14

 三柴は雛町の細い路地を歩いていた。

 昌浦まさうらのおじさんとおばさんは相変わらず元気だった。

 学生時代、僕があれこれ注文をつけてできた特製サラダのレシピを、二人は覚えていてくれた。

 あの頃のことを思うと、とても厚かましく、恥知らずなやつだったと、自ら穴を掘ってうずくまりたくなるほど赤面してしまう。こんな男のことを、昌浦の両親も、志保も祐也も、じいちゃんとばあちゃんも、よく見放さずにいてくれたものだ。

 思いがけない出会いもあった。

 この歳になると、十代と接する機会というものがなかなかなくなってしまう。僕としては、ちがう世代や、ちがう趣向の人たちとの会話に、興味はあるのだが。

 自己満足にしかなり得ないだろうと、情けなさを覚えてしまう。

 驚きがあるだろう、発見もあるだろう。物の見方や考え方が、変わることがあるかもしれない。そうした自分に、のぼせ上がることも————。

 だがその先。信頼を得、深い関係を築くのは難しい。そういったことは、祐也の得意分野だ。

『面倒見がいい』というだけでは、どうにもならないことがある。

 もっと正確に、言いたかったことは————。

 器用で、達見で、なんて、力量のある————。でなければ、力になると手を差し伸べても、つかまれることはないだろう。

 ナインティーズ————なんだっけ。紫の、スニーカー。手に入ると、いいな。

 僕はあの子に、何を返してやれるだろう。何を求められるだろう?

 祐也はどうして————。

 なぜ唐突に、泊先輩の話をしたんだろう。

 夢に見たから? いや、先輩の話をする機会なら、今までに何度もあったはずだ。ただ、僕に気を使って、祐也も志保も、口にしようとはしなかった。その優しさが、僕には分かった。

 泊先輩————。

 はかない魅力で、造られた人。

 先輩がそう言うので、なんとか、頑張って、本人の前では『涼香』と呼んでいたけれど、皆と同様、僕の中ではいつまでも、先輩は『泊先輩』として残っているらしい。

 もっとずっと見ていたかった。

 あの頃の僕はまだ子どもで、恋人らしいことは何一つしてやれなかった。


〝三柴君〟

〝三柴君って、お芝居みたいな告白の仕方をするのね〟

〝週末、部活休みなの? それなら私、『AAバーガー』ってとこに行ってみたいな〟

〝休憩時間になったら、会いに行くから〟

〝三柴君〟

〝三柴君〟

〝三柴君〟————。


 もう、やめてくれないか。

 大切な人を、失いたくはないんだ。

 僕は前向きに。

 受け入れて、悲しんで、そして見送ったじゃないか。

 だからもう、忘れたいんだ。

 今ある幸せを、抱いていたいんだ————。


 角を曲がったところで、三柴の足と、思考は停止した。

 すみれのアパートの前に、見慣れない、黒のラングフォードが停まっていた。

 車の前で、すみれが、見知らぬ男と話をしている。男はすみれの肩をつかみ、二言三言話すと、車に乗り込み走り去っていった。すみれは思いつめた表情をして、アパートの中に戻った。

 三柴は歩き出した。意図せずに、足取りが速くなっている。何も動揺することはないと、頭は必死で体をなだめようとしていた。指令が、上手く流れなかった。

「おかえり」

 すみれは普段と変わらぬ様相で三柴を出迎えた。「早かったね」

「うん」

 玄関フロアに目を落としながら、ぽつりと、三柴は言った。

「友だち、元気だった?」

「うん」

 玄関の段差に腰掛けて、三柴はスニーカーを脱ぎはじめた。

「……どうしたの?」

「え?」

 だらりと頭を反らせて、三柴はすみれの顔を仰いだ。

「なんか暗くない?」

「んー。たくさん歩いて、疲れたかも。チャイ飲みたい」

「うん」

 事もなげに言うと、すみれはキッチンへ向かい、小鍋を火にかけた。

 三柴はすがるようにソファに落ち着いた。

 また、意図しない指令が走る。三柴は寝室のドアを見やっていた。それから、〝間違い〟を探すように狭いリビングをぐるりと見回した。

 このところ馴れてきたスパイスの香りが、だんだんと漂ってくる。

 ソファの前のテーブルに、本が置かれている。その横に、部屋の鍵。伏せられた、すみれのスマホ。

 まさか。

 まさか自分が、こんな人間だったとは————。

 三柴はテーブルに手を伸ばした。

 すみれのスマホに触れる。すみれはキッチンで、小鍋をかき混ぜている。

 音も立てずにスマホを手に取り、開かれたままの画面をこちらへ向けた。すみれはまだ、小鍋をかき混ぜている。


【蓮くん】

『さっき言ったこと、ちゃんと考えておいて』

『また、すうちゃんと暮らしたい』

『すうちゃんのこと、待ってるから』


「できたよ」

 湯気のたつ、陶器のマグカップを手に、すみれはキッチンから戻った。

 三柴は立ち上がると、カップを受け取らずに、すみれの肩を強くつかんだ。

 すみれはカップを落とし、熱い、薄茶色の液体が、三柴の腿にふりかかった。ざらついたマグカップが、無垢のフローリングの上に、粗く砕けた。

「広睦く————」

 僕は壊れているらしい。

 熱を感じない。香りを感じない。今は、それが好都合だ。

「すうちゃんのことが好きだよ」

 三柴は言った。

「すうちゃんと一緒なら、たくさん疲れたり、落ち込んだりしたい」

「広睦君、脚が————」

「あの男は誰?」

 三柴は聞く耳を持たなかった。「前に待ち合わせに遅れてきたとき、『先輩につかまった』って言ってたけど、本当はあいつと会ってたの? 部屋の荷物が多いって、ここにはあいつの持ち物が残ってるの? ラングフォードが好き? それなら、あいつのよりもっといいやつに乗せてあげるよ。すうちゃんの行きたいところ、どこへでも連れてってあげる」

「ねえ、広睦君」

「すうちゃんが欲しがってたスニーカー、手に入りそうなんだ。紫の、きらきらのやつ」

 三柴は、少しのげきも許さないというようにすみれの体を胸に閉じ込め、きつく抱きしめた。

「すうちゃん。僕から離れないで。ずっとそばにいて————」

「広睦君、何か誤解してる」

 腕の中から息つくように、すみれは訴えた。「さっきの人は、私のお兄ちゃんなの」

「嘘だ。だって『蓮くん』って」

 三柴が言うと、すみれはテーブルの上にある、伏せておいたはずのスマホに目を留め、すべてを理解した。

「うちでは、きょうだい同士、君付けちゃん付けで呼ぶの。私も『すうちゃん』って呼ばれてるって、話したでしょ?」

「あ。ああ……」

 ほんの少し、三柴の腕の力が緩まった。

 すみれは三柴の腕をほどくと、スマホを取り上げ画面をスクロールし、念押しとばかりに三柴に向けた。


『父さんたちも言ってるよ』

『意地張ってないで早くうちに帰っておいで』


 深く、深く。

 地中深くまで穴を掘り、うずくまってしまいたい。

 本当に、僕は。

 どうしようもない男だな————。

「広睦君、私、帰るつもりなんてないの」

 三柴が赤面しかけていると、すみれは言い出した。「いつかは、仲直りしたいって思うけど、まだ、引け目みたいなものがあって。今は、戻る気になんてなれなくて————」

 電気。電気。電気。

 三柴はすみれを抱きしめていた。

 僕はどこにいるんだろう。

 どこから指令が放たれ、どのようにこの身を伝い————。何が、君を欲しがっているんだろう。

 そうだ。

 君に出会ったときから、僕の体は正常に壊れている。

「ねえ、すうちゃん」

 深く、深く。

 すみれを胸に抱きながら、三柴は言った。

「結婚しよう」

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