12
三柴はソファに横たわっていた。
体が芯まで、安息に徹しているのを感じていた。
視界が細く、狭まっている。
部屋の隅に佇むゴムの木。
壁で点滅しているストリングライト。
すうちゃんがしゃがみ込んで、黙々とダンボールの中をあさっている。
ああ、あったかい————。
今週はずっと、すうちゃんと一緒だったな。
刺激と安穏をいっぺんに味わうような、こんなに贅沢で、程のよい時間を過ごしたのは久しぶりかもしれない。大抵は、刺激と充実を求めて疲れ果ててしまうか、安穏と倦怠に流されて後悔にかられるか。日々というものは、いくつになっても扱い方が難しい。
こんな毎日が、こんな時間が。
ああ、ずっと続けば————。
きゅっと身を引き締められるような感覚で、ぼやけていた三柴の視界は瞬時に冴えた。
茉莉ちゃん。
須藤茉莉子の微笑む顔を、優しい声を、腕の中に馴染む感触を鮮明に思い出し、三柴は無意識に、自らの思い出から目を背けるように寝返りを打った。
ほんの小さな衝撃で。
忘れていたはずの記憶が、封を切られて溢れ出るように、無作為にフラッシュバックすることがある。
脳みそというものの、仕組みに、遺漏のなさに驚いてしまう。自分が、自分の体の中に、自分の意思に反して、こんなものを隠し持っていたのか、と。
三柴は溢れた記憶から逃げきれなかった。
茉莉ちゃん。
君が殺されたのは、ある意味では僕の責任なのかもしれない。
僕が君の前に現れたせい。僕が君を愛したせい。
君が、それに応えたせい————。
茉莉ちゃんが殺されることになるなんて、浮気を打ち明けられたあの時は、考えもしなかった。自分の置かれた立場を理解することに、自分の精神を持ちこたえることに、精一杯だった。
あの、アザのこと。
茉莉ちゃんの体に、痛々しくついていた傷痕のことを、僕は警察にたずねられた。
茉莉ちゃんは僕に隠しとおせていたつもりだったのだろうが、僕は、付き合いはじめて早いうちから、あの傷の存在に気がついていた。
僕の方からは、そのことについて触れないようにしていた。茉莉ちゃんが気を揉まずに済むよう、ふれあうときには注意を払った。
僕は警察に、あの傷は自分がつけたものではないときっぱりと否定した。僕には、大切な恋人に暴力を振るうような気質も、SMまがいの趣味もない。
〝向こう〟も、きっと————。
自分はやっていないと否定しているのだろう。
だが僕には、〝僕だけ〟には分かっている。
僕がつけた傷でない以上、茉莉ちゃんを痛めつけていたのは、おそらく、茉莉ちゃんのもう一人の恋人————祐也の、後輩の看護師だ。
顔は見たことがない。拝んでみたいとも思わない。名前は、聞いた。確か、『神谷』といった。記憶に留めておこうとも思わない。下の名前は、聞いてすぐに忘れてしまった。
ただ、祐也の話では、神谷は地味で大人しく、快活さのない、僕とはまったく正反対の男だと聞いた。
『仕事の面では、何も心配してないんだけどな』
祐也の言葉が、妙に引っかかっている。
つまり神谷という男は、仕事ができ、他人に迷惑をかけることもないが、それ以外に賞賛できる箇所のない、魅力に欠けた男なのではないか?
そんな男に、茉莉ちゃんはどうして惹かれたのだろう。
あの傷が、内弁慶による暴力の痕跡だとしたら、茉莉ちゃんはなぜ、僕に助けを求めなかったのだろう。
特殊な愛の形だったとしたなら、神谷にそれをゆるしていたなら、なぜ、茉莉ちゃんは僕のことを————。
「すうちゃん、こっち来て」
ソファに寝そべったまま、三柴は腕を伸ばし、ゆらゆらと手招きをした。
「うん」
すみれは、ダンボールの前から動かなかった。
「ねえ」
「うん」
すみれはようやく立ち上がると、本のページをぱらぱらとめくりながら、寝そべっている三柴の横に浅く腰かけた。
すみれの腕に、繋ぎとめるように触れながら、三柴は言った。
「僕、警察に追われてるんだ」
脈絡のない冗談、と、すみれはじろりとした目で三柴を見て、ふふっと小さく笑った。
「まあ、それは言い過ぎなんだけど……」
三柴も応えるように微笑んだ。自分に向けられる、すみれの表情、一つ一つが喜びだった。「警察の事情聴取受けたのは、本当なんだ」
「え?」
すみれは目を丸くした。
「僕が何かしたわけじゃないよ。ただ————前に付き合ってた人が、殺人事件の被害者で、恋人の僕が疑われるのは、しょうがないっていうか————。一応、僕が無実だってことを証明してくれる人はいるんだけど、事件が解決しないかぎりは、容疑者に変わりないし。だから、すうちゃんにも迷惑かけることが、あるかもしれない」
「広睦君————」
すみれは、悲痛な面持ちを浮かべた。「私は、いいの。迷惑とか、そんなのは。そんなことより、広睦君————」
「僕は大丈夫だよ」
三柴は、すみれの頰に包むように触れた。「すうちゃんが、いてくれるから」
すみれはまだ、納得していないようすで眉を寄せ、瞳を潤ませた。
自分のことを、こんなにも深く、心配してくれている。我が身のことのように、胸を痛めてくれている。その表情だけで、三柴は充分だった。
「すうちゃんは、ないの?」
すみれの体を引き寄せ、三柴はたずねた。
「何が?」
戸惑いを引きずったまま、すみれは小さく聞き返した。
「昨日、寝落ちする前に話してくれたでしょ? 家族のこと。他にはないの? 悩みとか、心配ごととか」
「うーん」
すみれは共に寝そべりながら、三柴の胸に耳をぴたりとつけて考えていた。
三柴は、すみれの頭を撫でた。
「全部、話して欲しい」
三柴の目は、すでに腕の中に捕らえたはずのすみれを離さぬようにと一点に見つめ、ささやかに爛々となっていた。
愛しい。触れたい。抱きたい。
それ以上に、求められることを望んでいた。
「あ」
何か思いついたように、すみれは言った。
三柴は、超近距離で聴覚を研ぎ澄ませた。
すみれは言った。
「最近ちょっと、太ったかも」
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