21

 越水と神谷は揃って病院を出た。

 越水は駐輪場を素通りして庭園の方へ歩き出していた。足の向かう先は、神谷も同じだった。

 二人の間に示し合わせはなかった。

 だが、共に、同じように、思うところがあった。この日、この時、どうしても、目に焼きつけておかなければならない。

 二人は会話も交わさず歩を進め、自然な流れのように、須藤茉莉子の遺体発見現場へとやって来ていた。

 事件のあと、神谷が個人的にこの場所を訪れたことがあるのかどうかを、越水は知らなかった。どちらにせよ、辛いことだろう。忘れたくても、忘れられるはずがない。どんなに偲んでも、癒えるわけがない。膿をはらんだ領域へ、毎日のように、通い続けることなど————。

 越水は芝生へ足を踏み入れ、そっとしゃがみ込んだ。すでに青々と育った芝が、その上で起きた事のすべてを脱ぎ払おうとしている。すべては過去のこと。誰も望まぬことと。

 だから、新しい季節を受け入れろと?

 そうして、何もかもが流されてゆく。痛いこと、辛いこと。確かに感じたはずのしこりが。そしてまた、次の病を待つ。残念だ。これもまた、終わりなんだ。

 越水は手を合わせた。

 どうして死んでしまったんだ、須藤さん。

 あなたには、生きていてほしかった。多くの命を、守るために————。

「越水さん?」

 温和な声音にそう呼ばれ、越水は振り向かずに目を開けた。

 突如、胸に湧いた濁流が渦巻いた。〝神谷ではない〟 越水は覚悟して振り向いた。

 芝生の外に、不揃いな四名が立っていた。

「こんにちは」

 青空とともに、しゃがんだままの越水を覗き込むように、本村は言った。ビタミンカラーの、派手なTシャツ。髪は相変わらずの寝癖頭だった。

「本村君」

 越水はおもむろに立ち上がった。「広睦から聞いたよ。例のスニーカー、すぐに見つけてくれたんだって?」

「はい。しかもぴったりのサイズの。三柴さん、結婚するらしいですね。そのスニーカーをプレゼントする相手と」

「そうなんだよ。急な話で、俺もびっくりでさ」

 話している越水の隣で、神谷はあえて存在をひた隠すように鳴りをひそめていた。

 本村は真剣に、大槻は微笑みながら、まっすぐに越水の方を見ていた。倉沢は地面から嫌々生え出てきたように立ち尽くしている。

 越水が頼りにしていた、池脇の険しい瞳が、今は蚊帳の外にいるはずの神谷をとらえていた。

 ちがうだろ。

 苛立ちを覚えながら、越水は続けた。

「今日はその婚約者と初めて会うんだ。まあ、会わなくても大体想像はつくけど」

「そうなんですか?」本村は聞いた。

「そうだよ。美人で、華があって、気さくで、年上。誰がどう見たって魅力的で、普通じゃ絶対声もかけられないような人だよ」

「へー」

 越水の目を見たまま、食いつきの悪そうに本村は発した。

「そういえば、今日の食事会に来るように志保を説得してくれたの、本村君なんだって?」

「はい。説得っていっても、志保さん意外とあっさりで。『大丈夫、ちゃんと行くから』って」

「だろ? 俺も広睦に言ったんだよ。志保が小言言うのなんていつものことなんだし、大袈裟だろって。今日も志保が、病院まで迎えに来いって広睦に言ったらしいんだ。あいつ多分、自分のせいで広睦と険悪なムードになったもんだから、会うのが気まずかったんだよ。だから病院まで迎えに来させて、味方の俺を横に置いておこうって作戦————」

「越水さん」

 話をやんわりとさえぎって、本村が言った。「残念なお知らせがありまして」

 越水は見ていた。

 不規則に飛び出た毛束、逞しい肩、奥から何かを訴えるような、力強い瞳。

 そうだったか? 初めから、この少年はこの瞳を持っていたか————?

「倉沢君が探偵ごっこに飽きたそうです」

 本村が言うと、越水はぴんと来ないようすで倉沢を見やった。当の倉沢は、事なかれという風に芝生の外に立ち尽くしている。

「事件のあった夜、倉沢君がこの場所で、被害者の須藤茉莉子さんと犯人と思しき人物を目撃したのは、一時三十分ではなく、それより少し早い、一時十五分だったってことが分かったんです。ですから、須藤さんが〝一時三十分までは生きていたであろう〟という見立ては確実なものではなくなり、死亡推定時刻は、一時十五分から二時までの間ということになります。一時三十分から越水さんと一緒にラーメンを食べていたという同僚の方のアリバイも、意味を成さなくなります。一時十五分以降に須藤さんを殺害したあと急いでラーメン屋に向かえば、一時三十分までに着くことは可能ですから————」

「ああ、それはないよ」

 落ち着きはらって、越水は言った。「俺が同僚を飯に誘うためにメッセージを送ったとき、俺、そいつのマンションの前にいたんだ。それが一時二十分。メッセージの履歴が残ってるから、時間は確実だよ。同僚がマンションから出てきたのは、それから少し経ったあとだけど、その間、マンションに入ってった人間は誰もいない。同僚が一時十五分以降に須藤さんを殺したっていうのなら、俺がいた一時二十分よりも前にマンションに戻ってくるなんて不可能だろ?」

 大槻が歩み出て、タブレットの画面を見せた。

「倉沢君が撮影した写真です。日時データは事件があったあの日の夜の、一時十五分。位置データはこの場所。暗くてちょっと分かりにくいんですけど、見やすく加工したものがこちらになります」

 大槻が画面をスライドすると、今度は同じ構図の、鮮明な写真が表れた。

 木々の間で抱き合う二人。一方はまぎれもなく須藤茉莉子。もう一方は————。

「神谷達希さん、ですよね」

 本村はもう、越水ではなく、その隣で立ち尽くす頼りなげな男を見ていた。

「一時十五分に、神谷さんは須藤さんと一緒にこの場所にいた。ということは」

 本村の視線が、越水のもとへ帰ってきた。

「一時二十分過ぎに、越水さんがマンションの前で会っていたのは、いったい誰ですか?」

 容易い問題だ。写真が提示されるなり、落ち着いて、越水は考えていた。

「ちがう、ちがうんだよ。確かに俺が神谷と会ったのは、マンションの前じゃなく、病院のすぐそばだったよ。次の日になって、須藤さんが殺されたって知って————。神谷が疑われてると分かって、俺が警察に嘘を言ったんだ。神谷は本当にやってないんだよ。一時十五分までは須藤さんと一緒にいたけど、俺に呼び出されたから、すぐに別れた。その写真を見ても分かるだろ? とても人を殺してるようには————」

「『いましたにいるんだけどめしくいにいかね?』」

 本村と大槻の後ろから、はっきりとした口調で池脇が言った。「そう送ったらしいっすね。一時二十分に、神谷さん宛てに。その時点で、事件はまだ発覚してなかったはずです。なのに、越水さんはそれを予期していて、わざわざ自分がマンションの下にいるような工作メッセージで神谷さんを夜食に呼び出したってことっすか?」

 越水は見ていた。

 洒落っ気のない短髪、逞しい体、奥から何かを見据えるような、険しい瞳。

 そうだった。初めからそうだった。だから仕事を与えてやったのだ。

 越水は憤っていた。

 使えない。これだから、お前たちは————。

「なんだよ。そんなんで脅してるつもりか? おこづかい目的かなんなのか知らないけど、そんな加工まみれの写真、なんの証拠にもならないよ。何が探偵ごっこだよ。君さ————」

 越水は声を張り上げて倉沢の方を見た。

「こんなことしてるって学校にバレたらヤバいんじゃないの? 親の立場も考えなよ。物も、教育も、何もかも与えてもらえて、いい学校にも入れて、ぶっちゃけ人生イージーモードでしょ? 今ならまだ間に合うよ。賢い選択しとき————」

「もういいんです、越水さん」

 消え入りそうな声で、神谷が言った。

 越水が振り向くと、神谷は肩を垂れてうつむいていた。

「俺、今日、自首するつもりだったんです。ずっとそうしたかった。でも、越水さんの気持ち、拒否できなくて……」

 越水は目を丸くした。だが、それもすぐに戻った。

 そうだな。お前はそういうやつだ。前を向くことも、横を向くこともできない。誰かが肯定しても、味方をしても、うつむいて、そして引き下がる。

「殺したのは、やっぱり、須藤さんが三柴さんを選んだからですか?」

 大槻がたずねた。神谷は首を横に振った。

「俺、ほんとに知らなかったんだ。茉莉子に他に男がいるって。ただ俺は、茉莉子のことが好きで、それで————。自分でも知らなかったんだ。好きな人に、傷をつけたいと思うなんて。でも、茉莉子もそれに応えてくれて……。だから、そういう行為は、俺たちの間では日常的なことだったんだ。あの日は、それが行き過ぎて————気づいたら————茉莉子の息が、戻らなくなってた」

「じゃあ、くらさーさんが『睦み合ってた』って言ってたのは、ある意味正しかったわけだ」

 大槻は本村に投げかけた。本村は頷いた。

「須藤さんの気持ちは、今となってはもう分からないけど、多分、三柴さんに二股を告白したあとも、二人の間で揺れてたんじゃないかな。それで、あの夜は神谷さんに気持ちが傾いた」

「いいけど、やるならよそでやれよ」呆れたように、池脇が言った。

「好きだったんだ、茉莉子のこと」

 弱々しい声で、神谷は繰り返した。「帰りを待ってるの、もどかしくて。だったら自分が迎えに行って、一秒でも早く、そばにいられたらいいって、それで……」

 神谷は顔を上げた。

「越水さんは、俺を守ろうとしてくれただけなんだ。茉莉子が死んだのは全部俺のせいなんだ。越水さんは何も悪くな————」

「ちがいますよ」

 本村は言った。

「神谷さんを庇うふりをして、他の誰かを殺人犯に仕立て上げようとしたんです。事件が発覚したあと、その人が犯人だって、名指しすることもできましたよね。でもできなかった。その人のアリバイを証明したのが、他でもない、志保さんだったから————」

「それだけじゃないよ」

 越水は言った。

 それから、ベンチに身を投げるように腰かけ、頭をかかえた。

「ひどいジレンマだったよ。須藤さんを殺した犯人を捕まえるには、神谷を見限らないといけない。けど、神谷を見限れば、広睦を捕まえられるチャンスを逃すことになる。広睦を警察に突き出せば、今度は志保が責められることになるかもしれない。そのうち、いろんな人の顔が浮かんだんだ。多部ちゃんの悲しむ顔、広睦のじいちゃんとばあちゃんの悲しむ顔、泊先輩の、悲しむ顔————。俺、自分はもっと正義寄りの人間だと思ってたんだよ。身内にも、だめなことはだめだって、しっかり言える人間だと思ってた。でも、誰かを告発するのって、相当頭使うんだな。自分には荷が重すぎるって、その時になって気がついた」



 病院の駐車場に、白のラングフォードが止まった。

「ちょっと待ってて」

 すみれの顔をしっかりと見て、一言そう言うと、三柴は颯爽と車を降りた。

 寂しいな。そう感じる。離れてしまう、この一瞬の時間さえ。

 三柴は職員用玄関に向かって歩き出した。上質な、ダークブラウンのスーツ姿だった。

 少し緊張している。食事会のこともそうだが、志保にどんな顔で会えばよいか、なんと言葉を交わせばよいか。

 志保が、病院を待ち合わせ場所に指定したと、本村君から聞いた。訳ないことだが、人を呼びつけるなど、志保にしては珍しいことだった。いつもは、気を利かせて迎えに行くと言っても、『必要ない』と突っぱねられてしまう。

 志保もきっと、緊張しているのだろう。どんな顔で会えばよいか、なんと言葉を交わせばよいか。たった一人で、僕と向き合うことを避けたのだ。

 職員用玄関の前に越水はいなかった。駐輪場には越水の自転車があったが、その付近にも姿は見えなかった。

 レストランの予約の時間を気にしながら、三柴は庭園を歩き始めた。

 それにしても広い敷地だ。小道が幾多にも分かれているし、ベンチや東屋がいくつもある。療養にはいいだろうが、待ち合わせには不向きだな。

 神経を刺激しない穏やかな風景の中で、不自然なほど鮮やかな一点を見つけた。

 見覚えのある少年の姿。そばには、郷葉のブレザー、ベンチには、知った友人の顔が。

 三柴は息を吸い込んで脚を速めた。

「須藤さんを、生贄にしようとしたんですか?」

 本村が言った。

 三柴の脚は停止した。

「そうだよ。須藤さんと初めて会ったとき、そうなればいい、そうするべきだって、すぐに思った。俺が深入りしなくても、須藤さんを広睦に会わせれば、二人が深い関係になるだろうってことは分かってた。広睦はあんな風だけど、狙った相手は絶対にのがさないし、相手も、あいつの魅力に惹き込まれるって、いつもの流れだから。あの夜、ここで神谷と須藤さんを目撃したのは偶然だったんだ。首を絞めて、微笑み合って。それが〝そういうプレイ〟なんだってことは、すぐに分かった。その時は、俺も写真を撮ろうと思ったんだ。写真を撮って、広睦に見せれば、須藤さんのこと殺すんだろうって思ってた。でも俺、普段写真なんか撮らないし、カメラの機能も分からないから……。須藤さんの顔がはっきり分かるように何度も撮り直してるうちに、神谷が叫んだんだ。『茉莉子、茉莉子』って。心肺蘇生してるのを見て、何が起きたかすぐに分かった。同時に、このまま神谷が人殺しになるのは、誰の利益にもならないだろうと思った。それで、その場で、神谷に宛ててとっさにメッセージを送ったんだ。とにかく、〝今この場所に神谷はいない〟ってことにしなきゃって。俺が顔を見せたら、こいつ、泣きじゃくりながら、『病院に運ぶ』『警察呼ばなきゃ』って言い出して。でも、俺が言いくるめたんだ。『殺すつもりはなかったんだろ』『捕まらないでいた方が、多くの命を助けられる』って。それで、次の日事件が発覚して、警察に、神谷のアリバイを証言して————。でも、時間が経ってよくよく考えてみたら、神谷が一時十分から二十分までの間に須藤さんを殺してマンションに帰ることも、不可能じゃないな、そこを警察に突かれたら終わりだなって、不安になっちゃって。下手なアリバイ工作したな、余計なメッセージなんて送らなきゃよかったって思ったけど、倉沢君の目撃証言のおかげで、警察が重要視したのは一時三十分以降のことだけになったから、ラッキーって思ったよ。まさか写真まで撮られてたとは、思わなかったけど」

「僕たちとここで初めて会ったときも、ラッキーって、思いました?」

 本村は言った。

「まあね。勝手な想像と面白半分の勢いだけで、広睦が不利になる証拠でもつかんでくれれば最高だなって、ちょっとは期待したよ」

「ですよね。じゃなきゃあ、三柴さんは『普段は遅くまで飲んだりしない』とか、『恋人がみんな亡くなってる』とか、友だちの都合が悪くなるような情報、わざわざ話したりしませんよね」

 越水は、自らの言動を振り返るように、ベンチに腰かけたまま黙っていた。

「三柴さんを陥れようとしたのは……」

 静かに、大槻がたずねた。

 越水は顔を上げて大槻を見た。なんの計らいもない、舐めた、利己的な目つきだった。

「あいつはどうかしてるんだよ」

 それから、視線を舗道へ戻した。

「最初から、納得してなかった。泊先輩が死んだとき、もしかしたら、あいつがやったんじゃないかって、少しだけど、そんな考えがよぎった。でも、誰もそんなこと疑わなかった。みんな、目の前の悲劇に夢中になってた。人の死に目をつかまえて、何が『きれいだった』だよ、何が『演じてるみたいだった』だよ。ヴァスロヴィックのあとの地獄絵図は、ただの茶番だったんだ。みんな、泊先輩の死を美化して、悲しんでる自分たちに酔いしれていたかった。何かがおかしいって思ってた。このまま美談にしていいのかって。でも、何もできなかった。その次も、その次もずっと。でもその度に、あいつへの疑惑は深まった。あいつの、三人目の恋人が死んだとき、俺がなんとかしなきゃいけないって思った。でもあいつ、恋人ができると、いつも幸せそうで————」

 越水は手のひらで顔をこすった。

「さっぱり分からなかった。あいつが何を考えてるのか、何がしたいのか、どういう人間なのか。ほんとにこいつがやったのか?って、迷うこともあった。でも、絶対にあいつなんだよ。本当の家族でも、どんなに付き合いが長くても、知り得ない部分があるんだよ。それを説明されたところで、人殺しなんて容認できるわけないけど、でも、あいつの言い分を聞いて、咎めて、ずっと、最後まで寄り添ってやれるのは、俺と志保だけなんだよ」

 ふと、横手を見やると、その男の姿があった。

 よく知った顔。

 美しい型、健康的な肌。

 清潔さ、華やかさ。やわらかな光、まっすぐな瞳。

 ずるいやつだ。

 越水は、笑いだしそうになった。

 こんなにも、出来がいい。なのになぜ。なぜ。

 こんなにもはかなく映る————。

「お前、ここがどこだか分かってるのか?」

 愛情深い教育者のように、落ち着きはらって、じっくりと、越水は問うた。

 三柴は立ち尽くしていた。『ここは病院だ』。それが、正しい答えでないことは分かっていた。

「どういう気持ちで、ここにやって来たんだ?」

 再度、越水はたずねた。「自分の幸せ以外に、何か思うことはあるか?」

 恐るおそる、三柴は答えた。

「……志保、怒ってる?」

 痛快だ。

 越水は歯をむき出しにして、声を出さずに笑いだした。それから、おもむろに立ち上がると、三柴のもとへ歩み寄り、真新しいスーツの襟をつかんだ。

「お前、人の命なめてんのか」

 三柴は、幸福に流され、忘れていた感覚を思い出していた。

 体が、心が、脳が、冷や汗をかいている。

 どこにも逃げ場がない。見つけられない。〝二人〟の求める答えが、解らない————。

 越水は叫んだ。

「何が健康だよ何が栄養だよ! お前が害悪なんだよ!」



 米山志保はシンプルなスーツ姿で病院の敷地内へ現れた。

 駐車場の前の道は、避けるようにして歩いた。


『三柴さんが、郷葉大附属病院まで車で迎えに行くそうです。そこで越水さんとも合流だって』

『わたしはいいよ。自分で行くから。レストランの場所教えて?』

『教えないでくれって頼まれました』

『なにそれ』

『お願いします志保さん』

『志保さん?』

『志保さん!!!!』

『三柴さんの大事な日なんです』

『わかったから日にちと時間教えて』


 なんなのあの子は。

 本村とのやり取りを思い出し、志保は心の中でため息をついた。

 無愛想で生意気な子も嫌いだけど、人当たりのいいふりをして相手を翻弄する子は、もっと嫌い。

 志保の脚に迷いはなかった。

 須藤茉莉子、さん————。一度も会うことはなかったけれど、祐也の同僚であり、広睦の恋人だった人。事件の直後、現場に花を手向けに行った。今はもう、献花台は取り払われてしまったらしいけれど、せっかく来たのだから、もう一度、手を合わせたい。

 目的の場所に、すでに越水と三柴が到着しているのが見えた。おまけに、オープンカフェで尋問を強要された、生意気で面倒な子どもたち。

 何やってんの、まったく————。

 志保はまた、心の中でため息をついた。こんなことでいちいち苛立っていては、社会復帰できる気がしない。

 だが、越水が三柴の胸ぐらをつかんでいるのを見取った瞬間、志保は目の前で、小言やため息などでは切り捨てられない事態が起こっているのだと悟った。

「倉沢君」

 対峙している越水と三柴を見つめながら、本村は言った。「郷葉って土足厳禁?」

「そう。だから何?」

 少しいぶかしみながら、冷めた態度で倉沢は答えた。

「花学は土足校だよね?」

 本村は大槻にたずねた。

「そうだよ。体育のときだけ運動靴持参」

「平田もだよ。だから、登校して靴箱開けたらラブレター、みたいなテンプレ演出は期待できないんだ」

 そう言うと、本村は越水と三柴に向き直った。「八丘高校の演劇ホールは、飲食禁止だったんですよね?」

 越水と三柴は体を向かい合わせたまま、顔だけをしっかりと本村の方へ向けたが、いぶかしんだ表情を浮かべただけで、何も答えなかった。本村はたずねた。

「それだけ衛生意識が高いなら、土足も禁止だったんじゃないですか?」

「……そう、だけど……?」越水が答えた。

 本村は越水を見つめると、一呼吸、間を置いた。その、僅かな時間や、本村の表情が、作り込まれた演出のように、越水には感じられた。

「越水さん、手を離して。ぺーぺーの僕の勝手な想像を聞いてください」

 すでに力の抜けていた手を、越水は三柴のスーツから離した。三柴は乱れた襟元を撫でた。本村は話し出した。

「演劇ホールでの事故があった日、休憩中、施錠されて誰も侵入できないはずのホールの鍵を開けたのは、おそらく、泊さんだと思います」

 越水は一笑した。同時に、泊涼香の人となりを知る由もない男に彼女を責められたような気分になり、腹が立った。

「それはないよ。泊先輩はちゃんとルール守る人だったし。第一そんなことする理由が————」

「一秒でも早く、会いたくて————?」

 光が点ったように、前髪から覗く瞳を、ほんの少し見開かせて、倉沢が言った。静聴していた神谷がぴくりとなって、一同の方へ顔を向けた。

「そう。多部さんが話してました。演劇ホールの裏口は、三柴さんがいたグラウンドと近かったって。午前の稽古が終わって、裏口の施錠が確認されるとすぐ、泊さんは、内側から裏口の鍵を開けて外へ出た。もちろん、泊さんはホールの鍵を持っていなかったはずだから、裏口は開けっ放し。それは、三柴さんと泊さんとの間では、日常的かつ秘密の行為だったんじゃないですか? で、先に練習を終えた三柴さんは、泊さんと鉢合わせにならないように裏口の近くで待機して、泊さんと入れ違いにホールに侵入。もちろん、ピンの跡が残らないよう、スパイクを脱いで。バルコニーのセットに細工をして、行き違いになったふりをしてグラウンドに戻る。休憩が終わったあと、泊さんはまた裏口から戻りますが、そこであることに気づきます」

「靴?」

 あごに手を添え、考え込んでいた池脇がつぶやいた。

「そう。外を歩いた上靴で、ホールに入らなければならなかった。意識の低い部員なら、まあいいかって、そのまま入るんでしょうけど、泊さんはそれができないタイプだったんじゃないですか? 上靴のまま外へ出るのが当たり前になっていたとしたら、普段から、予備の靴か、拭くものを用意しておくはず。でも、その日はそれを忘れてきてしまったとしたら? みなさんのお話から推測する泊さんの性格なら、十分あり得る話です。それで、その日は仕方なく、手持ちのタオルで上靴の汚れを拭いた。だから、そのあと越水さんに————」


〝越水君、私、お願いがあるんだけど……〟


 必死の思いで、その目に焼きつけた。

 おぼろげな記憶が、越水の中で、鮮明に思い起こされた。

 呆然としていた三柴の腕が、背後からつかまれた。振り向きざまに、志保の平手が飛んだ。

 語気ではない、脳まで揺さぶるような、物理的な刺激で、三柴の頰はじんじんと痛んだ。

「広睦なの? あんたがやったの?」

 無駄のない、洗練されたスーツ姿は、志保の性格をよく表していた。だが、志保の顔と声は怯えていた。

 三柴は自身の頰に触れることもできずに立ち尽くしていた。

「ちゃんと話して」

 意識の感じられない三柴の両腕を握りながら、志保は、深く頭を落としてうつむいた。

 たった、二度のことだった。

 越水は、志保が涙したのを、あの、ヴァスロヴィックの上演以来、再び目の当たりにした。

 三柴は恐るおそるめくるように記憶を確かめていた。

 あの時代。身も心も、自分にとって、間違いなく、大きな変化があった、あの時代。

 夏だった。暑かった。

 トラックを駆け抜けた。この体で。

 誰かに叱られた。諭された。

 ジャンクフードを食べた。旨かった。

 そこから、三柴の記憶は最奥へと飛んだ。

 あの時代。孤独だったはずなのに、毎日が特別のようにきらめいていた、あの時代。


〝何か欲しいものはないの? 広睦〟

〝広睦の行きたいところ、どこへでも連れてってあげる〟

〝おじいちゃんとおばあちゃんの言うことを、よく聞いて〟

〝家族を大切にね〟


 父さん、母さん。

 今じゃ顔も声も、ぬくもりも、ぼんやりとしか、思い出せないんだ。

 でもそれはきっと。

 僕がちゃんと、大きくなって、輝かしい思い出を、押し出してしまわなければならないほどに、新しい幸せを、確かな幸せを、この身に、いっぱいに、得られているから、でしょう————?

 あなたたちのもとに生まれて、本当によかった。

 僕には、健やかな肉体が、熱を注げる課題が、快い日々が。

 愛してくれる、家族が————。

「話しなさい広睦!」

 志保は怒鳴った。

 隠していたはずの記憶が、三柴の脳裏に、やかましい体液のようにどばどばと流れた。

「だ、って————」

 途切れとぎれに、三柴は話した。

「メール、くれなかったんだ。泊先輩は、すぐ、道に迷ったりするし、ファンに声をかけられたりするから、待ち合わせに遅れてくることはよくあった、けど、でも、あの日は、『遅れる』って、連絡もくれなかったんだ」

 三柴の弁明に、志保は困惑していた。

「……だから?」

「だから、すごく嫌だった……」

 傷を負わされたように、痛々しげに三柴は言った。

 志保は持ち前の冷静さを失っていた。対して憤気も湧かなかった。これまで幾多も受け止めてきたはずの三柴の言葉が、形も見えないまま、自分の胸をすり抜けていく————。

「……バイト先の、先輩は?」

 少し、躊躇しながら、越水がたずねた。

「————あの人は、すごく偏食だった。一緒にご飯を食べに行っても、あれも嫌いこれも嫌いって。その瞬間、すぐに気持ちが冷めた」

「でも、あれは事故だったでしょ?」

 必死の思いで、志保はたずねた。三柴は首を振った。

「お、俺が、自転車に細工した。いつも大きな坂を下って、バイトに来るの、知ってたから」

「大学のときの先輩が、海で溺れたことがあったよな?」

 深刻そうな顔をして、越水が聞いた。三柴は涙目になっていた。

「先輩は、キスするとき、首に腕を回してくるんだ。積極的過ぎて、ひいた。だから、サークルのみんなと海に行ったとき、人けのない場所に誘って、それで……」

 三柴はごくりと唾を呑んだ。それから、自ら続きを語った。

「新入社員だった頃の先輩は、家に帰っても部屋着に着替えない人だった。俺、そういうのすごく嫌で。一緒に商談に行ったとき、ビルのエスカレーターで後ろから押した」

 三柴は、息をゆっくりと吐きながら胸を押さえていた。

「結婚式の二次会で知り会ったどこだかのお嬢さんにアレルギーのあったナッツを食べさせたのも三柴さんですか?」

 本村がたずねた。三柴はこめかみにじわりと汗を浮かせながら、こくこくと頷いた。

「仕事のことで、辛いことがあって、ちょっと愚痴ったんだ。的確なアドバイスが欲しいわけじゃなかった。ただ、聞いてほしくて、分かってほしくて。なのに、『そんなの寝たら忘れるよ』って。大したことじゃないみたいに言うんだ。すごくぞっとした」

「茉莉子は————」

 おずおずと、芝生の中から神谷がたずねた。「茉莉子のことも、殺そうと思ってたんですか? 俺がいる、せいで————」

 おぼつかない呼吸をしながら、三柴は答えた。

「浮気相手がいたのは、なんとなく気づいてました。でも、僕はそれでもよかったんです。むしろ好きになれた。自分で、自分の力で振り向かせようって、意欲が湧いた。なのに茉莉ちゃん、あっさり自分から、二股のこと告白してきて。しかももう一人の相手とは別れるからって。そんなの、全然、理想じゃなくて」

「それで」

 意識を喪失しかけたように、志保は精気のない表情で三柴を見た。体に力が入らない。視点さえ、気を抜けば揺られてしまいそうだった。「なんで、殺さなくちゃいけないの?」

「だって————」

 やつれた顔を志保に向け、三柴はうったえた。

「生きていられたら、具合が悪いじゃないか!」

 なぜ。どうして。

 もう、誰も問いを投げなかった。三柴はベンチの座面に手をつき、嘔吐いた。

 ばっかじゃない。

 そんな風に、言い捨て、手を貸してやる、つまらない動作が、志保にはできなくなっていた。ただ、神谷と大槻に介抱されながら苦しむ三柴の姿を見下ろしていた。それから、〝もう休んでなどいられない〟と、急に現実的な思考に駆られ、そっと視線をそらした。

 越水は一同に背を向け、舗道を少し歩くと立ちどまった。視界の隅々にまで広がる、安らかで美しい庭園が、目に入らなかった。

 神谷は三柴の背中をさすりつづけた。三柴は気持ちを押し殺さずに咽び泣いていた。

 冷静を取り戻した志保も泣いていた。越水も、ようやく、泣いた。

 有村すみれは、白のラングフォードの助手席で、甘い夢を見ていた。

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