8
三柴は深い呼吸をしていた。
ガードレール沿いを、ヘッドライトを点した車が高速度で行き交う。
少し前までは、それが雑音雑像だと思っていた。自分の状況を、見下し、嘲笑いながら、通り過ぎているのだと信じていた。
似通った車体、一定の速度、対に光るライト。なのに、少しも美しいとは思わなかった。今はそれが心地いい。夜の風を切る音が、その双光が、視界の隅で流れ、響く————。
歩きながら、三柴は再度、夜の空気を存分に吸い込んだ。
「歩くの、好き?」三柴は言った。
「うん。好き」すみれは言った。
「僕も」
「時々、遠回りして歩く」
「そうそう」
「で、迷って、地図アプリ見る」
「で、タクシー呼ぶ」
「そうそう」
「すうちゃんがいつもスニーカーなのも、歩きたいから?」
「どうだろ。気分かな。今はね、ギター・ギャンの、紫のきらきらのが欲しいの」
「ギター・ギャン?」
「知らない? 結構個性的なデザインのスニーカーのブランドなんだけど。最近のだと、『90sバブルガムボーイシリーズ』っていって、ブルーベリー味と、シトラス味と、ミックスベリー味と、クールミント味風の四色展開なの」
「すうちゃんが紫のが欲しいのは、すみれ色だから?」
「あはは。そうかも」
「風船ガムかぁ。あんまり食べた記憶ないなぁ」
「そうなの?」
「うん。じいちゃんたちに、あんまり買ってもらえなかったから」
「制限されてたの?」
「そんな厳しいもんじゃないよ。環境のせいっていうか。どこの家でも、『ルール』とまではいかない決まりごと、あるでしょ?」
「……うん。分かる」
「そんな感じ」
「ふうん」
すみれは、おもむろに伸びをした。「私、歩くのは好きだけど、走るのは苦手なんだ。広睦君は速いでしょ? 陸上部だったんだよね?」
「うん。でも、鈍足だったよ」
「え?」
「体動かすの好きだから、運動部に入りたかったんだけど、球技だとどうも、ボールが中心で、それに振り回されてる感じがするでしょ? だから陸上部に入ったんだけど、そんなに成績はよくなかった。すごい人たち、いっぱいいたし」
「そうなんだ」
「嘘」
「え?」
「ほんとはバスケ部とかバレー部も入部体験したんだけど、球技のセンスがなさすぎてあきらめた。陸上部だけが、僕のこと受け入れてくれたの。すごく楽しかったけど、僕だけ部の成績に貢献できなくて、グラウンドに遊びに行ってるみたいだった。ほんと、お荷物だった」
「さすがにそれは卑下しすぎじゃない?」
「ううん。ほんとに」
三柴は、気楽な面持ちで考え始めた。「時々さ、自分の資質って、なんなんだろうって思うことない? ずっと好きだったり、信じてたり、得意にしてきたことが、ある日突然、呆気なく消えてなくなったりして。衝撃で固定観念が崩れ去るのとは、ちょっとちがうんだよ。もっと灰みたいに、さぁーって。目の前で吹き飛ばされてく感じ。それを慌てる感じもないんだよ。ああ、そうなんだって。ショックだけど、冷静になってる自分もいたりして。じゃあ、これから先、どういう自分でいればいいんだろうって。この先何を手に入れても、きっとハリボテなんだろうって。自分を養うのが怖くなる」
すみれは、三柴同様気楽な面持ちで耳を傾けていた。二人の足取りは、泳ぐように緩やかだった。
「広睦君、自分が思ってるよりも、素敵な人だよ。その人の個性とか、資質って、キャラクターみたいにはっきりと分かりやすいものじゃなくて、もっと地味で目立たなくて、可変的なものだと思う。広睦君は陸上でちゃんと求められてたと思うよ。その環境で楽しく続けられたってことは、きっとそうなんだよ」
三柴はひどく驚いた。だが、それを表には出さず、心の中で静かに、大事に均すように噛み締めていた。
すみれは言った。
「私たち、変な話してる?」
「してる」
三柴は、すみれの手を取った。「でも、いい。徒歩だから」
直線道路を、二人は歩き続けた。
可変的なもの。
毎日、毎分、毎秒。
たった七日のサイクル。
何かを排し、何かを補おうと————。
僕がこれまで、当たり前のようにやってきたこと。誰の評価も求めていなかったこと。それに対して、すうちゃんは、〝自然〟だと、〝それでいい〟のだとA判定を下す。
取り払われたものがあっても、いいじゃないか。
そこにはきっと、自分を形造る、新しい何かが。
そしてどこかで、また、削ぎ落とされる何かが————。
「どこまで行く?」すみれは言った。
「どうしよう」
「帰りはタクシーだね」
「そうだね」
ふいに、三柴は立ちどまった。
それから歩み出ると、すみれの体を強く抱きしめた。
「タクシー、呼ぶ?」すみれは言った。
「ううん」
三柴は、最短距離に映るすみれの瞳を観賞した。
ここじゃまずいか————。いや。どうせ始まりだって、突拍子もない、悪ふざけみたいなものだった。
すみれは三柴のシャツをつかんでいた。
ああ、ほら。
やっぱり、君は————。
ガードレールの向こうで、車が轟音を立てて流れ続けた。
唇が柔を感じた。
熱を感じた。激を感じた。
なぜ、体を重ね合わせただけで、人は自分が満たされたことに気づくのだろう。
胃を満たすよりも広い。
裸の脳が、上質な電流を味わっている。解けてなくなってしまう前に、互いに、それを求め、与え続けようとする。
ひやかしのクラクションが無音に変わった。
夜が濃かった。酸素は薄かった。
すみれは三柴のシャツをつかんだままだった。
三柴は、すみれの舌の、拙さに気づいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます