第2話 猫と犬

 教師、猫宮真夏の朝。

 朝食は食パンに牛乳、特に身なりを気にしているわけでもない彼女の準備は早い。

 出勤前に右手に巻かれた包帯を外し、彼の言われた通り昨日コンビニで買った消毒液を再度かける。

 あの時、彼がいなければまともな治療をせずにそのままにしていただろう。

 大人として、そして教師として謝罪とお礼はすべきだと一度大きく頷いて家の扉を開けるのだった。




 柏木正人、校内でも有名な不良の彼は昨日に続いてちゃんとした朝を迎えた。

 サボりにサボった去年は出席日数がギリギリになり留年しかけたため今年は余裕を持ってサボることに決めている。

 それでもやはり彼は朝が苦手だった。



「よう正人、めずらしいな」

「おう、去年やばかったからな」

 現れた良樹は彼と違い毎日ちゃんと登校している。

 彼らが揃って歩くだけで前方の道が開かれていく、もちろんそれは一般生徒達が二人を避けているからだ。


 その中でさっきから尾行されていることに正人は気づいていた。


「誰だ、さっきから俺を尾行してる…おわぁ!」

 間一髪のところで飛んできた何かを避ける。

 

「尾行なんてしてないわよ」

「またお前か犬塚…いい加減黒板消し投げるのやめろって…」

「心配ないわ、自前だから」

「自前の黒板消し持ってる女子高生ってどうなんだ…」

 あの小さな学生カバンの中に一体どれだけ入っているのかと気になった彼であった。



「か、かか柏木に聞きたいことがあるのよ」

「あぁ…?」

 言われる覚えはあっても聞かれる覚えはない彼、軽く聞き流そうと思った正人だが冬子は目を合わすことなくモジモジし始めた。

 女子みたいな反応はやめてくれ、と口に出しそうになったが間違いなく殺されるのでその言葉は飲み込んだ。


「その…ね、聞きたいことって言うのは…、とりあえず合田はシャツ入れなさい」

「…」

「昨日のこと…なんだけど…、とりあえず合田はピアスを外しなさい」

「正人、何故か俺だけとりあえずで注意されてるんだが」

「知らん」

 どんな時でも風紀を乱す行為は見逃せない彼女だった。


「(ちょっと待って、昨日のことどうやって聞けばいいの?)」

 次第に彼らですら恐怖を感じるほどに彼女の表情が険しくなっていく。


「(猫宮先生とはどういう関係なのって聞くの?)」

 昨日真夏が猫に噛まれて彼が応急処置したのを手にキスをしたと思い込んでいる彼女。


「(ダメ、なんかそれヤキモチみたいじゃないっ)」

 もうすでに自分の世界に入り込んだ冬子の目には誰も映ってはいなかった。


「正人」

「ああ、今がチャンスだ」

「(でも気になるっ、でも聞けないっ、あ~!)」


 プライドが少々高めの彼女、言いたいけど言えないことがあると周りが見えなくなる【冬子ワールド】を作るクセがある。

 チャイムが鳴るギリギリのところで我に返った冬子はモジモジしながら呟いた。


「あのさ…猫宮先生とは……、いない!」

 もうそこには彼らどころか他の生徒たちもいなかった。






「それでは出席を取ります」

 正人から見る朝の真夏はいつも通り感情の入っていない表情をしていた。

 その手には包帯が巻かれてあり、彼の言ったようにちゃんと治療は行なったようだ。


 昨日正人が彼女にした行為はとんでもないことだということは彼自身理解している。

 女性の手に口を付けたのだから。

 だがその本人が全く気にしていない様子で、大人の余裕を見せられている気にもなる。



 午前中の授業を全て寝て過ごした彼は休み時間に入るとやっとその重い足を動かした。

 食堂に行くかそれとも適当にパンでも買うか、正人の学校生活で唯一行動する時間帯だと言える。


「柏木君」

「うお、びっくりした」

 教室を出ると出席簿を持った真夏が彼に声をかけた。


「昨日の件でお礼を言おうと思って」

「昼休みにわざわざ来なくても…」

「午前中の休み時間全て寝てたから」

「あ、全部見てたのね」

 休み時間に入る度尋ねに来たが彼があまりにも気持ち良さそうに寝ていたため声をかけなかった。


「んで、ちゃんと消毒したか?」

「ええ、コンビニで買ったわ」

「そっか」

 不良と冷血教師が会話をしている異様な光景。

 正人は教師が嫌いだ。

 だが真夏をその中に入れたくない不思議な気持ちになっていた。


―――コイツ、感情がバカだからな。


「先生さ」

「なに」

「笑ったことあんの?」

「ないわ」

 驚きの発言をさらっと口にする2年B組の担任。


「趣味は?」

「ないわ」

「好きな動物は?」

「猫よ」

 その猫からは大いに嫌われている。


 彼女は笑ったことがあるか、その質問はこれまで何度かされたことがある。

 笑いたいわけでもなければ、笑おうと努力をしたこともない。

 幼い頃から感情がバカだった彼女はおもしろいと思うことがあっても顔に出すことはなかった。

 嫌なことも、腹を立てることもあるかもしれない、ただそれを表に出せないのだ。


「その…あれだ、猫を見てると癒されるなぁ、とか」

「そうね、気分は癒されているわ」

 顔に出てこないだけ。


「なんだ、中身は感情があるんじゃん」

「私をなんだと思ってるの」

「感情バカ」

「ひどいわ」

 やはりこの女は他の教師とは違う、まるでレアなものでも見つけたかのように彼は少し嬉しく思えた。






 あの男が楽しそうに笑っている、信じられない光景を冬子は廊下のゴミ箱の後ろで身を隠して眺めていた。

 二人はデキているのではないか、その思いが膨れ上がってくる。


「(何を考えているの私、相手は教師と生徒よっ)」

 そんな禁断な愛を生徒会長として見過ごすわけにはいかない。




「猫宮先生、こんにちは」

「こんにちは」

「…犬塚」

 まるで邪魔者が現れたかのような視線を正人から向けられる冬子だがここはグッと堪えておく。


「か…柏木が何か悪いことでもしましたか?」

「ああ、忘れていたわ」

 彼にお礼を言うのをすっかり忘れていた真夏。


「柏木君」

「ん?」

「昨日はありがとう」

 真っ直ぐ彼の目を見て言うが、当然真夏の顔はいつも通りだ。


「初めてだったわ」

―――誰かに治療されるのが。



「は…初めて?それど…どどどういう」

「落ち着け犬塚…」

 慌て出す冬子を見て彼は彼女が何かいらぬ誤解を抱いていることに気がついた。


「痛かったけどもう大丈夫よ」

―――猫に噛まれた箇所が。


「痛…って、え…え?」

「待て待て、お前はたぶんすげぇ勘違いしてるぞ!」

 白目になり始めている冬子の肩を揺さぶる正人。



「先生、いろいろはしょりすぎだ…」

「そうなの?ごめんなさい」

 発言が間違えていることに理解できていないがとりあえず謝る真夏。

 彼の言い訳もむなしく、首の据わっていない赤ん坊のように頭をブラブラさせながら口から呪文のような言葉を発している冬子。


「初めて…痛かった…あは…あはは」

「やべぇ…、先生こいつが目を覚ますまでいてやってくれ」

「わかったわ」

 何故かを聞かないところが真夏らしい。

 彼は面倒なことにならない内に逃げ出すことにした。





「…はっ!」

「…」

 昼休みが終わる直前に冬子は正気を取り戻した。

 真夏は彼の言いつけ通り一歩も動かず彼女が目を覚ますのを待っていた。


「…ふ」

 冷静になって考えてみれば冬子が思っているようなことなんてあるわけがない。

 教師と生徒なんだから。



「(私は間違ったのかしら)」

 真夏の発言によって彼女はああなってしまった。

 思考を巡らせるが感情がバカな真夏にはわからなかった。


「猫宮先生」

「なに」

 今度は間違えないように。


「(さらっと聞いてしまえばいいのよ)」

「(ちゃんと考えて返答する)」

 それが裏目に出ることも知らずに…。



「先生はどう思ってるんですか?」


 冬子の質問に真夏は真顔で考える。

 正人と真夏は昨日の出来事について話をしていた。

 噛まれたこと、怪我をしたこと。

 痛かったとは先ほど伝えた、となれば一体この質問はどれを言っているのか。

 そして真夏は大きな勘違いをしたままはっきりと答えた。



「好きよ」


 真夏の言う【好き】は彼にではなく【猫】に向けられていることを気絶した冬子が知るはずがなかった。

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