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「これ」

 池脇家の玄関で、倉沢は、走り書きのされたメモを池脇の父、まもるの前に差し出した。「うちの両親の連絡先です。僕は現在精神的に親と絶縁中なので、必要であればおじさんの方から連絡していただけると助かります」

 守はメモ紙を手に取ると、暫しの間それをじっと見つめてから言った。

「晩御飯、何がいいかな」

「流動食的な」

「カレーは?」

「ライスと具なしで」

「足りるの?」

「十分です」


 廊下をはさんで居間向かいにある和室に入るやいなや、倉沢はスクールバッグを放り出して畳に寝転んだ。

 池脇は落ちた割り箸を憐れむかのようにそれを見下ろすと、自分もどっしりと腰をおろした。

「連絡先とか。真面目なんだな、郷葉生って」

「は?」

 倉沢は首だけを池脇の方へ向けた。「これでうちの親が警察に捜索願でも出したらお前の親誘拐犯なんですけど。それでいいってこと?」

「てめーカレーぶっかけてそっから放り出すぞ」

「やればあ」

 倉沢はそっぽを向いてスマホをいじり始めた。同時に、ここ数日で聞き慣れた艶のある声が聞こえ、池脇は、この部屋に客人が一名増えたことを悟った。

「お前、一応他人に気い使ったりできるんだな」

「そりゃそうでしょ。他人なんだし」

「…………うちの親に気い使えるなら、身内ともどうにか話し合えそうにないのか?」

「なんで?」

「不満なんだろ? 今の状況が」

 軽快だがそっけない、倉沢の返答が途切れた。

 今日、一つの家庭が、大きな理想が壊れる瞬間を見た。

 いい気味だ。そんな風に、心の中で笑い者にできるものと期待していた。

 だが、予想は大きくはずれてしまった。神聖なもの、守るべきものに、想察なく非行をはたらいてしまったような、救いようのない罪悪感におそわれた。

 家族、のようなもの。

 そんなものを、あの人たちは、守ろうと。

 長い年月、本音をなだめ、熟慮し、もがいて————。

 なぜ切り捨てられなかったのか。

 なぜ稚拙な言い前に耳を傾けた。なぜ。なぜ。なぜ————

「お前こそ真面目かよ」

 半端解答を伏せて、倉沢は言い放った。「どうしてなんでもかんでも解決したがるんだよ。一方的に出された『これやる意味あんのか』っていう問題と、向き合いたくないだけだよ。お前宿題サボったことないのかよ」

「……あるよ」

「あるの? マジで? やれよそれくらい」

 池脇は堪えていた。

「ほっとけって思うならその『自分可哀想』みたいな態度なんとかしろよ」

「は? 俺は生まれつきこうだし。お前らが校門の前で待ち伏せしてからんできたんだろ。俺は被害者だよ」

 守、カレーはまだか。

 池脇は背中で台所に向かって訴えた。

 玄関のチャイムが鳴った。それから、廊下を小走りでかける音がした。

 会話の断片がしばらく聞こえたのち、和室の襖がぴしゃりと開けられた。

「おじゃーしあーす!」

 朝の陽気のように、大槻は言った。片手に、『AA』のロゴマークが描かれた紙袋をぶらぶらとさげている。

 後ろには、同じく『AA』の紙袋を手にした本村が立っていた。「こんばんは」

「うち旅館じゃねーんだけど」

 池脇は客人を迎え入れる体勢を作らずに、首だけを戸口に傾けて言った。

「あ、大丈夫。俺らはすぐ帰るから。でもカレーごちそうになれると思ってなかったから食料調達してきちゃった。佐野さんの奢りで。ほれ、くらさーさんの分もあるよ」

 大槻は紙袋から丸い包みを取り出した。

「いらない」

 それをハンバーガーと見取るなり、ふてくされたように倉沢は即答した。

「って言うと思った。はい」

 本村が、紙袋からドリンクのカップを取り、倉沢に向けて差し出した。

 倉沢の瞳が、当惑したように見開かれた。

「あれ? ブラックじゃなかった?」

 ドリンクを手にしたまま、きょとんとなって本村は言った。

「ありがとうございます」

 余計なことをしてくれて。そんな語調で、倉沢は両手を伸ばしてアイスコーヒーを受け取った。

「なんで怒ってんの?」

 大槻が池脇にたずねた。

「自分は被害者なんだと」

「は?」


 それから少しして、カレーができあがった。

 肉や野菜がごろごろと入った、ごく平凡で家庭的なカレーライス。倉沢の分だけは、ポタージュのようにライスと具が取り除かれていた。

「いい香り」

 なでしこがささやいた。

「なでしこさんも食べる?」倉沢は言った。

「うん」

 倉沢はスマホを手早く操作した。「いっしょに食べよ」

 なでしこの前に、テーブルと、ステンレス皿に盛られた本格的なカレーが用意された。

「おいしそう。いただきます」

 なでしこはしとやかな動作でカレーを味わいはじめた。

「今開発中のピクシーはね、空間を認識して、ホログラムがより自然に、人間の生活に溶け込めるよう頑張ってるんだって」大槻が言い出した。「たとえば、一つの部屋にピクシーを一台設置すれば、投影されたホログラムが、その部屋を隅から隅まで移動できたり、イスがあったらそこに座ったり、食べ物を見つけたら食べる動作をしたりね」

「生きるホログラム」ほうっと、本村がつぶやいた。

「人間要らねえな」降参だという顔でカレーを食べ進めながら、池脇は言った。

「あれでしょ、人類が滅亡しても、ホログラムだけは稼働してて」興奮気味に、本村は言った。「電気の供給が途絶えた瞬間、世界中のホログラムが〝ふっ〟って消えるの。〝ふっ〟って。はかなげなエンディング」

「ああ、そんな映画ありそう」にやけながら、大槻はカレーをすくった。

「エブリデイマジックは、最終的にどこまで行くの?」本村はたずねた。

「終わりなんてないでしょ。人類が滅びない限り」大槻は言った。

「僕たちが事切れるまで、どこまで発展するかなぁ?」

「あと百年かあ」

「生きる気満々だね」

「寿命は伸びてるでしょ、多分。なんなら若返り医療が過剰発達して人生無限ループだったりして」

「怖え」苦々しい顔で池脇は言った。

「人類の不老不死が実現しちゃったら、あとはもうキャラクリや能力値の融通利かすくらいしかやることなくなってくるでしょ? ホムンクルスが現実になったりして」真面目な顔で、本村は言った。

無理無理むいむい」大槻はカレーを飲み込んだ。「倫理的にアレだもん」

「倫理の概念が変わってたりして」

「ああ、どこぞの屁理屈のせいだな」どうということはないという調子で、池脇はぼやいた。

「ええっ? 錬金出産じゃないんですかあ? お気の毒ぅ〜ってばかにされたりして」大槻は言った。

 倉沢はなでしこを見た。

 青い髪、泣きぼくろ、艶っぽい声。ネットワークに直結した知識。なでしこはカレーを食しながら、ふと倉沢を見上げて幸せそうに微笑んだ。

「SNF」

 倉沢はつぶやいた。

 本村たち生身の人間三人の、スプーンを持つ手がとまった。

 垂れた前髪から覗く瞳が、安らいだように微笑んだ。

 倉沢は、具のないカレーを、まずそうに食べた。

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