三柴は深い呼吸をしていた。

 ガードレール沿いを、ヘッドライトを点した車が高速度で行き交う。

 少し前までは、それが雑音雑像だと思っていた。自分の状況を、見下し、嘲笑いながら、通り過ぎているのだと信じていた。

 似通った車体、一定の速度、対に光るライト。なのに、少しも美しいとは思わなかった。今はそれが心地いい。夜の風を切る音が、その双光が、視界の隅で流れ、響く————。

 歩きながら、三柴は再度、夜の空気を存分に吸い込んだ。

「歩くの、好き?」三柴は言った。

「うん。好き」すみれは言った。

「僕も」

「時々、遠回りして歩く」

「そうそう」

「で、迷って、地図アプリ見る」

「で、タクシー呼ぶ」

「そうそう」

「すうちゃんがいつもスニーカーなのも、歩きたいから?」

「どうだろ。気分かな。今はね、ギター・ギャンの、紫のきらきらのが欲しいの」

「ギター・ギャン?」

「知らない? 結構個性的なデザインのスニーカーのブランドなんだけど。最近のだと、『90sバブルガムボーイシリーズ』っていって、ブルーベリー味と、シトラス味と、ミックスベリー味と、クールミント味風の四色展開なの」

「すうちゃんが紫のが欲しいのは、すみれ色だから?」

「あはは。そうかも」

「風船ガムかぁ。あんまり食べた記憶ないなぁ」

「そうなの?」

「うん。じいちゃんたちに、あんまり買ってもらえなかったから」

「制限されてたの?」

「そんな厳しいもんじゃないよ。環境のせいっていうか。どこの家でも、『ルール』とまではいかない決まりごと、あるでしょ?」

「……うん。分かる」

「そんな感じ」

「ふうん」

 すみれは、おもむろに伸びをした。「私、歩くのは好きだけど、走るのは苦手なんだ。広睦君は速いでしょ? 陸上部だったんだよね?」

「うん。でも、鈍足だったよ」

「え?」

「体動かすの好きだから、運動部に入りたかったんだけど、球技だとどうも、ボールが中心で、それに振り回されてる感じがするでしょ? だから陸上部に入ったんだけど、そんなに成績はよくなかった。すごい人たち、いっぱいいたし」

「そうなんだ」

「嘘」

「え?」

「ほんとはバスケ部とかバレー部も入部体験したんだけど、球技のセンスがなさすぎてあきらめた。陸上部だけが、僕のこと受け入れてくれたの。すごく楽しかったけど、僕だけ部の成績に貢献できなくて、グラウンドに遊びに行ってるみたいだった。ほんと、お荷物だった」

「さすがにそれは卑下しすぎじゃない?」

「ううん。ほんとに」

 三柴は、気楽な面持ちで考え始めた。「時々さ、自分の資質って、なんなんだろうって思うことない? ずっと好きだったり、信じてたり、得意にしてきたことが、ある日突然、呆気なく消えてなくなったりして。衝撃で固定観念が崩れ去るのとは、ちょっとちがうんだよ。もっと灰みたいに、さぁーって。目の前で吹き飛ばされてく感じ。それを慌てる感じもないんだよ。ああ、そうなんだって。ショックだけど、冷静になってる自分もいたりして。じゃあ、これから先、どういう自分でいればいいんだろうって。この先何を手に入れても、きっとハリボテなんだろうって。自分を養うのが怖くなる」

 すみれは、三柴同様気楽な面持ちで耳を傾けていた。二人の足取りは、泳ぐように緩やかだった。

「広睦君、自分が思ってるよりも、素敵な人だよ。その人の個性とか、資質って、キャラクターみたいにはっきりと分かりやすいものじゃなくて、もっと地味で目立たなくて、可変的なものだと思う。広睦君は陸上でちゃんと求められてたと思うよ。その環境で楽しく続けられたってことは、きっとそうなんだよ」

 三柴はひどく驚いた。だが、それを表には出さず、心の中で静かに、大事に均すように噛み締めていた。

 すみれは言った。

「私たち、変な話してる?」

「してる」

 三柴は、すみれの手を取った。「でも、いい。徒歩だから」

 直線道路を、二人は歩き続けた。

 可変的なもの。

 毎日、毎分、毎秒。

 たった七日のサイクル。

 何かを排し、何かを補おうと————。

 僕がこれまで、当たり前のようにやってきたこと。誰の評価も求めていなかったこと。それに対して、すうちゃんは、〝自然〟だと、〝それでいい〟のだとA判定を下す。

 取り払われたものがあっても、いいじゃないか。

 そこにはきっと、自分を形造る、新しい何かが。

 そしてどこかで、また、削ぎ落とされる何かが————。

「どこまで行く?」すみれは言った。

「どうしよう」

「帰りはタクシーだね」

「そうだね」

 ふいに、三柴は立ちどまった。

 それから歩み出ると、すみれの体を強く抱きしめた。

「タクシー、呼ぶ?」すみれは言った。

「ううん」

 三柴は、最短距離に映るすみれの瞳を観賞した。

 ここじゃまずいか————。いや。どうせ始まりだって、突拍子もない、悪ふざけみたいなものだった。

 すみれは三柴のシャツをつかんでいた。

 ああ、ほら。

 やっぱり、君は————。

 ガードレールの向こうで、車が轟音を立てて流れ続けた。

 唇が柔を感じた。

 熱を感じた。激を感じた。

 なぜ、体を重ね合わせただけで、人は自分が満たされたことに気づくのだろう。

 胃を満たすよりも広い。

 裸の脳が、上質な電流を味わっている。解けてなくなってしまう前に、互いに、それを求め、与え続けようとする。

 ひやかしのクラクションが無音に変わった。

 夜が濃かった。酸素は薄かった。

 すみれは三柴のシャツをつかんだままだった。

 三柴は、すみれの舌の、拙さに気づいた。

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