18
ビルを下りて出てくると、愛理は大ぶりのゴールドのピアスを外し、バッグの中へ投げ入れた。
黒のシースルーのカットソーと、ふわりと舞うベージュのロングスカート、ベルト付きのフラットサンダル。愛理はストロベリーブロンドをかき上げると、気楽に、泳ぐように、夜の雛町を歩いた。
近頃は、仕事のあとに言い知れない物足りなさを感じていた。
3MEに勤め始めて二年が経つ。店に対して不満はない。前に勤めていたサロンよりも、自由で、落ち着いていて、金銭的にも精神的にも安定が確立されている。
新米だった頃は、上手くなりたい一心で、厳しいと評判のサロンを探しては進んで勤めた。
自信があった。指名の数を見て、顧客の声を聞いて、それを確信した。
だが、踏みにじられてしまった。
成果を挙げた分だけ手元に返る、『完全歩合』とは体のいい求人詐欺だった。若かったその頃は、憧ればかりが先行し、世の中の狐狸的な部分が見えていなかった。技術もセンスもないやつらが、粗探しにだけ目を光らせ、声高らかに自分をなじる。
ある日、大切にしていたはずの着せ替え人形が、ドレッサーの前で埃をかぶっていることに気がついた。
幸い、自他共に認める気の強い人間だった。どんな理不尽な扱いを受けてもへこたれはしなかった。
戦うこともできた。だが、他人や環境を正してやろうと思うほどの、エネルギーがなかった。
そこからは自分を大事にしようと決めた。だから、従業員を育て、守り、活かしてくれる、胸を張って『優良企業』と言える3MEに出会えたのは幸運だった。
そんな中、湧き上がるこの物足りなさに、どんな理由を当てはめようか、帰宅中、歩きながら考えるのが日課になっていた。
充実に、退屈しているのだろうか。いや、圧迫業務や競争社会にはもう戻りたくはない。独立。やれないこともないが、踏み切れるだけの欲もない。自分を、変えたいか? どんな風に? 今は、夏に向けて髪色を変えたい。あいりにもそうさせた。悩むほど迷っていない。
愛理はふと、先日施術した客の、連れのことを思い出した。
左右対象にはねた寝癖頭。あいりに負けず劣らず、ずいぶんとドレスアップされたカレンドールを抱いていた。人形の名は『メイリス』といった。
綺麗なものを造るのは、それほど難しいことじゃない。
だが、特別なものを造ることは難しい。
特殊なものであろうとすればするほど、類型となっていく滑稽さ。
自分はネイリストとして、特別なものを造りたいんだろうか。それも、他の誰ともちがう、『らしさ』を、表現できるような。
そんな風に考えながら、愛理はふと、前をゆく男の姿に目を留めた。
「三柴せんぱーい!」
愛理はかけ寄って、その背中に飛びついた。
「え?」
三柴は至極驚いて、おぶるように愛理を背中にくっつけながら振り向いた。「ああ……びっくりした。多部ちゃんか……」
「先輩どうしたんですか? 雛町なんて来るの珍しいですよね? 来るなら言ってくれればよかったのに」
当然のように腕にもたれながら、愛理はあざとげな瞳で三柴を見上げた。
「うん。最近は、ずっとこっちにいて……」無邪気な腕を振りほどかずに、三柴は答えた。
「え? 越してきたんですか?」
「ううん。今付き合ってる子が、雛町に住んでるんだよ」
「なるほど」
今付き合ってる子って?
汚点のない清々しい顔で納得しながら、愛理は不審を抱いた。前の彼女が殺されて、まだ一ヶ月も経ってないんじゃなかった————?
「でも、会えて丁度よかった」
愛おしむように、三柴は微笑んだ。「多部ちゃんには、直接言いたかったんだ」
「何をですか?」
向けられたその笑みを、さりげなく、呑み込むように、愛理は聞いた。見惚れてしまうなんて、勿体ない。
「その彼女と、結婚することになったんだ」
「え? ほんとに? 先輩ついにですか?」
「うん、ほんと、ついに」照れくさそうに、三柴は首を垂れた。
「やばーい! おめでとうございます!」
愛理は人目もはばからずに甲高い声を上げた。
三柴はほっとしていた。喜んでくれなかったらどうしよう。自分は、誰からも祝福されないのではないか。そんな不安を抱きつつあった。
「うん……なんかごめんね。こんな道端報告で」
「全然いいです。でも、ちょっと寂しいかも。今までみたいに二人でご飯とか行けなくなっちゃうんですよね?」
愛理はわざとすねた表情を作った。
「ああ、そこら辺は大丈夫かも。彼女すごく寛容な人だから。高校時代から妹みたいにかわいがってる子だって紹介したら、きっと理解してくれるよ」
「先輩、そんなこと言ってるとすぐに愛想尽かされちゃいますよ。何も言われないのが一番恐いんですから」
「え? まずい? 今一緒にいるのもまずい?」
「そういうわけじゃ、ないですけど……」
三柴といえば、昔からこういうところがあった。愛理は、いつも遠目で見守りながら、はいはいと見過ごすことにしていた。
浮気性とはちがうのだ。三柴は華だった。深い関係になろうとたくらむ者はもちろん、そうでない者も、平凡な虫が、蜜も吸わずに妖花を囲うように、なるべく、三柴の取り巻きでいたいと願う。その点、三柴が過去の恋人たちと、嫉妬が原因で揉めたという話は聞いたことがなかった。どの相手も、『寛容』というのは間違いないが、それ以上に、虫など取るに足らないような、自信と魅力にあふれていた。
「多部ちゃんはどうなの? 彼氏とか」
「私だって欲しいですよう。当たり前じゃないですか。ぶっちゃけ顔はかわいいから問題ないと思うんですけど」
「うん。そうだね」
前を向いて歩きながら、癇も跳ねない平然とした顔で三柴は答えた。
「出会いがなさ過ぎるんですよ。職場は、トラブル防止でお客様とのプライベートなやり取り禁止だし、私、マッチングアプリとかも嫌いだし」
「祐也とかどう? あいつ付き合ったら重すぎるタイプかもしれないけど、いいやつだよ?」
「やです。もれなく米山先輩が小姑みたいについてきそうだし」
「ああ、確かに」
志保のことを快く思っていないということを、愛理は三柴の前でも隠さなかった。三柴は、二人の間で長いこと続く、衝突に値しないが相容れぬ煩わしい関係を知っていた。
「先輩の奥さんになる人、絶対苦労すると思いますよ」
堅い表情で愛理は言った。
「え、俺、そんな頼りないかな?」
「そうじゃなくて。だって、絶対米山先輩にいびられるじゃないですか。超可哀想。私、彼女さんの味方だって、伝えておいてください」
「うん、伝えとく」
半分冗談と受け取り、三柴は軽く笑って流した。
「じゃあ、入籍したらまた連絡ください」
すでにクローズの看板がかけられている、見慣れたパン屋のある交差点で、愛理は立ちどまった。
「送るよ?」
不思議に思いながら、三柴は言った。この角を曲がれば、愛理の住むマンションがある。道順も把握している。いつも、自然に、当たり前のようにマンションまで送り届けていた。
「いいですよう。これが原因で破談とかになったらやですから」
「怖いこと言わないでよ」
「とにかく、いいですから」
「うーん。分かったよ。じゃ、気をつけてね」あまり気の済まないようすで、三柴は言った。
「はーい」
屈託のない顔で、愛理は答えた。
三柴先輩が好き。
陳腐な恋愛感情なんかじゃなく、一人の、人間として。
無意識に、他人に気を持たせる人のことを、よく思わない人もいる。
でも、私は三柴先輩が好き。
奇麗な人。可愛い人。輝く人。
強い人。弱い人。哀しい人。
凡庸な人では、心に留めておく気にもならない。
いい機会かもしれないと、愛理は思った。
この、いじらしい、青春を引きずったような関係を断つには、いい機会かも。
こんなに、二次元的な魅力を持つ人に、そばにいられたら、私はきっと、生身の人間を選べない————。
「三柴先輩」
愛理は後ろで手を組み、かわいい、妹に徹して言った。
「彼女のこと、大切にしてあげてくださいね」
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