八. 無念の路

ゴォォォォ――

突然流れ込んできた熱風に、スラウは思わず息を止めた。


「獄焔ひとやのほむら……!」


次の瞬間、奥の方が赤黒く光り、おぞましい叫び声が聞こえてきた。

火柱が上がり、あたりが燃え始めた。


「……あなたには止められないわ」


アキレアが低く呟いた。


「引きましょう、グロリオ」


グロリオは焔を睨んだまま歯を食いしばった。


「……全員、撤退だ! 今すぐここから離脱しろ!」


走り出した隊員たちの背後で、地面に転がる屍が次々と焔に呑み込まれていく。


「頑張れよ、もう少しだからな……」


ラナンはそう声を掛けると、トニーの傍で意識を失って倒れていたフィリップを抱き起こした。


最後に別れた時にまだあどけない少年だった彼は、身体つきもすっかり大人になっていた。

スラウも地上界に住んでいたら。

同じように成長していたのだろうか。


ラナンはよぎった考えに首を振った。

その時、胸元の通信機が震えた。

皆に聞こえるように拡声ボタンを押した。


『み、みんな! 早く!』


チニの声だ。


『ランジアが視たんだ! ここはあと数分で全壊するよ!』


その時、フィリップの唇が僅かに動いた。


「行け……」


「でも、お前……」


言いかけたラナンから身を離してフィリップはおぼつかない足取りで歩き始めた。


「大丈夫だ……1人で立てる……」


「ラナン。悪いがこの人を頼む」


ラナンは頷くとライオネルに代わって、トニーを支えた。


「フォセ。悪いがチニの所へ連れていってくれ。俺が手伝えば、みんなが逃げるだけの時間は稼げるだろう」


「うん。良いよ」


フォセが引き受けたのでラナンは思わず身構えたが、風は僅かに吹いただけだった。

それもそのはず、彼女は他の隊員たちとは違って武器を使わない。

威力はより大きくなるが、その分、体力の消耗は激しい。


「ごめん。無理をさせるつもりはなかったんだ。走っていこう」


ライオネルの言葉にフォセは顔から滴る汗を拭った。


「のろのろ走っていたら間に合わないもん」


彼女は大きく息を吐くと、それに、と続けた。


「地味な作業は嫌いなの! こんなに大変な思いしてわざわざあっちまで運んであげるんだから、あとはよろしくねっ!」


その瞬間、風が巻き起こった。

今度は強い。

ラナンは慌てて防壁を張ってトニーとフィリップを守った。

2人の姿が小さくなるとラナンは防壁を解いた。


「まだあんな力が残ってんのかよ……」


思わず声が漏れた。

その瞬間、爆音と共に床が大きく揺らいだ。


思わず振り返ったスラウは凍りついた。

大きく手を広げる焔の中に黒い渦が見えたのだ。


「……っ!」


火に呑まれる子どもの悲鳴が聴こえる。

皆、必死にこちらに手を伸ばしている。

幻聴だ、聞こえるわけがない。

幻覚だ、見えるわけがない。

だってみんなはもう……

スラウは目を瞑って耳を塞いだ。


「スラウ!」


ラナンは声を張り上げた。


「急げ!」


彼女がこちらを向いた瞬間、何かがラナンの顔を掠めていった。

走り出そうとしたスラウは1歩踏み出して立ち止まった。

不自然に仰け反った身体がグラリと傾いた。

胸に何かが刺さっている。


「スラウゥゥッ!」


ラナンの叫び声に先を走っていたグロリオたちが立ち止まって振り向いた。

少し離れたところでゴブリンが地面に倒れ込み、傍に弓が転がるのが見えた。


スラウは震える手で剣を地面に突き刺し、辛うじて立っていた。

肩が上下する度に矢の刺さった左胸から鮮血が滴る。


「スラウ! 後ろ!」


アキレアが叫んだ。

いつの間に大柄なゴブリンが斧を構えてスラウを見下ろしていた。


「くそっ!」


ラナンは空いている右手を掲げた。

スラウの場所と自分の場所を入れ替える。

それなら彼女を助けられるかもしれない。

スラウの周りを青い膜が包んでいく。

だが、箱はすぐに色褪せ、消えてしまった。


「何で?!」


ラナンは自分の手を見下ろした。

指が小刻みに震えている。


「もう、そんな力も無いってか……!」


今やゴブリンは斧を大きく振り被っている。


「スラウゥゥッ! 逃げろぉぉぉっ!」


ラナンの声にスラウが僅かに振り向いた。

突き立てた剣を引き抜いたが、剣先は地面を軽く擦って横に滑っただけだった。

ゴブリンの剣が翻る白いローブを切り裂いた。


「スラウ!」


アキレアが息を呑んだ瞬間、ゴブリンの身体がゆっくりと地面に倒れ込んだ。

フィリップはゴブリンから剣を引き抜いて叫んだ。


「何、ぼさっとしてんだ?! 早く来い!」


ラナンは我に返ると慌てて戻った。

フィリップはスラウの傍に跪くと、矢を勢いよく引き抜いた。

血がシャツに赤い滲みを広げていく。

フィリップは自分のシャツを破くと傷口をきつく縛り上げた。

手慣れた手つきで止血処理を終えた彼は立ち上がると倒れたままのスラウを顎でしゃくった。


「傷口が広がらないよう運んでやれ。トニーは俺が連れてく」


ラナンは迫り来る焔を一瞥し、スラウの傍に膝をついた。


ふと視線を感じて顔を上げると、焔を背に黒いマントに身を包んだ人物が立っていた。

手にした鞭が揺れている。

焔に照らされて、その顔が一瞬だけ見えた気がした。


「あいつ、あの時の?!」


ラナンはよぎった考えを振り払うように頭を振るとスラウを抱え上げた。

もう1度見た時、その姿はなかった。


***


「急げ! 早く!」


ライオネルが叫んだ。

今や天井が崩れ、地面にも大きな裂け目が入っていた。

前を走っていた隊員たちが次々に要塞の外へ飛び出していく。

ラナンは外で待っていたグロリオにスラウを預けて振り返った。

フィリップがトニーを抱えてもうそこまで来ていた。


ラナンが手伝おうと腕を伸ばした。

その瞬間、足元が崩れた。

落ちていく2人を焔が呑み込もうと待ち構えている。


「くっ……!」


身を乗り出したラナンの手が掠り、フィリップの腕を掴み損ねた。


「フィリップ!」


その瞬間、フィリップの身体がフワリと浮き上がった。

トニーが背中を押したのだ。

ラナンの手がフィリップをしっかり掴んだ。


「やっと……あんたにお礼ができた……」


焔が微笑みを浮かべたトニーを呑み込んだ。

彼の姿が見えなくなる直前、微かに唇が動くのが見えた。


『ありがとう……』


「トニィィィッ!」


フィリップの叫び声が焔の轟音に掻き消された。

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