7
「まーた
「気にしなくていいって」
「そうそう。誰が担当したってそうなんだから」
「でも、須藤さんが担当のときはちがった」
「…………」
「確かに……」
「私、別の患者さんに聞かれちゃった。あの看護師さんなんで殺されたの?って」
「そんなの私たちに聞かれてもねえ」
「ねえ」
「須藤さんと神谷君が付き合ってたなんて、知ってた?」
「全然。私は、須藤さんは越水さんと付き合ってるもんだと思ってた」
「ああ、私も」
「越水さん、面倒見いいからね。勘違いされちゃうのよ」
「でも、須藤さんに対しては特別だったでしょ?」
「うん。須藤さんがうちに配属されてすぐのときから、好意ある感じだったもん。私、前に二人が病院の外で一緒にいるところ見ちゃった」
「偶然でしょ」
「越水さんが犯人だったらショックだなぁ。あんなに真面目で、面白くて、頼り甲斐のある人がまさかって」
「分かんないよ? あの大人しい神谷君が須藤さんと付き合ってたことだって意外なのに」
「ほんと。想像できない。全然タイプちがうでしょ、あの二人」
「でも、須藤さんて二股かけてたんでしょ?」
「そうなの?」
「知らないけど。たまにいるでしょ雑食な人。患者さんからもよく声かけられてたし。実際二股どころじゃなかったかもね」
「じゃあ、神谷君も遊ばれてたわけだ」
「かわいそー」
「それで腹が立って殺したの?」
「わざわざ病院の敷地内で?」
「なんで?」
「知らない」
「そういえば、うちの甥っ子が郷葉大附属の高校に通ってるんだけどさ」
「へえー。すごーい」
「医者志望?」
「それは、いいの。でね、同じクラスの子が、今度の事件の目撃者なんだって」
「え、見たの? 人が殺されるとこ」
「そこまでは分かんない。けど、普段はあんまり喋らないタイプの子なのに、その話題が出た途端、『俺、見ちゃったんだよね』って、自慢げに話すんだって。で、よくよく聞いたら、その子の父親がうちのドクターだって言うの」
「え? 誰よ」
「誰だと思う?」
「誰」
「倉沢先生」
「うっそ」
「でも倉沢先生、しれーっとしてたよね」
「うん。息子さんが郷葉大附属に通ってるっていうのも初めて知った」
「まあ、先生もプライベートのことあんまりべらべら喋るタイプの人じゃないしね」
「でも、事件があったのって丁度準夜の終わりくらいなんでしょ? 先生の息子、病院の近くで何してたの?」
「先生に会いに来たんじゃないの?」
「先生いなかったでしょ。あの夜は」
「その子、須藤さんと付き合ってたんじゃない?」
「高校生と?」
「で、その子がやったの?」
「やめてよ笑えな————」
休憩室のドアが開かれた。
越水は冷ややかな視線を、中にいる看護師たちに向けた。
「声、漏れてる」
「あ、すみません」
看護師たちは萎縮した。
越水はドアを閉めようとした。
「あの、越水さん」
一人の看護師が言った。
「何?」
越水はドアから顔を覗かせた。先程より、幾分か表情は和らいでいる。
看護師は言った。
「私たち、ただ、冗談のつもりで————。本気で話してたわけじゃなくて————」
「別に。休憩中なんでしょ? プライベートな時間に誰が何話そうが気にしないよ」
返答を拒絶するように、越水はすぐにドアを閉めた。常よりも愛想がないことは、自分でもよく分かっていた。
ドアの外には神谷が立っていた。越水が釘を刺しに休憩室のドアを開ける前、先に看護師たちの雑言を耳にしたのは、神谷の方だった。
「あれで医療者だってよ。引くよな」
面白おかしそうに、越水は言った。
神谷は何も答えなかった。憤っているようすはない。そわそわと落ち着きなく、責め立てられたような表情を浮かべていた。
「気にすんなよ」
越水は仕事に戻ろうとした。そして、思い出したようにつけ足した。「あ、俺、ほんとに須藤さんとは何もないから。須藤さんに友だちのこと紹介したりはしたけど、お前と付き合ってたなんて知らなくて。悪気はないんだ。ほんとごめ————」
「越水さん」
神谷は振り絞るように言った。「俺、あの、ほんとに————」
「分かってるよ」
反射的に、越水は言った。
『分かるよ』『大丈夫』『なんとかするから』————。口をついて出る言葉。そこに無理はない。やってのけたいとさえ思ってしまう。何、簡単なことだろう。「だから、気にすんな」
神谷は押し黙った。かっちりとしたナース服だけが、医療従事者としての責任と能力を主張した。
大損だな、と、越水は常々、神谷に対して思っていた。
仕事を綿密に、きちんとこなす。言われたことは一度で覚え、忘れない。誰かの抜けを黙って拾い、フォローする。けして見返りは求めない。
だが、学生のような幼い見た目。人前で自信を失う動作。そこに、意思の感じられない言葉————。五年目だというのに、その挙動のせいか、同僚のみならず患者からも新人のような扱いを受けることがある。
こちらが「ありがとう」と言えば、「ごめんなさい」という顔をする。こういうタイプの人間は、どこへ行ってもたまに出くわすことがある。いったい、何を恐れているのか分からない。何を糧としているのか分からない。堂々としていれば、いいものを————。
四月に入職したばかりの新人を連れ、越水はカートを押してスタッフステーションを出た。
病棟の雰囲気は変わっただろうか。殺伐としているか。
上手く感じ取れない。ピリピリとした空気なら、日頃からささやかに漂っている。ここでは患者に安心を与えながら、緊張していないといられない。
————神谷には悪いことをした。
須藤さんが初めてうちへやって来た日、恋心にも似た興奮を抱いた。
高校時代からの仲だ。すぐに分かった。広睦なら、一目で彼女を好きになるだろうと————。
だが、こんな展開は予期していなかった。
誰にとっても不都合だ。いったい、誰を救ってやればいい。
病棟の雰囲気は変わっただろうか。
暗雲が垂れ込めている。いや、きっともう手遅れか。そうなのだろう。昔から、こういう勘だけは当たるのだ。
大抵の問題は解決できる。
助言。統率。仲立。人と人との、間のことは————。
『あなたのおかげで』
そんな風に、認められ、求められ、信頼を得る。自分にとって、難ではあるが、苦ではない作業。
だが、見えない場所で大きな何かが起こっている。
それが露見したとき、自分が、褒められて得意になる子どものように、器用で、管見で、無力だったのだと悟る。表面に分かりやすく置かれた易題を治めているだけで、肝心な働きをしていない————。
「手際よくやれよ」
とある患者の点滴をチェックしていると、後方のベッドから、今西が言った。
集中しなくては。
瞬時に越水は思い、自省した。
ベッドを順に回り、今西の番になった。新人看護師が、バイタルを測定し始めた。
今西は仏頂面で新人の動きを監視していた。
面長な顔、灰色の髪、垂れた頰。
弁解を許さず鉄鞭を振るう、いかめしい看守のように————。
越水はごく小さな、頷きのような笑みを口元に浮かべた。
同じ人型の生物が。
同じ仕組の生物が。
だが、幾多のそれと向き合えば、『個』を伺う機会も増える。勝手だが、当たりが悪いと感じるときもある。
肉体と脳みそ。
人はどこにいるのだろう。
この人は何に憤り、何に怯えている。この人の何がそうさせる。
疲弊した肉体と、退屈な脳みそ————。
ぎろりと、今西は越水を見やった。
越水は微笑んだ。
「須藤さんのこと、本当に残念です。本当に————」
勤務を終えて病院を出ると、越水は駐輪場へ自転車を取りに向かった。
郷葉大附属病院の、広大な敷地。外来用、職員用駐車スペースの他、下手な市民公園よりも、整然と手入れされた緑地の空間。
ここで人が殺されたって?
日々、命が紡がれるこの場所で?
これは当てつけなのか。お前は無力だと、そう、嘲りたいのか。
分かっている。
ずっと昔から認知している。
だから、この気持ちを忘れない。
人を救いたいという思い。そして————……。
時間が有り余っていた。
用事を片付け、休息を取ることを考えれば、実際はそう長くはない。だが明るい空を目にすると、時間が都合よく膨張して見える。気楽な心地のせいか、雑用がつい後回しになってしまう。
広睦のようすでも見に行こうか。いや、それよりも先に————。
「だから、俺はここに立ってたの」
緑地の中に倦怠な声が響いた。
越水は声のする方へ自転車を押し進めた。聞き捨てならなかった。そこは、須藤茉莉子の死体が発見された場所のすぐそばだった。
四人の若者が話をしていた。その内の一人は、郷葉大附属高校のブレザー服を着ている。
「なんでここにいたんだよ」
「だから、尾行中だったって」
「じゃあ尾行の相手は、被害者か一緒にいた男のどちらか?」
「どうかね」
「被害者とその男はどの辺にいたの?」
「こっから————ここら辺」
「男の背格好は?」
「一七六、七くらい。割に痩せて見えるけど腹に溶けない資産を蓄えてるタイプ」
「ほんとかよ」
「ほんとだってしつこいな」
「探偵気取りで適当にべらべら喋ってんじゃねーのかよ」
「は? 俺の観察力なめてんの?」
「明らか他人に興味ねーだろお前」
「ねえ」
越水は舗装された小道に自転車を置いて芝生へ入り込んだ。「君、もしかして倉沢先生の息子さん?」
本村たちは振り返った。よそ者へ敵意を示すように、倉沢は鋭利な目つきで越水を見た。
「僕、ここの看護師なんだ。倉沢先生にはいつもお世話になってます」
「俺に言われても困ります」
倉沢は冷たく言い放った。
「まあまあ、くらさーさん。挨拶だから、挨拶」
大槻がやんわりとたしなめ、代わりに、越水に出来のよい笑顔を向けた。
「ハハ……。突然話しかけてごめんね。ここ、分かる?」
「はい。看護師の方が殺されたって」
本村が答えた。
「そうなんだ。病院の憩いの場なのに、なんかここだけ近寄りがたい場所になっちゃって————。ここで何してたの?」
「あー。何というか」
本村は手の甲を掻いた。側頭部に、イソギンチャクのようにうねった寝癖。足元には、爽やかなイエローのフラットシューズ。
「特に意味はないんですけど。なんとなく、近くを通りかかったもので」
大槻が答えた。
神谷も童顔とはいえ、こいつのように愛想よく、はきはきとしていれば、周りの評価もちがっただろう。事件の前も、事件のあとも————。そう、越水は思った。
それから越水は、後方に立つ、背高な男を見た。先程は倉沢息子をたたみかけるように追及していたが、今はこれといって発言をするようすはない。
男のTシャツに描かれた、細い木の棒のようなものを持った全身タイツの輩たち。
これはなんだったか。仏教がらみのヘビメタバンドだった気がするのだが————。
「なんとなくでたむろしていい場所じゃないよ。ここはもう」
考えるのをひとまずやめ、越水は言った。
「そうですね」
聞き分けよく、大槻は答えた。
「えっと————」
越水は質問の入り口を模索した。
「はい?」
大槻ははっきりと聞き返した。
「……本当なのかな? 君が事件を目撃したって」
越水は倉沢に向けてたずねていた。
「それはちょっと語弊があります。須藤って看護師さんが殺される直前に、怪しい男と一緒にいたのをここで目撃したんです」
先程と打って変わり、倉沢は素直に答えた。
「その男って、どんな人だった?」
「興味あるんですか?」
「——興味というか……」
越水は先を慎んだ。
「メガネをかけた年配の方だったらしいですよ」本村が言った。
「ほんとに? もっと若い人じゃなかった?」
「は?」
倉沢は露骨に眉をひそめた。
「いや、実は、俺も君と一緒なんだ。須藤さんが、殺される少し前に男と一緒にいたのを見たんだよ」
『越水祐也』か。
本村、池脇、大槻の三人は思った。
「男の顔は見たんですか?」
すばやく本村はたずねた。
「いいや。ただ、別れる別れないとか聞こえただけで————。俺、直前まで須藤さんと一緒に仕事してたんだよ。だから今でも信じられなくて————」
「どんな人だったんですか? その須藤さんって」大槻が聞いた。
「明るくて、仕事熱心な人だったよ。人の心をつかむのが上手いっていうのかな。ちょっと気難しい患者さんも、須藤さんにだけは心開いてて————。同じように接してるつもりでも、なかなか上手くいかないからさ、そういうの。うらやましい部分もあったよ」
「須藤さんから、恋人のことで何か聞いてませんか? 最近うまくいってないとか」本村はたずねた。
「いいや。付き合ってる人がいることすら知らなかったよ。事件のあとで、そういう相手がいるって知ったんだけど。でも、その恋人が犯人じゃないことは確かだよ」
世間話のように、越水は平然と話していた。
「ここだけの話、その恋人もうちの看護師で仕事仲間なんだけど、須藤さんが殺されたっていう時間、俺、そいつと一緒に飯食ってたから。すごく大人しいやつでさ。いろいろ溜め込んでることもあるんだろうけど、人を殺す度胸があるやつじゃないよ」
「仲いいんですか? その須藤さんの恋人と」大槻がたずねた。
「いや、家が近所だから、時々俺が呼び出して無理やり飯付き合わせるくらい。俺、だめなんだよね。一人で飯食うの」
「ああ。いますよねたまに。そういう人」さらりと本村は言った。
「そうそう。自分がそういうタイプだって、一人暮らし始めてから知ったんだけど」
朗らかに話しながら、越水は言葉を失速させた。そして紡いだ。「その、須藤さんの交際相手のことなんだけど————」
「はい」
当然のように、本村は越水の言葉を待った。越水は言った。
「付き合ってたの、その一人だけじゃないんだ」
「ああ。いますよね割と。そういう人」
「しかも、もう一人の相手に須藤さんを紹介したの、実は俺でさ」
ばつの悪そうに、越水は話し出した。
「そいつとは高校時代からの付き合いで、前の彼女と別れて落ち込んだ時期が長かったから、元気になってくれればいいと思って紹介したんだけど。でも、その後うまくいったかどうかは、詳しくは聞いてなかった。事件が起きて、二人の関係がまだ続いてたことと、須藤さんが同僚とも付き合ってたことを知って、なんか複雑な感じでさ。須藤さんが死んで、二人共ただでさえ辛いだろうに、余計な失望までさせることになって。ほんと、二人にも、須藤さんにも、申し訳ないことしたなって————」
「でも、紹介したのはお兄さんでも、二股を選んだのはその須藤って看護師さんなんですよね?」
突然、倉沢が強気な口調で言い出した。
「え、あ、俺、越水」
「越水さん。越水さんは何も悪いことしてなくないですか? その看護師さんが何人と付き合おうが、その結果何人に恨まれようが、自業自得ですよ」
特に働く気もなさそうなダレた体、陰鬱なまなざし。口元だけが、的確に動いていた。
「くらさーさん。ここ、一応その看護師さんを弔う場所だから」大槻がたしなめた。
手のひらを返したような倉沢の慰めに、越水は驚いていた。それから、ほっとして言った。
「でも、そいつも運がよかったよ」
「高校からの、お友だちの方ですか?」
本村はたずねた。
「うん。昔からすごく健康志向なやつでさ。普段は遅くまで飲んだりしないくせに、その日は友だちと深夜まで飲んでたんだって。だからすぐにちゃんと警察にアリバイを証明できたってわけ。っていっても、当の本人は酔っ払ってほとんどなんにも覚えてなくて、警察に説明したのは全部連れのやつなんだけど。二日酔いで寝てたのに叩き起こされてあれこれ聞かれたって。すごく怒ってた」
「その連れの方も、越水さんの知り合いなんですか?」
「そう。俺たち、三人とも高校に入ってから知り合ったんだけど、奇跡的に三年間同じクラスでさ。いつもくっついてる友だちってよりは、家族みたいな感じ。俺と志保——あ、連れのやつね————は生徒会の役員で、須藤さんと付き合ってたその友だちは陸上部だった。正直、成績はよくなかったよ。入賞経験もなかったし。ただ、前向きだったから。やたらファンが多かった。今でも追っかけてる子がいるみたいだし。子どもの頃に両親を病気で亡くしてるらしいんだけど、そういう影をまったく感じさせないんだ。でも、どんなに明るく生きていても、不幸なことって続くもんでさ。高校から今に至るまで、そいつが何人かと付き合ってるのを見てるけど————」
越水は重々しい表情を浮かべた。「みんな、不幸な事故で亡くなってるんだ」
「ほんとに事故なんですか? それ」
しらけたような目つきで、倉沢がずけずけとたずねた。
「くらさーさん」
「だって明らか不自然でしょ。歴代の彼女が全員って。シリアルキラーとしか思えない」
急に大槻は、目の前にいる陰気で凶暴な秀才をなだめすかすことができなくなった。今、この場に越水がいなければ、自分も高らかに、そうだ!と声を上げているはずだった。
「事故って、交通事故とかですか?」本村はたずねた。
「それもあるけど、海で溺れたり、アレルギーのせいだったり、いろいろだった。でも、一番覚えてるのはやっぱり、
「先輩?」
「うん。俺らが高校のときの、一個上の先輩。多分、俺のその友だちは、自分の知らないところで昔からモテてたはずだけど、泊先輩が初めてできた彼女だって言ってた。演劇部の花形で、美人で、優しくて、他校にもファンが大勢いた。絶対に認めないだろうけど、先生たちだって、みんな泊先輩のことひいきしてた。それを、ぺーぺーの新入生だった俺の友だちがあっさりものにしたわけだけど、人気者同士、やっぱり落ち着くところは決まってるんだなって、みんな納得してる感じだった。二年の時、秋の文化祭で、泊先輩の部が『ヴァスロヴィック』っていう劇をやることになって、夏休みのうちから練習してた。俺の友だちも、休みの間はずっと陸上部の練習があって、俺と志保も文化祭の下準備で忙しかった。だから、あの日は三人とも学校にいたんだ。ヴァスロヴィックの劇中に、泊先輩の演じる役がバルコニーの上で台詞を言うシーンがあって、結構大掛かりなセットがあったんだけど————。あ、俺の地元、
「ファンが押し寄せた、とか?」
本村は言った。
「それもあるんだけど、学校側から、文化祭での演劇部の出し物を、中止にしろって指示が出たんだ。いや、この歳になれば、学校側の意図も分かるよ。人ひとり亡くなってるし、なかなか繊細な問題だから。でも、全校生徒が猛抗議してさ。結局、学校側も折れて、生徒会と映像部、全面協力のもと、演劇部の生の演技と、泊先輩の練習風景を収めた映像を組み合わせた、特別なヴァスロヴィックが披露されることになったんだ」
「すごい。ドラマみたい」大槻が言った。
「文化祭当日は、ホールがぎゅうぎゅう詰めになって。上演前に、志保が舞台に上がって、黙祷を捧げて。本当はその役目は、生徒会長がやる予定だったんだ。でも、直前になって、いっぱいいっぱいになったんだろうな。できないって言い出して、急遽志保が代わることになったんだ。志保は冷静だったよ。映像の中の泊先輩は、部員たちの生の演技を食ってた。この人、もう死んでるんだって、そんなこと少しも感じさせなかった。観客は、ヴァスロヴィックの世界に夢中になってた。劇が終わって、痛いくらいに拍手が響いて————。それで、みんな気持ちよく、泊先輩のことを見送れるはずだったんだ」
「だった?」
本村は言った。
「うん。誰かがふと、現実に返って泣きだしたんだろうな。それがみるみるうちに連鎖して、拍手が、号泣に変わってった。そりゃあ悲惨だったよ。満員のホールが、怒号みたいなわめき声であふれて、地獄絵図みたいだった。でも、誰もそれを止められなかったんだ。教師も生徒も悲しんでいたし、俺の友だちも気持ちを押し殺さずに泣いていた。冷静だった志保も泣いた。だから」
越水は、やけに乾いた表情で言った。
「忘れられるわけがないんだ。泊先輩のことは————」
青くなり始めた芝生が、息をひそめていた。
絡まり合った頭髪。だが、本村の瞳は、まっすぐに越水をとらえていた。
越水はにっこりと笑った。
「さっきさ、『通りかかっただけ』って言ってたけど、あれ嘘でしょ?」
「あはは。バレました?」
大槻は軽々と笑みを返した。
「ねえ、もし事件の日のことが聞きたいなら、紹介してあげようか? 志保のこと」
「いいんですか?」
本村は言った。
「うん。でも、あいつ今静養中だから、尋問するなら手加減してやってよ」
「どこか悪いんですか?」
「体は元気だと思うけど。でも、仕事でストレス抱えちゃったらしくてさ。いつもサバサバしてなんでもクールにこなしてるように見えて、意外といろいろ考えてるんだよ。だからちょっと休んで、精神を落ち着かせてる感じかな。あいつの賢いとこは、そういう自分のことも冷静に客観視できるところだよ」
「静養中に、事件の話なんて聞きに行って大丈夫ですか?」大槻は聞いた。
「何? 心配してくれるの? 志保のこと」
越水はにやりと笑った。「だったら自分の心配した方がいいかもよ。あんまりくだらない質問すると、ガミガミ怒って説教されるかもしれないから」
本村と大槻は想像して、ぴりりと身をすくめた。
本村と越水は、手早く連絡先をやり取りした。
「あの」
スマホをいじりながら、本村はたずねた。「どうして、こんなペーペーの僕たちに協力してくれるんですか?」
「どうして? うーん。あー」
大した回答でもなさそうに、気取らずに越水は述べた。
「俺さ、すごい正義感あるとかじゃないけど、昔から気持ち悪いんだよね、『事なかれ』って。誰かが困ってるのに、見て見ぬふりとか、弱ってる人を放置とか。須藤さんの恋人だった同僚は、ちゃんとアリバイがあるって分かりきってるのに、職場で居心地が悪そうだし。友だちの方は抜けてるやつだから、今の状況のまま放っておくのもなんか心配だし。須藤さんの家族だってそうだし、病院に出入りする人たちだって不安だろ? どんなに証言したって、結局は、事件が解決しないとなんにもならないんだよ。だから俺、こう見えても意外と本気で、なんとかして早く犯人を捕まえたいって思ってるんだ。まあ、これ以上何ができるんだって話なんだけど」
名探偵でも現れてくれたらいいのにな————。そう冗談を言いながら、越水は自転車のハンドルに手をかけた。
「じゃあ、連絡するから」
「よろしくお願いします」本村は頭を下げた。
越水は本村の頭に張りついているイソギンチャクをしげしげと見つめた。それから、後方でいかめしい顔をして立っている池脇をさりげなく一瞥した。
先程、容赦なく倉沢を尋問していた池脇は、越水と本村たちの会話中、一言も口を挟まなかった。いびりもしなかった。その風体と表情は、些細な言動に唐突に野次を飛ばしてもおかしくはなさそうなのだが。
だが、越水はひしひしと感じていた。その鋭い瞳は、自分と倉沢、ひいては本村や大槻の一挙手一投足、すべてを監視していた。
案外、いい働きをするかもしれないと、越水は頼もしく思った。
そうだ。一つも見逃さないでくれ。
見たふり、聞いたふり。知ったふりで長台詞を垂れ流すやつらより、こういう人間の発言は、ずっと的確で重みがある。
越水は自転車を押し進めた。
それから、少しして振り向いた。本村たちは芝生の上で、はかどるようすのない現場検証を再開していた。池脇が、倉沢に対して荒々しく口を開くようすが見て取れた。
昨日、事件が起きてから初めて、敷地内の芝生の手入れが再開されたと越水は聞いた。
悼む者、怯える者はいても、憩う者はいなかった。
だが、苦しみを刻みながら、もがきながら、切っては紡ごうと————。
何かを変えようとしている。何かが変わろうとしている。青く伸びようと呼吸する芝生の上に、目新しい、不揃いな四名が————。
あ、『
越水は思い出していた。褒美という名の鞭を打つ、地獄の底からやって来たヘビメタバンド————。
そうだな。あれは。あの時は本当に————。
地獄絵図だったんだろうか————
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