10

 三柴は少し緊張していた。

 この日初めて、三柴はすみれの家を訪れることとなった。

 雛町にある小さなアパート。コンビニやスーパーは近場にない。雛町らしい、かわいらしさが売りのカフェやショップへ行くにも、少し歩かなくてはならない。それでも、不便はないとすみれは言った。

「入って」

 ドアを開け、荷物片手に、すみれは器用にスニーカーを脱いだ。

 三柴はそっと玄関フロアを踏んだ。やわらかな明かりが点った。

 リビングには、観葉植物やダンボール箱がいくつか置かれていた。壁に垂れ掛かったストリングライトと、テーブルの上の数冊の書籍以外には細々としたものがなく、生活感を残しながらも、部屋はすっきりと整えられていた。

「適当にしてて」

 言って、すみれは寝室に入っていった。

 ストリングライトが、意識しなければ気づけないほど、ゆっくりと点滅をしている。けして広くはない室内をうろついてから、三柴はソファに控えめに腰かけた。

 テーブルの上の書籍。一番上の一冊には、『憧憬の本質について』と書かれている。

 現実味がなかった。このまま、僅かに残った緊張をほぐし、まどろみに身をゆだねて眠りこけてしまいたい。すうちゃんなら、それを許すだろう。

 だが、三柴は寒気を覚えていた。

 触れ合ったあとの、酔いのあとの、語らいのあとの。

『おやすみ』のあとの、あの————。

〝一転〟の恐怖を、三柴は感じ、拒絶した。

 まどろんでなどいられない。今は一つも、途切れさせたくない————。

 すみれはゆったりとした部屋着に着替え、すぐに戻ってきた。

「越してきたばっかなの?」

 ダンボール箱を指し、三柴は聞いた。

「ううん。収納スペースないくせに、荷物多くて。仮置き場」

 すみれは、最近凝っているというチャイを小鍋でのんびりと作り、ざらざらとした陶器のマグカップに淹れて持ってきた。

 すみれは脚をたたんでソファに深々と座り、ふうふうと冷ましながらチャイを飲んだ。三柴も、つられるように背を倒し、チャイの甘さと香りを味わった。マグカップを両手で抱えるように持ちながら、唐突に、すみれは言った。

「昨日、風船ガムの話、したでしょ?」

「うん?」

「どこの家にも、『ルール』とまではいかない決まりごとがあるって」

「ああ。うん」

「うちにもあったの。そういうの」

「へえ。どんな?」

「……私、親に何かを強いられたことなんてなかったの。うち、四人きょうだいなんだけど、私だけじゃなく、きょうだい全員そうだった。勉強しなさいとか、一番になりなさいとか、これができなきゃだめとか、そういうのが全然ない家だった」

 いいね、楽そうで。素直にそう思ったが、三柴は口に出さなかった。すみれの顔は暗かった。

「私、成績はいい方だったから、それで大丈夫だったの。学校では及第点取って、家では本を読んだり好きなことしたりして、自由にやってた。友だちが、『親がウザい』『塾が大変』って言い始めたときも、〝うちは楽でよかった〟って思ってた。それで、呑気に過ごしてたんだけど————。大学受験のとき、失敗したの、私。それで、初めて〝ヤバい〟ってことに気がついた。失敗しても、他に選択肢があるんだろう、次に向けて頑張ろうって、それが許される環境が待ってるんだと思ってた。でも、両親は放心してた。おじいちゃんもおばあちゃんも、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、何が起こったのか分からないみたいな顔してた。私を責めようとか、これからどうするとか、そういうのじゃないの。私の失敗を、受け入れる準備も、想像もしてなかった。あり得ないことだったの。だから、私の育成はそこで失敗で、それからは、私が何を求めても、何をしたいと言っても、『好きなようにやりなさい』って。それは応援じゃなくて、見放しなの。普通の親なら、ある程度は当たり前にしてくる、保護も干渉もなくなった。あとから知ったんだけど、うちの両親も、おじいちゃんもおばあちゃんも、親戚も、みんないい大学を出てたの。お兄ちゃんとお姉ちゃんが難関大に受かったとき、すごいことなんだってことは分かってたけど、自分もそのレベルを求められてるなんて、思いもしなかった。うちの家族の中では、親に指図されなくても、自分で勉強して、上の大学を目指して、一発合格するのなんて当たり前のことだったの。それが『決まりごと』だったの。妹も、当たり前のように一流の大学に行った。最初は、両親のこと恨んだよ。そんなに学歴を求めるなら、失敗を恥だと思うなら、どうして何も言ってくれなかったんだろう、どうしてもっと厳しく育ててくれなかったんだろうって。でも、結局、自由な家風に胡座をかいてたのは、私なんだよね。散々悩んだあとで、過ぎたことはしょうがないって、思い直した。今更どう足掻いても、失敗作で終わるなら、せめて自分の力で、自分で選んで、できるとこまで充実させようって。専門学校に行って、資格取って。最初の職場はキツかったけど、家族は頼れなかった。自分で改善していくしかなかった。今は、この仕事が好きだし、生活にも満足してる。でも、分かるの。家族と集まると。今の自分に自信があるとか、仕事に誇りを持ってるとか、そんなのは褒められたことじゃないの。あの、失敗した瞬間に、私は家族から切り離されたの。同じ家の、血の繋がった家族の中で、私だけが、一生落第点なの」

 すみれは目を瞑り、三柴の肩にもたれた。

「ごめん。暗い話して。ただ————」

 まだ少し、中身の入ったすみれのマグカップが、そろりと傾いた。三柴は慌ててそれを持ち上げ、テーブルに置いた。すみれは言った。

「聞いてほしかったの」

 ストリングライトが、点滅を繰り返している。

 切り離されたなら————。

 僕のもとへ来て。

 僕と一緒になろう。

 欠乏だらけの僕が————。

 与えられるものが、あるかもしれない。

 環境も、血筋もちがう僕らなら、相乗し合える何かが、あるかもしれない。

 そのまま、眠りに落ちてしまったすみれを、三柴はソファに横たえさせた。

 何か、掛けてあげた方が————。

 三柴は部屋の中を見回した。一目で、ブランケットの類いなどないことが分かる。

 勝手の知らない部屋に立ち尽くし、頭を掻いた。ふと、寝室のドアが目に入る。何か掛けるものを手早く探して、出てくるくらいなら————。

 罪悪感と好奇心を感じながら、三柴は寝室のドアを開けた。

 先に進めそうにはなかった。

 寝室は足の踏み場もないほどに、本で埋め尽くされていた。

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