16
「え?」
顔を上げ、低いトーンで、志保は返した。
「だから、祐也の知り合いなんだって、その子が」
ソファの定位置に丸くなり、志保の淹れたコーヒーをふうふうと冷ましながら、三柴は言った。
厄介ごとでも見取るように、志保は目を細くした。
「もしかして、郷葉の制服着たすごい生意気くさい子?」
「いや、俺にはちょっとおしゃれなんだかよく分かんないような服着た子」三柴はコーヒーを味わった。「のほほーんとしてるけど、割と礼儀正しかった」
「ああ、そっちね」
それはそれで面倒くさい。そう思いながら、志保はすまし顔に戻って雑誌のページをめくった。
「え、志保も知ってる子なの?」
「ちがう。騙されたの」
「は?」
「いいの。こっちの話」
「ふうん」
三柴はまた、コーヒーを口にした。
志保が適当に話を打ち切ったり、言葉を濁したりしても、追及することはほとんどない。しつこい、とどやされるのが恐いのだろうと、周囲からは思われている。それも、あるにはあるが、一番の理由は、干渉を後回しにできる、強くも弛緩したこの関係のせいだった。
志保はキッチンの前のテーブルで旅行雑誌を読んでいた。現実逃避と言われても仕方がないが、近頃は参考書や料理本を見る気にはなれなかった。
志保の姿勢はぴんと正しく、表情は真剣そのものだった。小説を読むときも、ライフスタイル誌を読むときも、志保はいつも、勉学にでも励むように真摯に向き合う。
三柴はインテリアを排除された広い壁をぼうっと見つめていた。この部屋で飲むコーヒーの味、視界の隅に映る赤に、今更何を感じることもない。
すみれといるときとはちがう、なまくらになるような安らぎを感じていた。何かしら小言を言われると分かっていながら、志保の部屋に来ると、三柴はいつもほっとした。
二人の間に会話はなかった。
時々こうした、緩やかな時間が交差するような、とりとめのないひとときが生まれる。越水がいるときもそうだった。
そばにいながら、一人になれる。散漫で、密接な関係。
「志保ぉ」
「今日ご飯食べてくの?」
「俺、結婚するんだ」
「誰と」
「…………。今、付き合ってる人」
誤報を聞いた。志保は瞬時にそう思った。
「誰と」
「この前知り合った人」
「この前って?」
「先週、くらいに、知り合った」
志保は寒気を覚えた。だが、冷静にならなければいけなかった。
「あんた、今の自分の状況分かってる?」
「分かってるよ。でも、本気なんだ」
意気地のなさそうに、うつむきながら小さく、三柴は答えた。
「本気なわけないでしょう!」
ぴしゃりと、志保は言い放った。
三柴は動揺して顔を上げた。志保は嫌悪をはらんだような目で、三柴のことを見ていた。
〝ばっかじゃない〟
そう切り捨て、説教を垂れ、そして、最後には受け入れてくれるのだろう? 三柴は信じていた。〝あんたって、ほんと〟————。
だが、志保はまくしたてた。
「あんたなんか、誰と付き合ったってうまくいかないに決まってる」
「なんで」
「結婚て何? 意味分かんない。どうしてそんなに自分に自信が持てるの? どうしてなんにも学習しないの?」
「なんで————」
脳が冷や汗をかきながら、せわしなく動いていた。
いったいどこで間違えたのだろう?
ばかげたことも、つまらないことも。反意や叱責でさえ、食わせ合える関係なはずだった。
だがなぜ、志保は今————。
僕を拒否しようとしている————?
はらはらと何かを喪失してしまうような恐怖におそわれ、三柴は逃げるように慌ただしく部屋を出た。
志保はイスから立ち上がってみたものの、しばらくの間、キッチンから動けなかった。
放心状態になれたなら、どんなに楽だろう。だが、落ち着くことは苦手だった。クールだ、冷静だと言われるが、心はいつも張り詰めている。頭の中は、整頓に追われている。
志保はソファへ歩み寄ると、すらりとした体を小さくたたみ、ローテーブルに置き去りにされたマグカップを手に取った。
まだ少し、中身が残っている。ふてぶてしいネコのイラストに、なぜか後悔を覚えている。なぜ、柄にもなく、こんなふざけたものを選んだのか。
いったいどこで間違えたのだろう?
志保はテーブルに額をこすりつけ、涙した。
私の目の届かない場所で、いったい何が起こっているの?
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