6
三柴の胸ははずんでいた。
一つは、新規のプロジェクトが順調に進み始めたため、一つは、贔屓のベトナム料理店に久々に訪れることができたため、もう一つは、目の前にいるのが最愛の恋人であるため————。
「おいしい」
生春巻きを一口食すなり、すみれは惚れぼれしたようすで言った。
「ここのは特別。こっちのトマトも絶品だから」
福々とした笑みを浮かべながら、三柴は勧めた。「よかった。すうちゃんに気に入ってもらえて」
異国の香りが漂う。
爽やかで、優雅で、刺激的。
心が洗われるようでありながら、花や、青果や、香草が、くっきりとした色彩を放ちながら、しとやかに情緒を揺さぶろうとする。
こんな気持ちを、いつまでも持ち続けていたい。
清みきった流れの中に、魅惑的な何かを浮かべて、溺れずにつかんでいたい————。
彼女の名前は
僕より一つ年上。職業、歯科衛生士。
子どもの頃から周りには『すうちゃん』と呼ばれているらしい。だから、僕もそう呼ぶことにした。
すうちゃんが食や健康のことについて考え始めたのは、社会人になってからだという。
家族も含め、それまでは怪我や病気とは無縁の生活をしていたらしい。
同時に、アクティブでもなかった。読書をしたり映画を観たりして、養生でもするように平静に過ごした。
社会人になり、活発さを求められるようになった。
受容しなければならなかった。適応しなければならなかった。動作しなければならなかった。
膨大に、機敏に、正確に。
すうちゃんの体は、まず、表皮から壊れはじめた。
食事制限を設け、余計にそれがストレスになることもあったという。
けれど、何年も自分の体と向き合い続け、最近では自制と放縦のバランスが取れてきているらしい。
好ましい経験だと、僕は思った。何かに感化され、その方法に従うだけの人というのは、自分が健康だと思い込んでいる場合が多い。
自分の体を、内観してみる。
できるのは自分だけだが、自分でも難しいことでもある。
ある時は手応えを、ある時は甲斐のなさを理解する。
何かを排し、何かを補ってやる。
僕が長い間やってきたことだ。この先も、きっとそうだ————。
「あ、パクチー大丈夫だった?」
鍋の具を器によそいながら、三柴は言った。
「うん。大好き」
すみれは言った。
「ねえ」
「うん?」
「初めて会ったときのこと、正直どう思った?」
「うん?」
「僕がいきなり手を取ったこと」
「びっくりした。怖かった」
「ハハ……」
「本気だとしてもあり得ない」
「すいません」
きまりの悪そうに笑いながら、三柴は取り分けた器をすみれの前に置いた。
「でも、広睦君のことを好きになるのに、時間はかからなかったと思う」
三柴は箸を止めて耳を傾けた。
「理屈も大事だと思うの。この人は優しいから好きとか、面白いから好きとかね。でも、たまにあるの。『直感』————? て言うと、安っぽく聞こえるかもしれないけど、何かに流されるみたいに、その人のことを好きになるときがあるの。自分でも疑問なの。それで、自問自答してみるんだけど、その時にはもう、理屈で好きな部分を弾きだせちゃうから、手に負えないの。だから、もういいやって、その気持ちを受け入れるしかなくなるんだけど————」
すみれは、難問にでもぶち当たったように眉を寄せた。「人って、頭で人を好きになるのかしら? 体で人を好きになるのかしらね?」
本当に。
作業でもなく、欲動でもなく、すうちゃんは、大事そうに、幸せそうにものを味わう。
僕が求めていたものだ。
彼女が。
彼女という生き方が。
彼女という性質が————。
すみれは青パパイヤのサラダに手を伸ばした。
傍らに置かれた、デンファレのかかったグラス。陽気で、鮮やかな、
すみれの肘がグラスに触れた。
花が、硝子が、黄色が。
霹靂のように、卓上を伝った。
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