三柴の胸ははずんでいた。

 一つは、新規のプロジェクトが順調に進み始めたため、一つは、贔屓のベトナム料理店に久々に訪れることができたため、もう一つは、目の前にいるのが最愛の恋人であるため————。

「おいしい」

 生春巻きを一口食すなり、すみれは惚れぼれしたようすで言った。

「ここのは特別。こっちのトマトも絶品だから」

 福々とした笑みを浮かべながら、三柴は勧めた。「よかった。すうちゃんに気に入ってもらえて」

 異国の香りが漂う。

 爽やかで、優雅で、刺激的。

 心が洗われるようでありながら、花や、青果や、香草が、くっきりとした色彩を放ちながら、しとやかに情緒を揺さぶろうとする。

 こんな気持ちを、いつまでも持ち続けていたい。

 清みきった流れの中に、魅惑的な何かを浮かべて、溺れずにつかんでいたい————。

 彼女の名前は有村ありむらすみれと言った。

 僕より一つ年上。職業、歯科衛生士。

 子どもの頃から周りには『すうちゃん』と呼ばれているらしい。だから、僕もそう呼ぶことにした。

 すうちゃんが食や健康のことについて考え始めたのは、社会人になってからだという。

 家族も含め、それまでは怪我や病気とは無縁の生活をしていたらしい。

 同時に、アクティブでもなかった。読書をしたり映画を観たりして、養生でもするように平静に過ごした。

 社会人になり、活発さを求められるようになった。

 受容しなければならなかった。適応しなければならなかった。動作しなければならなかった。

 膨大に、機敏に、正確に。

 すうちゃんの体は、まず、表皮から壊れはじめた。

 食事制限を設け、余計にそれがストレスになることもあったという。

 けれど、何年も自分の体と向き合い続け、最近では自制と放縦のバランスが取れてきているらしい。

 好ましい経験だと、僕は思った。何かに感化され、その方法に従うだけの人というのは、自分が健康だと思い込んでいる場合が多い。

 自分の体を、内観してみる。

 できるのは自分だけだが、自分でも難しいことでもある。

 ある時は手応えを、ある時は甲斐のなさを理解する。

 何かを排し、何かを補ってやる。

 僕が長い間やってきたことだ。この先も、きっとそうだ————。

「あ、パクチー大丈夫だった?」

 鍋の具を器によそいながら、三柴は言った。

「うん。大好き」

 すみれは言った。

「ねえ」

「うん?」

「初めて会ったときのこと、正直どう思った?」

「うん?」

「僕がいきなり手を取ったこと」

「びっくりした。怖かった」

「ハハ……」

「本気だとしてもあり得ない」

「すいません」

 きまりの悪そうに笑いながら、三柴は取り分けた器をすみれの前に置いた。

「でも、広睦君のことを好きになるのに、時間はかからなかったと思う」

 三柴は箸を止めて耳を傾けた。

「理屈も大事だと思うの。この人は優しいから好きとか、面白いから好きとかね。でも、たまにあるの。『直感』————? て言うと、安っぽく聞こえるかもしれないけど、何かに流されるみたいに、その人のことを好きになるときがあるの。自分でも疑問なの。それで、自問自答してみるんだけど、その時にはもう、理屈で好きな部分を弾きだせちゃうから、手に負えないの。だから、もういいやって、その気持ちを受け入れるしかなくなるんだけど————」

 すみれは、難問にでもぶち当たったように眉を寄せた。「人って、頭で人を好きになるのかしら? 体で人を好きになるのかしらね?」

 本当に。

 作業でもなく、欲動でもなく、すうちゃんは、大事そうに、幸せそうにものを味わう。

 僕が求めていたものだ。

 彼女が。

 彼女という生き方が。

 彼女という性質が————。

 すみれは青パパイヤのサラダに手を伸ばした。

 傍らに置かれた、デンファレのかかったグラス。陽気で、鮮やかな、黄色こうしょくのカクテル。

 すみれの肘がグラスに触れた。

 花が、硝子が、黄色が。

 霹靂のように、卓上を伝った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る