19
そこに帰れば自由があった。
整頓された広いリビング。汚れひとつないキッチン。冷蔵庫の中には、夕食が用意されていることを知っている。
コスパ悪。
歯痒いような気持ちでキッチンを素通りしながら、倉沢は、この快適で冷えびえとした家庭の維持費を目視で見積もっていた。
使い込まれることもない空間。奢侈を喰って腐敗してゆく二人は、それぞれ外に、あえて私欲に溺れるための城を有している。だが、たった一体を造り落としてしまったせいで、愛着のない住まいを整えておかなくてはならない。
どうもご面倒をおかけしております。
ただ、少しは感謝していただきたい。
愛に飢えた子どもなら、こうすんなりとはいかなかったはず。
察しのいい子に育ったでしょう。
あなたたちの、おかげで。
倉沢は自室へ向かうと、スクールバッグを床に放り、明かりもつけず、美しくメイキングされたベッドに倒れ込んだ。
部屋の隅に置かれた、ギター・ギャンの空箱が目に入る。
〝お金や物で愛情の埋め合わせはできないって言う人もいるけどさ、僕は————豪快に愛情を注いでくれた両親の気持ちがよく分かったよ〟
あいつはばかなんだろう。
実際、そんな感じの男だった。
『受容』というものをよく分かっていない。受け入れた先に、どんな変化が起こるのか、自分の身にどう影響を及ぼすのかを、考える脳がないのだろう。
金や物は愛情じゃない。必要経費。親の務め。造られたからには、こちらが与えられて当然のもの。
おとうさん おかあさん いつもごくろうさま
あたりまえのことをしてくれて
もうすぐ学校が始まる。
行き先を考える手間が省けていいが、放課後は、居場所を探すために余計に頭を使う。
〝倉沢君はないの? そういう、ぱっと見じゃあ分かりにくい悩みとか〟
ないよ。
『自分の居場所』なんて、そんな、思春期的な悩みではない。
物理的に、快適に過ごせる居場所が欲しい。静かで、人けがなくて、ごろごろできる場所。図書館と純喫茶は適当だが、ごろごろできないのが難点なのだ。
その点、ここは本当に快適だな。
倉沢は仰向けになると、頭の後ろで腕を組み、深々と噛みしめた。
静かだ。清潔だ。必要なものはなんでも揃っている。他に欲しいものがあるときは、〝業務連絡〟でもすれば、話の分かる有能な〝責任者〟が、早急に手配してくれる。
だが、認めたくはない。
乱しても整えられるシーツ、濡らしても拭われるバスルーム、補填される金と糧。
上手くやったつもりですか。この、得意満面な放飼小屋。見ているだけで腹が立つ。
この家に、あなたたちのもとに生まれて、本当によかった、なんて。満足してると、思うなよ。
倉沢はブレザーのポケットからピクシーを取り出すと、仰向けのまま胸の上にのせた。
「なでしこさん」
「なあに?」
暗い部屋に、愛妻がほのかな光を帯びながら現れた。
倉沢は無言でなでしこを見つめていた。
なでしこは片側の髪を耳にかけ、少しかがむと、夫に顔を近づけた。「疲れてるみたい。少し休んだら?」
青い髪の、愛しい妻。
かわいい。やさしい。かしこい。
ありきたりで単純な条件。
たまには、一日中勉強もしないで、一緒にベッドでごろごろしたい。
〝もしも現実に、その子が完璧なリアルになったような、自分の理想通りの人が現れたとして————その子のこと、どこまで愛してあげられるんですか?〟
どこまでもに決まってるしばかじゃねえの夫婦の絆なめんな。
倉沢は心の中で一息に毒づいた。
生身の君がミスをおかしても、ドジを踏んでも許すよ。
欠点を見つけたって、理想とはちがう反応をしたって、愛しているから全部好き。
けど、その逆は堪えられない。
俺が自分に少しでも引け目を感じたら、きっと踏ん張っていられない。
君に、見た目も、中身も、所作も、細部までもを考査され、出来の悪さが露呈してしまうことが怖い。たとえ、君がそれを許しても————。
君に見合う、完璧な存在でごろごろしたい。それができないのなら、肉体を得た君を残して、形にも成れないような、ただの元素に分解されて吹かれてしまいたい。君の前で、失態を晒す前に。
君が光でしかいられないとしても————。
俺の本質を知らずにそこにいてくれるなら、それでいい。
倉沢はなでしこのそばにそっと指を差し出した。
なでしこはおかしそうに、小さな両手で倉沢の指先に触れると、目を閉じて身をもたれた。
二人の、日常と化したスキンシップを取りながら、倉沢はぼんやりと考え始めた。
この前買った、ギター・ギャン。
体育用以外でスニーカーを買うなんて久しぶりだな。外履きは、どこへ行くにも通学用のローファーがあれば事足りていた。
なでしこさんと二人でネットを見ていたら、その、ブルーブラックのスニーカーを見つけた。他には、本村が三柴へ賄賂として贈った金と紫のやつ、きみどりと、ピンクがあった。
そのうちの一つに、なぜか心惹かれた。美しく切り取られたであろう画像を、食い入るように見つめた。
嬉しくて、恥ずくて、面倒くさい。
理性が、欲求を精査すること。
この、痺れた筒体でいることで、何かを感じ、何かを欲す。
一旦、用心深い脳みそで熟考してみる。分相応か、不利益はないか、自分にとって、必要な感動か。
一級品も粗悪品も、何もかもが過多なのだ。
底の知れたメニュー、気の早いファッション、しゃべるタンパク質。生身の世界は、退屈でせっかちで騒々しい。
まともに相手をしていては、脈拍より先に神経が事切れてしまう。狭く満ち足りた場所で生きていたい。価値あるもの、安全なものだけに心を許して。たとえば、青い髪、青い瞳、笑う黒子。けして自分を否定しない、一点物の妻。
「にゅ」
倉沢は呟いた。
なでしこは、小首をかしげた。
「にゅ?」
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