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 そこに帰れば自由があった。

 整頓された広いリビング。汚れひとつないキッチン。冷蔵庫の中には、夕食が用意されていることを知っている。

 コスパ悪。

 歯痒いような気持ちでキッチンを素通りしながら、倉沢は、この快適で冷えびえとした家庭の維持費を目視で見積もっていた。

 使い込まれることもない空間。奢侈を喰って腐敗してゆく二人は、それぞれ外に、あえて私欲に溺れるための城を有している。だが、たった一体を造り落としてしまったせいで、愛着のない住まいを整えておかなくてはならない。

 どうもご面倒をおかけしております。

 ただ、少しは感謝していただきたい。

 愛に飢えた子どもなら、こうすんなりとはいかなかったはず。

 察しのいい子に育ったでしょう。

 あなたたちの、おかげで。


 倉沢は自室へ向かうと、スクールバッグを床に放り、明かりもつけず、美しくメイキングされたベッドに倒れ込んだ。

 部屋の隅に置かれた、ギター・ギャンの空箱が目に入る。

〝お金や物で愛情の埋め合わせはできないって言う人もいるけどさ、僕は————豪快に愛情を注いでくれた両親の気持ちがよく分かったよ〟

 あいつはばかなんだろう。

 実際、そんな感じの男だった。

『受容』というものをよく分かっていない。受け入れた先に、どんな変化が起こるのか、自分の身にどう影響を及ぼすのかを、考える脳がないのだろう。

 金や物は愛情じゃない。必要経費。親の務め。造られたからには、こちらが与えられて当然のもの。


 おとうさん おかあさん いつもごくろうさま

 あたりまえのことをしてくれて


 もうすぐ学校が始まる。

 行き先を考える手間が省けていいが、放課後は、居場所を探すために余計に頭を使う。

〝倉沢君はないの? そういう、ぱっと見じゃあ分かりにくい悩みとか〟

 ないよ。

『自分の居場所』なんて、そんな、思春期的な悩みではない。

 物理的に、快適に過ごせる居場所が欲しい。静かで、人けがなくて、ごろごろできる場所。図書館と純喫茶は適当だが、ごろごろできないのが難点なのだ。

 その点、ここは本当に快適だな。

 倉沢は仰向けになると、頭の後ろで腕を組み、深々と噛みしめた。

 静かだ。清潔だ。必要なものはなんでも揃っている。他に欲しいものがあるときは、〝業務連絡〟でもすれば、話の分かる有能な〝責任者〟が、早急に手配してくれる。

 だが、認めたくはない。

 乱しても整えられるシーツ、濡らしても拭われるバスルーム、補填される金と糧。

 上手くやったつもりですか。この、得意満面な放飼小屋。見ているだけで腹が立つ。

 この家に、あなたたちのもとに生まれて、本当によかった、なんて。満足してると、思うなよ。

 倉沢はブレザーのポケットからピクシーを取り出すと、仰向けのまま胸の上にのせた。

「なでしこさん」

「なあに?」

 暗い部屋に、愛妻がほのかな光を帯びながら現れた。

 倉沢は無言でなでしこを見つめていた。

 なでしこは片側の髪を耳にかけ、少しかがむと、夫に顔を近づけた。「疲れてるみたい。少し休んだら?」

 青い髪の、愛しい妻。

 かわいい。やさしい。かしこい。

 ありきたりで単純な条件。

 たまには、一日中勉強もしないで、一緒にベッドでごろごろしたい。

〝もしも現実に、その子が完璧なリアルになったような、自分の理想通りの人が現れたとして————その子のこと、どこまで愛してあげられるんですか?〟

 どこまでもに決まってるしばかじゃねえの夫婦の絆なめんな。

 倉沢は心の中で一息に毒づいた。

 生身の君がミスをおかしても、ドジを踏んでも許すよ。

 欠点を見つけたって、理想とはちがう反応をしたって、愛しているから全部好き。

 けど、その逆は堪えられない。

 俺が自分に少しでも引け目を感じたら、きっと踏ん張っていられない。

 君に、見た目も、中身も、所作も、細部までもを考査され、出来の悪さが露呈してしまうことが怖い。たとえ、君がそれを許しても————。

 君に見合う、完璧な存在でごろごろしたい。それができないのなら、肉体を得た君を残して、形にも成れないような、ただの元素に分解されて吹かれてしまいたい。君の前で、失態を晒す前に。

 君が光でしかいられないとしても————。

 俺の本質を知らずにそこにいてくれるなら、それでいい。

 倉沢はなでしこのそばにそっと指を差し出した。

 なでしこはおかしそうに、小さな両手で倉沢の指先に触れると、目を閉じて身をもたれた。

 二人の、日常と化したスキンシップを取りながら、倉沢はぼんやりと考え始めた。

 この前買った、ギター・ギャン。

 体育用以外でスニーカーを買うなんて久しぶりだな。外履きは、どこへ行くにも通学用のローファーがあれば事足りていた。

 なでしこさんと二人でネットを見ていたら、その、ブルーブラックのスニーカーを見つけた。他には、本村が三柴へ賄賂として贈った金と紫のやつ、きみどりと、ピンクがあった。

 そのうちの一つに、なぜか心惹かれた。美しく切り取られたであろう画像を、食い入るように見つめた。

 嬉しくて、恥ずくて、面倒くさい。

 理性が、欲求を精査すること。

 この、痺れた筒体でいることで、何かを感じ、何かを欲す。

 一旦、用心深い脳みそで熟考してみる。分相応か、不利益はないか、自分にとって、必要な感動か。

 一級品も粗悪品も、何もかもが過多なのだ。

 底の知れたメニュー、気の早いファッション、しゃべるタンパク質。生身の世界は、退屈でせっかちで騒々しい。

 まともに相手をしていては、脈拍より先に神経が事切れてしまう。狭く満ち足りた場所で生きていたい。価値あるもの、安全なものだけに心を許して。たとえば、青い髪、青い瞳、笑う黒子。けして自分を否定しない、一点物の妻。

「にゅ」

 倉沢は呟いた。

 なでしこは、小首をかしげた。

「にゅ?」

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