壊力抜群の彼の母親相手にどう接するのか。



「はい、はい、そうですね、わかりました」

 相変わらず淡々とした喋り方で通話を終えた彼女は自らの手で通話終了のボタンを押した。

 正人のスマホをそっとテーブルに置く。



「近々家に遊びに来てくださいって言われたわ」

「…何でそうなった?」

 彼女は返事しかしていなかったのに何故か母親に好かれてしまったようだ。


「柏木君」

「ん?」

「いいお母さんね」

「…え?」

 彼が驚いたのは母親を褒められたことではない。


―――真夏が今、感想を言った。


「…ふ、変な奴だな先生は」

「ひどいわ」





 平日よりもはるかに疲れた土曜の休日。

 疲労に襲われながら彼はベッドに倒れこむ。

 明日は何もせず寝て過ごそう、そう決めた彼は着信拒否を解除をしてから眼を閉じた。






 彼が朝早くから全速力で走ったのはいつぶりだろうか。

 遅刻ギリギリの生徒達を次々に追い抜いていく。


 遅刻や無断欠席など正人にとっては日常茶飯事、では何故彼はこんなにも汗を流して学校へ向かっているのか。

 それはつい先ほどの話、二度寝をしようとしていた彼にかかってきた友人からの電話。


『冷血の猫がスカート穿いてる!』


 その言葉を聞いた彼は大急ぎで準備をして家を飛び出した。




「はぁ…はぁ…」

 朝、青海高校の教師達は交代で校門前に立つことになっている。



 本日の当番は猫宮真夏。

 相変わらず無表情で登校する生徒達に挨拶をしているが、皆は彼女の姿を見て驚きの声を上げていた。


「…はは」

―――冗談だったのに。


 息を切らしている正人に気がついた真夏は、



「おはよう、いい天気ね」

 いつもの表情で言った。


「ああ、おはようっ」


 そして彼は普段見せない表情でその言葉に応えたのだった。

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