第3話 担任との取り引き

 どうして朝早くから真夏は校長室へと呼び出されたのか。

 それは教師だけではなく、青海高校の問題とも言える内容だった。


 柏木正人。

 この学校の超問題児である彼は先日行なわれた実力テストを白紙で提出していた。

 校長は担任として真夏になんとかするように指令を出す、がそれは間違いなく彼を恐れた教師達が接触を避けるため嫌な役割を彼女に押し付けたのだ。


「わかりました」

 そう答えれた理由はもちろん、唯一彼女だけが彼に恐怖心を抱いていないからだった。







 早起きはなんとやら、という言葉を正人は信じないことにした。

 この状況を見て信じれる奴がいるとすれば今すぐ名乗り出てきてほしいくらい。


「こっちは年上なんだぞコラ!」

「二年のくせにナメやがってっ」

 朝の登校中に上級生に囲まれる正人。

 彼らは不良として、そして上級生として正人の存在は目障りでしょうがないのだ。


「勘弁してくれよ」

「敬語使えや!」

「あぁ?」

 下手に出るとすぐ調子に乗る、彼はこういうのが大嫌いだった。

 もともと数を集めなければ正人に声すらかけれない連中であり、彼が少し攻撃的な態度を取ればすぐ顔を引きつらせる。


「いいぜ、かかってこい」

「ぐ…」

 彼らもツッパっている以上引くに引けない状況。


「そして現れる俺」

 謎な台詞を吐いて現れたのは正人の相棒とも言われる合田良樹、連中にとって最悪な場面。

 それでも正人たちの方が不利な状況だが、そんな言葉はこの二人の辞書には載っていない。


「よう相棒、またせたな」

「いいぜ、かかってこい」

「おほっ、俺味方だよね!」


 明日から遅刻していこうか、と本気で悩んだ正人であった。




 【当然の結果】を残して学校に到着と同時に始まりのチャイムが鳴る。

 誰とも挨拶をすることもなく彼は自分の席に座り、何も入っていないカバンを机に掛ける。



「柏木君」

 朝のHRで正人を呼んだのは感情を表に出せない担任だった。


「放課後残って」

 冷たい視線で正人を見る真夏、クラスメイト達はとうとう彼が何かをしでかしたのかとそう思った。

 だが彼女はどんなことがあっても表情を変えることができない、と彼は理解している。


「了解」

 他の教師の言うことなら絶対にこんな言葉は出てこなかっただろう。


 それは少しずつ真夏のことを面白い女と認識し始めているからだった。









「明日再試よ」

「いいよ、パス」

「だめよ」

 それは正人の予想通りだった。

 他の教師達が彼女に擦り付けたことまで読んでいた。


「ただの実力テストだから受けるだけでいいの」

「そうなのか?」

「今のは聞かなかったことにして」

 すぐにボロが出てしまうのは真夏の悪いクセである。


 その全く感情のない彼女の表情、光の入っていない目。

 嫌なことを押し付けられても表情を変えない真夏、生徒達のことを考えているのかすらわからない彼女は何故教師になったのだろうかと彼は不思議に思った。



「なぁ、先生は何で教師になったんだ?」

「たまたまよ」

「ん…、ん?」

 そう、真夏の言うたまたまとは言葉通りである。

 したいことが特になかった彼女は歴史が他よりも得意で周囲から進められただけ。



「受けなきゃだめか?」

「受けて」

 問題児の彼にここまで言える教師は間違いなく真夏だけ。


「じゃあさ」

 正人は彼女が絶対に無理だと言うであろう要望を口にした。



「明日ちゃんと受けたら、笑って見せてくれよ」

「わかったわ」

「だろ、だったら…、っていいのかよっ」

 やはり彼女が何を考えているのか理解できない正人だった。


 これまで一度も笑ったことがない真夏が見せる笑顔とは一体どういうものなのか。


「はぁ…わ~ったよ」

 興味があるのは嘘ではない、だけど本心は別にあった。

 くだらない毎日を過ごしていたが、彼女と出会ってから予想不可能な出来事が起き始めた。

 それがとても新鮮に思えるんだ―――。



「テストは柏木君が一年の時に受けた追試の問題と同じだから」

「…」

「あ、今のは聞かなかったことにして」

「…ははっ」


―――そして、本当におかしくて笑えるから。








 当日の放課後。

 当然正人が過去の問題を覚えているわけもなければ残しているわけもない。

 良樹のカバンから抜き取ったシャーペンを握り締めて用紙と睨めっこするが、徐々に今何の科目をやっているのかわからなくなってきていた。

 受けるだけでいい、と真夏が言っていた言葉を思い出す。

 何真剣になってるんだと軽く自分自身を鼻で笑い筆記具を机に置いた。


「(全くこんなことして何になるんだ)」

 それは多くの学生達がよく口にする台詞。


「(あの担任も校長に言われただけだってのに)」

 少しずつ彼の心が闇に染まっていく。


 だけど正人はグッと堪えた。

 ただあの時の光景を、無表情のまま猫に噛まれている真夏の姿を思い出しただけ。

 彼がもう一度筆記具に手を伸ばしたのはたったそれだけの理由だった。






「おつかれさま」

「…あぁ」

 完全燃焼とはまさにこのことである。

 夕焼け空に教室に流れ込んでくる爽やかな風、机に倒れこむ態勢を取る正人の前には採点し終えた真夏が立っていた。

 休憩なしで国語、社会、数学のテストを一気に受けるのは彼でなくても疲れるだろう。



「30点ね」

「意外と悪くないな、全部合わせていくら?」

「30点ね」

「…おうふ」

 衝撃の点数に加え真顔で言われたことに大ダメージを受ける。


「沢山間違えてるわ」

「…だろうな」

「でも、頑張ってるわ」

「…」

 間違ったことを褒められたのは生まれて初めてだった。

 そんなことを彼女は全く考えもせずに口にしたことくらいは正人にもわかっているが、それでも嬉しく思ってしまったのは事実。

 必死になって机に向かった甲斐はあったのだ。



「それじゃ柏木君」

「ん、あ…そうか」

 腰を上げて無表情のまま彼を見つめる真夏。

 取り引きとして正人が再試を受けたら笑顔を見せる約束になっていた。


「いや、もう無理しなくていいよ」

「大丈夫よ、練習したから」

「…練習て」


 一体彼女はどんな風に笑うのだろう。

 実はものすごい爽やかな笑顔なのかもしれない、

 期待通り不器用な笑い方をするのかもしれない。


 表情を変える、

 これは真夏が誰かに見せるのは初めての行為。



「どうかしら、あ…柏木君?」



 きっと彼は一生忘れない。

 人の笑顔を見ただけで気絶をした今日という日を。







 どこがおかしかったのだろうか、と彼女は保健室で横たわる彼の傍で考えていた。

 昨晩テレビで笑っている人の真似をしただけで彼は気絶をした。

 自分の感情がわからないのだから人がどう思ったかなんて彼女にはわかるわけがなかった。


「…ん、あ~」

「おはよう」

 彼は寝ている間ずっと悪夢の中に閉じ込められている気分だった。

 頭を振って何があったかを思い出す。


「大丈夫?」

「ああ…そうか、先生の笑顔を見て…」

 不良たちに囲まれても全く動じない彼が真夏の笑顔を見ただけで気絶をした。


「練習したって言ったよな?」

「ええ」

 彼はロボットのように身体を全く動かさない真夏に視線を向ける。


「トラウマになりそうだ」

「ひどいわ」

「鏡の前でもっかいやってみ」

「…」

 正人は保険室内にある洗面所を指差して真夏に再度やらせた。



「ひどいわね」

「…だろ?」

 理解してくれたようだった。


 理解したからこそ彼女はもう二度と人に笑顔を向けないと決めた。

 だが、その決意を彼は打ち破った。


「練習だな」

「もういいわ」

「ダメだ。趣味も何もない先生が頑張ろうとしたんだろ?」

「…」

「だから引き続き練習だ」

「…わかったわ」

 このまま終わらせるのはもったいない気持ちと成功した笑顔を誰よりも一番に見たい気持ち。


「明日も見せるわ」

「…もうちょっと練習してからにしてくれると助かる」

「ひどいわ」


 彼の学校生活で初めてできた小さな夢。






「ちょっと大丈夫なの?急に倒れたって聞いたけど…」

 正人が保健室から出ると血相を変えた冬子が慌てた様子で駆け寄ってくる。

 すでに真夏は職員室に戻っている。


「ああ、平気だ」

「…そう?」

 生徒会の用事で残っていた冬子は職員室に行った時に彼が倒れたことを耳にして飛んできたのだ。


「でも何で倒れたの、寝不足?」

「あ~、いや」

 不良の正人を敵視しているとはいえ幼馴染、心配するのは当然である。



 そして彼女の胸を何かが強く叩いた―――。


「なんでもねぇよっ」


 冬子は久しぶりに正人の嘘偽りのない笑顔を見た気がした。

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