13

「おーい、泊」

 客席から呼びかけられて、泊涼香は振り向いた。

 昼休憩の終了間際。再び解錠されたホールには、演劇部の部員たちがぞろぞろと集まりはじめている。涼香が舞台の上から見渡すと、客席には部長である江崎えざきと、肩にカメラをさげた越水の姿があった。

「なんですかー?」

 よく通る声で、涼香は投げかけた。

「越水が個人撮影会させてくれって」

「やめてください江崎先輩」

 飽き飽きとした表情で、越水は言った。「嘘です。冗談です泊先輩。文化祭のパンフの写真、撮らせてもらいたくて」

「え、写真? この前撮らなかった?」

「あれは部活ごとのやつだろ」

 腰に手を当て、不服そうに江崎は言った。「あれじゃあ、熱烈なファンのみなさまがうるさいんだと。『涼香様の御尊顔がよく見えない!』————とかなんとか。去年のパンフなんてネットオークションに出されてたらしいぞ。卒アルはプレミア付きだろな」

「なんですかそれ」

 江崎のからみをあっさりと受け流し、涼香は軽々と舞台から下り立った。それから、江崎と越水のもとへやって来た。「部長、私ちょっと抜けていいですか? バルコニーのシーン、あとですよね? それまでには戻るので」

「へいへい」

 江崎はぶらぶらと適当に手を振った。

「行こ、越水君」

「え、ここでいいですよ。すぐ済ませるんで」

「いいからいいから」

 涼香は強引に越水の背中を押し、ホールの出口へ向かわせた。

 ホールを出ると、涼香は迷わず、すぐそばの階段を上がり、三階の空き教室へと入った。その場所は、一時的に文化祭実行委員会の物置として使用されており、後先を考えずに積み入れられた備品や消耗品で雑然となっていた。

「いいんですか? こんなとこで」

 越水はまだ、入り口の前に立っていた。「やっぱり舞台とか控え室の方が————」

「ううん、いいの。ごめんね。私、大勢に見られながら写真撮られるのだめなんだ」

「なら、いいですけど」

 越水は教室の中へ入ると、後ろ手に、静かにドアの鍵を閉めた。

「こっちこそすいません。二度手間なことさせた上に、カメラマンが俺なんかで。本当は写真部に頼みたかったんですけど、今日は来てなくて。原稿提出するの、明日じゃ間に合わないって言うし————」

 ぶつぶつと小言を言いながら、越水は一眼レフカメラの液晶モニタとにらみ合い、設定項目の調整をしていた。

 カメラのことに関してはド素人だった。

『S』? 『N』? 『F』? フラッシュは要るのか? 要らないのか————? そのような無識で、カメラマン代理に名乗りを上げた。もし、上手く撮れていなければ、委員会の中で唯一、特別待遇の追加撮影に納得のしていなかった志保に頼んで、〝熱烈なファンのみなさま〟にお達ししてもらおう。『泊先輩のことだけひいきすることはできません』、と。泊先輩のファンである委員会のメンバーも、それを止めることはできないはずだ。

「うん。気にしないよ。撮影してくれるのが越水君でよかった」

 さらりと、涼香は言った。

「え?」

「だって知らない人だと緊張するんだもん。ねえ、髪ぼさぼさ。稽古着のままだし。こんなんで大丈夫かな?」

 涼香は真昼の窓に薄っすらと映る自身の姿を見ながら、手櫛で髪を整えていた。

「——ああ。衣装着て、ばっちり化粧したのより、練習風景のやつの方がプレミア付くんじゃないですかね?」

「もう。やめてよ越水君まで」

「すいません」

 越水は小さく笑い、カメラのファインダーを覗き込んだ。八丘高校、演劇部の花形、泊涼香は、巧みなポーズも取らず、照れくさそうにフレームの中に収まっている。

 この、世界か。

 手始めにと、越水はぎこちなくシャッターを切った。

「さっき、広睦と飯食ってるの見ましたよ」

 ファインダーから目を離し、再度液晶モニタをいじりながら、越水は言った。自分が今、何を微調整しているのかも、分からない————。

「ほんと? 全然気づかなかった。今日ね、私がお弁当作る日だったんだよ」

 涼香はすっかりリラックスしたようすで、教室の隅に追いやられた会議用テーブルに浅く腰かけた。

「交代制なんですか?」

「ううん。作るのはほとんど三柴君なんだけど。時々、私も作るの。最初はすごく緊張したんだよ。うちの部の二年に、三柴君と中学が一緒だったって子がいてね。三柴君、中学のときは食事にすごくうるさくて、『これは栄養がないから食べても意味がない』とか、『これとこれは一緒に食べると栄養が相殺される』とか言って、給食も信用してなかったくらい神経質って聞いてたから」

「あー」

 越水はにやりとした顔で、カメラ上部のダイヤルを行ったり来たりさせていた。「高一の最初の頃も、まだそんな感じでしたよ。あいつ、今みたいに毎日弁当だったんですけど、栄養価と吸収率重視で見た目も味もどうでもいいみたいなディストピア弁当の他に、いつもビタミン剤とかサプリメントとか持ち歩いてて。岩月市に遊びに行ったとき、AAバーガーで飯食おうぜって言っても、『俺、ハンバーガー食べないから』って。で、あるとき志保が言ったんですよ。『あんたそんなんでご飯食べてて楽しいの?』って。別に、広睦の食生活をなんとかしてやろうとかって気は、なかったと思うんですけど。あいつ、思ったことずばずば言っちゃうじゃないですか。広睦の食事見てて、息が詰まったんじゃないですかね。それから、広睦もちょっとずつ食に対して緩くなっていったっていうか。相変わらず気は使ってますけど、前ほど神経質じゃなくなりましたね。だから、泊先輩の弁当も喜んで食べてると思いますよ」

「へえー。さすが志保ちゃん。言うことがいつもキマってるよね」

 涼香は感心して言った。

「たまに恐いですけどね」

「ふふ。いいコンビだよね、志保ちゃんと越水君って。広報委員と文化祭実行委員の委員長、私と同じクラスなんだけど、こないだ、『越水と米山のせいで委員会行っても暇だな』ってぼやいてたよ。だからあんまり頑張らないであげてね」

「頑張ってないですよ、全然」

 謙遜ではなかった。

『頑張る』という言葉はあまり好きではない。

 やる気はある。向上心もある。忍耐も、ある方だと思う。

 そういった自分の意識に、『頑張る』という言葉は不適切だと、この頃気づきはじめた。

『頑張る』は、あらゆる陽性言語の下位にある。目的の途中から、早々と苦難と美化を得る手段のために、いつも手軽な位置に待機する。

 俺はやりたいことを、自分の意志で、当然としてやっている。

 誰のためでもない。

 痛みも飾りもいらない。

 ただ、結果が欲しい。

 越水はファインダーを覗いた。

 その人はレンズを見て、やっと観念したように、涼しげに微笑んだ。

 越水はシャッターを切った。

 風が吹いている。そんな予感がした。

 越水はシャッターを切った。

 揺らいでいる。

 この、世界が————。


「どうもありがとうございました」

 撮影を終えると、越水はカメラを脇に抱え、礼を述べた。

「こちらこそ、ありがとう。パンフレットの完成、楽しみにしてるね」

 そう返したあと、涼香はふと、会議用テーブルの下に並んでいるダンボール箱に目を留めた。

「あれ? これ、クラスタオルじゃない?」

 涼香はしゃがみ込んで、すでに封の開いているダンボール箱のふたを広げた。

「ああ、そうです。夏休み明けに配るやつ、ここに仮置きしてあって」

「すごーい。もうできたの? 今年は早いんだね」

「ああ。去年みんなに配られたの、文化祭直前だったじゃないですか。あの時、せっかく作るなら準備期間中からたくさん使いたかったなって、俺は思って。で、委員会で提案したんですよ。改善できるものは、自分たちの代で早めに改善しちゃった方がいいかなって」

「越水君、すごい」

 涼香は尊敬のまなざしで越水を見上げた。

「すごくないですって。そのために、委員会設置してあるんですし。普通に仕事してるだけですよ」

「ううん、すごいよ。うちのクラスの委員会連中なんて、渡された仕事片付けるだけで、何か善くしようとか、下の代の子たちのためにとか……そんなの、ないよ?」

「そう、なんですか?」

「そうだよ」

 少し腹を立てたようすで言いながら、涼香はまだビニール袋に包まれたままの、自分のクラスのタオルを一つ手に取った。

「越水君、私、お願いがあるんだけど……」

「なんですか?」

 越水はどきりとした。

 申し訳なさそうに、涼香は言った。

「このタオル、私の分だけ今もらっちゃだめかな?」

「え?」

「稽古中に使うタオル、どこかに置き忘れてきたみたいなの」

「はあ……」

 拍子抜けしたものの、越水は瞬時に頭を回転させた。「いいですよ。泊先輩のクラスの委員の人には、俺から伝えておきます」

「ありがとう、越水君」

 言って、涼香はビニール袋を開封し、『3年A組』と書かれたタオルを楽しそうに広げた。

「ねえ、越水君」

「はい」

「私のことが好き?」

「はい」

「私も、越水君のことが好きよ。だから、三柴君とは別れることにする」

「はい」

「ねえ越水君」

「はい」

〝私のこと、どうして助けてくれなかったの————?〟


 遠い場所から、強い引力で引き戻されるように、越水は長く短い眠りから勢いよく覚めた。

 時折こうして夢で会えると、素直に、癒え以上に満たされたような嬉しさを感じてしまう。そしてその気持ちは、白湯のようにすっと冷めて消え入ってしまう。


『越水君でよかった』

『越水君、すごい』

『ありがとう、越水君』

『越水君』

『越水君』

『越水君』


 あんなことで————。

 越水はこねくり回すように、片手で顔を覆った。

 力になれていると、助けてやれていると、いい気になっていた————。

 シャワーを浴び、つかみ取った衣服に適当に着替えると、ボディバッグを肩にかけ、越水はマンションを出た。

 使い込んだ自転車に乗り込む。見慣れた景色を、自動化した順序で走り抜けていく。

 鮮明だった夢の記憶が、現実に負かされていくのを感じていた。

 生々しさを感じていた。

 ハンドルを握る感触。頰を撫でる風。ビルの高さ。すれ違う人々の、雑多平福な命————。

 俺はどこに向かっているんだろう。あいつは今————。

 何を考えている————?


 五月町さつきちょうへやって来ると、越水は駐輪場に自転車を停め、手押しのメリーゴーラウンドのある広場へ向かった。

 とても晴れやかで、にぎやかな午後だった。メリーゴーラウンドの前で、イベントスタッフらしき人たちが、こいのぼりが三つ連なった形状をした風船を配っている。

 越水は広場を見回した。花壇の縁に、三連風船を手にした三柴が、日和を有り難がる風もなく、広場をかけ回る子どもたちにも目もくれずに腰かけていた。

「なんだよそれ」

 花壇に歩み寄り、越水は言った。

「こいのぼり」

 こくりと顔を上げ、三柴は答えた。

「分かってるよ。お前大人だろ。今日は子どもに花持たせろよ」

「だってくれたんだよ。はい」

 三柴はこいのぼり風船を差し出した。

「いらねーよ」

 越水は背を向けて歩き出した。三柴も、風船を手に立ち上がった。

「もうすぐこどもの日かあ」

 五月町の住宅街を見渡しながら、越水は言った。「最近見ないよなー、こいのぼり。俺らが子どものときでも珍しかったくらいだけど。最近は特に見ない」

「そりゃそうだろな。無理だよ。マンションより高いこいのぼり」

 三柴は風船を高く揚げた。

「でもお前んち、お前が高校生になってもまだ揚げてたよな」

「うん。俺が家出るまで毎年こいのぼり揚げて、兜飾って柏餅食べてたよ」

「はあ? マジで?」

「うん。孫って一生子どもだからさ」

「うちなんて男兄弟なのに端午の節句なんて祝ってもらったこと一回もねえよ。行事ごとに関心ないっていうか。盆と正月やれば十分だろみたいな。サンタクロースは兄貴が小さいときに一回来たらしいんだけど、まだピュアだった兄貴が、『サンタさんお仕事大変だからうちにはもう来なくていいです』って言ったせいで来なくなったんだって。でも兄貴はそんなこと言った記憶もうちにサンタが来た記憶もないって言ってるから怪しいとこなんだけど」

「あー。お前んちの親、雑だもんな」

「否定はしねえよ」

「実家じゃまだ揚げてるらしいよ、こいのぼり。近所の子が珍しがって見に来るんだって。で、じーちゃんがめっちゃうきうきで袋詰めのお菓子準備して配ってる」

「ハロウィンかよ。ていうかお前んち菓子とか禁止だったろ? よその子にはばら撒くのかよ」

「だから。禁止じゃないって。控えましょうってだけで。俺もあんま欲さなかったし」

「昔さー。お前んちに初めて遊びに行ったとき、おやつだって言ってウサギさんのリンゴにくまさんのちっさいフォーク添えて出されて、結構びびったよ。俺たち高校生だぜ?」

「うん。ひいたって言えよ」

「ひいてないひいてない。うちさ、幼稚園のときの弁当も、キャラ弁とか変に食べやすくしたのとかじゃなく、大人が食べるのと一緒だったし、食べ物に細工とかされたことなかったから、あの時は、広睦って愛されてるんだなって感じたよ」

「そうだったの?」

「そうそう。懐かしいなー。じいちゃんとばあちゃん、元気?」

「げんきげんき。この連休も二人で温泉旅行だって。俺より遠出してるんじゃないかな」

「へー。今度熊守帰ったら顔出そうかな」

「そうしてやってよ」

「で、ウサギさんのリンゴ出されたりして」

「うん。否定はしないよ」

 三柴はかすかな笑みを浮かべた。それから、すぐに真剣な表情へと移り変わった。「……俺さあ」

「んー」

「彼女できたんだ」

「ほー」

「『ほー』って……」

 軽い失望の目で、三柴は越水を見た。

「別に驚かねえよ。お前、モテるし」

「モテてないって。言い寄られたこととかないし。まあ、多部ちゃんは例外だけど……」

「でも自分から行って一度も断られたことないんだからモテるってことだろ」

「それは————いや、いいんだよ、俺がモテるモテないの話は。それよりさ……」

 三柴はばつの悪そうに表情をゆがませた。「やっぱまずいかな? 志保に言ったら」

「何が?」

「いや、節操がないって、どやされる気がして……」

「そりゃそうだろうな」

「でも隠してたら隠してたであとでバレたときが恐いだろ」

「そりゃそうだろうな」

「はああああ……」

 三柴は肩をがっくりと落とし、大きなため息を声にした。「明日会うついでに、報告しといた方がいいかな」

「明日会うの?」

「うん。茉莉ちゃんの件でいろいろ迷惑かけたし、休みのうちに直接会って詫び入れとかなきゃなって……」

「仕事いつから?」

「連休明け。暦通り。お前は? いつも会うなり親兄弟がどうした後輩がどうしたって。大丈夫だって言ってるのに俺のようすも見に来てくれるしさ。ちゃんと休み取れてるのかよ」

「取れてる取れてる。今日もさっきまで寝てた」

「ほんとかよ」

 半笑いで、三柴は町並みに視線を投げた。

 呑気に返しながら、奇のない五月町の町並みに癒されながら、越水は、寝覚めから続くやるせない気持ちを引きずっていた。

 いつもなら、そのまま心の中に留め置き、誰かの話に耳を傾けることにするだろう。三柴の前なら尚のこと。志保の前でも、泊涼香の話はそうそうしない。

 押し殺すのとはちがっている。自分の問題は、自分で解を得たい。表に出すより、誰かの問題を得る方がためになる。

〝頑張らないで〟

 はい。頑張っていませんよ。

 越水は頭の中で、平然と答えていた。

 色の付いた日のせいか。

 鯉も駆けそうな青空のせい。子どもたちのはしゃぐ声のせい。思い出話をしたせい。五月町の、町並みのせい。

 その日、その時、越水は眠りの中で見たことを吐き出してしまいたかった。

 なるべく、懐かしい思い出のように……。

「……今日、泊先輩の夢見た」

「は?」

 心底純朴そうな顔で、三柴は越水の方を見た。

「だから、泊先輩が夢に出てきたんだって」

「なんだよ突然」

「しょうがないだろ。俺が夢コントロールしてるわけじゃないんだから」

「そうだけど」

 悲愴感は表れなかった。だが、三柴の口数は、あからさまに少なくなった。

「お前さ、あの日のこと、まだ覚えてる?」越水は言った。

「当たり前だろ」

「昼飯、一緒に食べてたよな」

「うん」

「そのあと、泊先輩、タオル忘れていかなかった?」

「タオル?」

 三柴はきょとんとした表情を浮かべた。

「そう、タオル」

「なんでタオル?」

「あのあと、俺が会ったとき、どこかに置き忘れたって言ってたんだよ、泊先輩」

「いーや」

 あっけらかんとした顔で、三柴は言った。「タオル首にかけて、戻ってったよ、泊先輩。ちゃんと覚えてる。先輩のお気に入りの、ブタさんの絵のやつだったから」

「そっか……」

 腑に落ちないまま、越水はアスファルトを踏み続けた。

 難題だ。

 難題だ。

 ずっと心の中に、持ち続けている。

 容易く解けるとは、思っていない。

 答えを明かす勇気が、俺には、ない————。

「あえー? ほひひふはん?」

 ふと見やると、菓子パンのようなものを口にくわえた男が、越水たちの前に立っていた。

 派手なきみどり色のシャツ。ゴールドとパープルのグリッタースニーカー。髪はぼさぼさの寝癖頭で、手には白い紙袋と、栗色の髪の着せ替え人形を抱いていた。

「本村君」

 越水は驚いた。「なんか見た目が忙しそうだけど、大丈夫?」

 本村は口にしていたものを呑み込んだ。「ぜんぜ、大丈夫です。超暇です」

 三柴は不思議そうに本村を見つめてから、疑問を訴えるように越水に目を向けた。

「あ、うちの先生の、息子さんの友だち」

 はっとして、越水は説明した。「えっと————」

 本村君、こちら、殺された須藤茉莉子さんの恋人の、三柴広睦です————と、越水は言うべきか迷った。

 だが、忙しいなりの中で、一際凛々しく輝く本村の瞳は、三柴を見つめて、すでにその実像をつかんだようだった。越水は言った。「こいつ、俺の友だち」

 どうも、こんにちはと、本村は寝癖頭を垂らした。

「どこ行くの? これから大槻君たちと合流?」

「いえ。僕んち、五月町なんですよ。すぐそこの人形焼屋さんに五月限定『こいやき』買いに。五つ買ったら子鯉一個サービスなんですよ」

 お一つどうぞという風に、本村は紙袋の口を越水たちに向けた。

「あ、ありがとう。でも俺たち、今から飯食いに行くからさ」

「え? でもここら辺レストランとかないですよ?」

「この近くに、俺らの友だちの親が経営してる喫茶店があるんだよ」

「あー。『まさうら』ですか?」

「そう、そこ」

「多分今行ったら、五月限定『柏パフェ』置いてあるはずですよ」

「え、そうなの?」

「五月町って五月さつきだけに五月ごがつだけやたら元気なんですよ。普段は地味ーな町なんですけど」

「ほー。さすが地元の子」

「ねえ、それさ」

 三柴が唐突に、本村の履いているスニーカーを指差した。「もしかして『ギター・ギャン』っていうやつ?」

「はい、そうです」

「ナインティーズ、なんとかって?」

「そうです。90sバブルガムボーイシリーズのシャンパン×ブルーベリーです」

「へえ」

 三柴はにんまりと笑った。

「何? 気持ちわりぃ」越水はいぶかしんだ目を向けた。

「今の彼女がね、これ、欲しがってんの」楽しそうに、三柴は言った。

「何、貢ぎたいの?」

「そうだよ貢ぎたいんだよ悪いか」

「ああでも、今から手に入れるのはちょっと難しいと思います」

 本村は言った。

「え?」

 三柴は間の抜けた顔で本村を見た。

「ギター・ギャンって、いろんなシリーズ出してますけど、毎回数はそんなに作らないんですよ。これ、三月に出たやつなんですけど、きっともうどこも在庫切れだと思います」

「えー? そうなの? どうしよ」

 三柴は困り顔で頭を掻いた。

「お兄さん、お名前伺ってもいいですか?」

 本村はたずねた。

 両手を塞がれたその男が、澄んだ瞳と、平凡な問いで、見掴んだ物のラベルをたぐり寄せようとしている様を、越水は目の前で見ていた。

「僕? 三柴っていいます」

 躊躇なく、三柴は答えた。

「三柴さん。知り合いに当たってみましょうか?」

 本村は紙袋と人形を抱えた両手で、さらにマグロの握りの飾りがついたスマホをパンツのポケットから引きずり出し、待機した。

「え? そんなことできるの? 希少なやつなんでしょ?」戸惑いをあらわに、三柴はたずねた。

「だめかもしれないですけど、聞いてみる価値はあると思います」

「……ほんとに? じゃあ、お願いしようかな……」

 控えめに言いながら、三柴もスマホを取り出した。

「分かりました。あとで詳しいサイズとか、送ってもらえますか?」

「うん。ありがとう。なんかごめんね。こんな初対面のやつに」

「いいえ。ファッションは助け合いなので」

「あ、これ、手付金」

 三柴はこいのぼり風船の持ち手を、本村の手首にくくりつけた。

「あ、どうも」

 まんざらでもない顔をして、本村は風船を見上げた。それから、それでは、と浅い礼をして、歩き出した。

 グリッターがきらめく後ろ姿。三匹の鯉と寝癖頭が、ふわりと舞い昇りそうに、風に揺られている。

「なんか変わった感じだけど、物腰の柔らかい子だね」

 なぜか不確かにも見えるその男の後ろ姿を眺めながら、三柴は言った。

「うん。俺も今日で会うのまだ三度目だけどさ、毎回あんなぼさぼさ頭なんだよ。そのくせ、質問するときは割と真顔だし」

「質問?」

「——あ、うん」

 ごくりと、唾を呑んだ。

 半分は、解放欲に似た気持ち。もう半分は、ためらいにも似た————。

 越水は〝時間の問題〟と軽薄な理由をつけ、白状した。「あの子、友だちと探偵ごっこみたいなことやってるらしいんだよ。ほら、須藤さんの事件のこと」

「はあ?」

 三柴はあんぐりと口を開けた。「犯人見つけようとしてるってこと?」

「さあ。どこまで本気なのか分からないけど。俺はやめろって言ったんだけどさ、あのくらいの年の子って、はいはいって受け流して、聞く耳持たないから————。あ、お前の名前は出してないよ」

「ふーん」

 空になった手であごをさすりながら、三柴はくるりと体を返し、再び歩き始めた。「別にいいけど」

「いいって……。お前もっと危機感持てよ。変な噂とか流されるかもしれないだろ?」呆れながら、越水も歩き出した。

「だって俺逮捕されてないし」

「そういう問題じゃないだろ」

「お前さ、ほんと面倒見いいよな」

 越水より強い呆れ口調で、三柴は返した。「俺だったら職場の人の息子の友だちの探偵ごっこになんて付き合えない」

「そうかあ? お前の方こそ、誰かに何か頼まれたらなんでもほいほいって聞いてやるだろ」

「んなことないって。俺、周りに甲斐性ないってバレてるから、そもそも頼まれごととかされないし」

「多部ちゃん元気?」

「多部ちゃん? 多分、元気だと思う。最近会ってないけど。なんで?」

「べっつにい」

 モテるモテないの、話だろ。

 すっかり呆れ返りながら、越水は思った。

 僻みなんてものは、出会ったときから、一瞬も持てたことがなかった。

 造形の美しさ。穢れのない美しさ。

 頑なな信念。危うい居場所。手を離してしまえば、脆く、崩れ去りそうな————。

 この男は、自分が人好きのするタイプだということも、誰かに気を持たせているという事実も、それらの特性に助けられているという自覚もないのだろう。

 一度その足をすくわれてしまえば、奈落から、這い上がる手段も選べないだろう。

 俺と志保が、ついていてやらなければ————。

『まさうら』の看板がかかった、ログハウス風の素朴な建物が見えてきた。

「柏パフェ、食うか?」

 越水は言った。

「いや、俺はいいや」

 三柴は即答した。

「とりあえずサラダ食べたい」

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