20

 特別な日だった。

 越水はナース服を脱ぐと、清潔感のあるワイシャツに袖を通した。

 スーツでも持ってくればよかったか? いや、両家の顔合わせじゃあるまいし。ただ、友人の婚約者を交えて食事をするだけだ。かしこまった会じゃない。

 越水の指先が、ワイシャツのボタンを撫でた。

 判然としていなかった。いつかこんな日が、来るような、来ないような————。

 迫りくる恐怖に、祝福を捧げる準備をしている。そんな矛盾だらけの想像が、ずっと昔から、頭の中を右往左往していた。

 分からない。解らないんだ。

 あの時から、ずっと————。

「ワイシャツなんて珍しいですね」

 着替えを終え、更衣室のイスにぼうっと腰かけていた神谷が発した。

「あー、結婚するんだよ」

 のろのろとボタンをかけながら、越水は気まずそうに返した。「——友だちが……」

 須藤さんの恋人だった友だちが。お前の恋人を殺したかもしれない友だちが。そいつが、今、幸せになろうとしているんだよ。

 神谷は野暮ったいメガネの奥から、越水の戸惑いを察した。

「友だちって、茉莉子の……?」

「うん……なんかごめん。でもそいつ、結婚する相手とは、須藤さんが亡くなったあとに知り合ったんだって。急な話で、俺もびっくりしたけど、本気らしくて……」

「それは、全然いいですけど……」

 事もなげな口調で言いながら、神谷は怪訝な顔を浮かべた。「まさかその格好で結婚式行くんですか?」

「ちげえよ。今日はその婚約者の人と食事会」

「なんか、顔合わせみたいですね」

「そんなかしこまったものじゃないと思うけど……どうなんだろ」

 神谷に指摘され、越水は少し不安になった。尽くしたがりの広睦のことだ。毎度のように『カジュアルな店』と言いながら、洒落たレストランを予約しているにちがいない。

 越水は鏡に向かい、がしがしと頭をかき乱した。

 広睦が、病院まで車で迎えに来ると言った。俺は自転車で一人で店まで行くと言ったが、俺たちを病院で拾えという、志保からの指示らしい。

 志保のやつ。

 越水は心の中でため息をついた。

 広睦と、広睦の婚約者と、三人だけの状況になるのが、気まずいのだな————。

 越水はふと違和感を覚え、大人しくイスに腰かけている神谷を見やった。

「お前今日ずいぶんのんびりしてんな。いつも早着替えで誰よりも先に帰るくせに」

「はあ……なんか……。なんとなくです」

 越水の方を見上げてはいるが、はっきりとしないようすで神谷は答えた。

 越水にとって、神谷のそのぼんやりとした返答は、今更苛立つほどのことではなかった。神谷は時折、二人きりで食事をしに行くほどの間柄の越水に対しても、さりげなく幕を引いて内面を隠すような、自身のつかみどころを腹に抱いて死守しようとするような、閉鎖的な態度を取ることがある。

「なあ、俺、疲れてるように見える?」

「どうですかね。俺には普通に見えますけど」

「普通って……」

 手応えのない返答に、越水は肩を落とした。「俺って普段どんな感じ?」

「優しくて頼れる感じですけど、怒らせたらやばいんだろうなっていう……」

 反省を促された子どものように、行儀よくイスに収まりながら、包み隠さず神谷は答えた。

「怒ったことないだろ、俺」

「イメージですよ、イメージ。こないだ浅山あさやまさんたちが休憩室で俺と茉莉子の陰口叩いてたとき、越水さん釘刺してくれたじゃないですか。すごく有り難かったですけど、ぶっちゃけあの一瞬でスタッフステーション凍りついた感じでしたよ」

「あれだって、怒ったうちに入らないだろ?」

 納得いかないようすで、越水は着替えを再開した。

「やっぱり、そういうのが、理想的なんですかね」

 突然、うつむきながら、しみじみと神谷は言った。

「説教できる間柄ってこと?」

「いや、あの……。親兄弟みたいに、祝福してくれる友だちがいるって……」

 神谷は、いつの間にか話を元に戻していた。「俺、友だちいないんで。もしも茉莉子が生きていたとしても、そういう意味で、幸せにしてあげられたのかなぁって……。病棟では、俺と茉莉子が、付き合ってることみんなに秘密にしてたってことになってますけど、厳密に言うと俺が、プライベートなこと、わざわざ職場の人たちに報告する必要なんてないと思ってたからで……。家族にしてもそうですよ。うち、兄がいるんですけど、最近結婚したらしくて。でもそれが事後報告で、うちの両親も、『もういい歳なんだから好きにすれば』って。俺が結婚しても、きっとこんな反応なんだろうなって、想像がついて。昔っからそうなんですよ。自分の身に起きたこととか、普通なら祝福してもらえるようなこと、人に報告するのって、厚かましいと思いません? 『だから何?』って、言われそうで。特に、俺みたいなやつのことは……」

 明確な意思を持ちながら、それを語る神谷の勢いは、怖気づいたように徐々に失速していった。

 越水は、スニーカーを手に神谷を見つめていた。それから、いそいそとそれを履きだした。

「でもお前さ、周りに受け入れられたとしても、心開いて関係深めようとかって気もないんだろ?」

「まあ、そうですね……」

 いじいじと、神谷は答えた。

「俺が飯食いに行くの誘うのやめたって大してなんとも思わないだろ?」

「ああ……まあ……はい……」

「いいよ、それは分かってるから」

 きっぱりと言い、越水はバッグを肩にかけた。そして、神谷の方を向いた。

「お前は壁作りすぎだと思うけど、でも、お前のやり方も、少しは分かるよ。人と深い関係を築くのって、幸せだろうけど、その分神経も使うし。お前みたいに最初から割り切って、深入りしない、さらけださないでいた方が、楽っちゃ楽だよ」

 神谷はメガネを伏せたまま、黙って越水の話を聞いていた。

「お前のその閉鎖的な部分を、須藤さんは否定しなかったわけだろ? お前がそういう性格だって、最初から分かってたはずだし、お前に合わせて、付き合ってることもみんなに隠し続けてたわけだし。お前に社交的になってほしいとかは、求めてなかったんじゃないの? 人それぞれの、やり方があるよ。周りと少しちがってたって、お前たちが噛み合ってれば、それでよかったんじゃないの?」

「……そう……ですかね……?」

 眉をひねりながらも、神谷は越水の意見を少しずつ呑み込んでいた。

 ここぞとばかりに、越水はたずねた。

「ずっと気になってたんだけどさ、お前と須藤さんって、どういう経緯で付き合うことになったの?」

「経緯?」

 神谷は顔を上げた。不思議がった表情は、童顔な顔立ちを、より一層幼く映してみせる。

 気を払いながら、越水は続けた。

「いや、浅山さんたちじゃないけど……お前と須藤さんが意気投合してる図って、全然見えてこなくて。仕事以外で話してるところも、ほとんど見たことないし」

「俺が、告白したんですよ、普通に」

「好きですって?」

「……そんな感じです……」

「お前が?」

「はい……」

 自信のなさそうに、神谷はまたうつむいた。越水は、神谷という男の性質を、改めて見立て直していた。

「そこら辺の度胸はあるんだな」

「……度胸とは、ちょっとちがう気がします」

 ぬるぬると吐き漏らすように、神谷は言った。

「茉莉子のこと、初めて会ったときから、好きで好きで、しょうがなくて……。俺、誰かを本気で好きになったことなんてなかったんで、自分にもこういう気持ちがあったんだって、ちょっとびっくりしたくらいで。絶対に一緒になりたいって、ただそれだけだったんです。気持ちを伝えるのが恥ずかしいとか、嫌われるだろうとか、そういうネガティブな思いも多少はありましたけど、かまってられなかったです。それで、茉莉子があっさりOKくれて……。俺、これでも、自分のこういう性格は社会人としてだめだろうって自覚はありましたし、時々、自問自答することもあったんですよ。でも、茉莉子と付き合いはじめて、気持ちが軽くなったんです。もういいやって。人並みの人間関係築けなくても、茉莉子がいれば、それ以外の人間なんて要らないなって、本気で思ってました」

 神谷が頑なにさらけださず、守り続けているものは、自身の思想や感情ではなく、しんみりとしているが手厳しい一本の糸のようなものだと、越水は思った。並大抵のことでは震えもしないが、ひとたび熱い火種を垂らされれば、こちらこそ、放しはしないというように、その身がちぎれてしまうこともいとわず、轟々と、燃える————。

「三柴さん、でしたっけ? 茉莉子の、もう一人の……」

 顔を上げて、神谷はたずねた。越水は頷いた。

「茉莉子が死んだのは、俺がしっかりしてなかったせいなんです。だから、三柴さんや、越水さんのことを責めるつもりはありません。衝撃的な出会いなんて、いつやって来るか、分からないもんですよ。実際俺も、自分は独りで生きていくもんだと思ってましたし。大事な人と一緒になるのに、時期が悪いとか、早過ぎるとかはないですよ。だから三柴さんも、茉莉子のことはすっぱり忘れて————」

 神谷は、今は燃え尽きて、ちぎれた糸を、大事そうに抱いていた。

「お幸せにって、伝えてください」

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