七. 想い①
「ハァッ……ハァッ……」
トニーは重い足を引きずるようにして歩いていた。
扉のない長い廊下が続く。
「どこだ? ここじゃないのか……?」
低く唸るとよろめく身体で更に奥へ進んだ。
疲れ果てた思考に記憶が混ざってきた。
彼は暗がりを歩いていた。
今、自分が居るのは「無」。
何もない。
つい先程まで聞こえていた悲鳴も、逃げ惑う人々もいない。
ただ、ただ、焦げ臭さの残る荒野だった。
おぼつかない足取りで進み続けていると、逃げ惑う人々の影が見えてきた。
彼らの目には恐怖が浮かび、我先に逃げようと互いを押しのけ合っている。
トニーが近づくと彼らは煙と一緒に消えてしまった。
自然に足が止まった。
小さくなった木炭が散在している。
自分の家があった場所。
愛する家族が住んだ場所。
もはやそれを示すものは何も残っていなかった。
彼はしばらくそこに立っていた。
頬を何かが伝った。
見上げると重く垂れ込めた雲から雨が降ってきていた。
彼はそのまま自分の身体が濡れていくのに身を任せていた。
パチパチ――
小さな火の爆ぜる音に引き寄せられるように彼は再び足を踏み出した。
焦げついた石塊の合間に小さな焔が見えた。
全てを焼き尽くした焔は今や小さな灯火となっていた。
突如村に現れ、あっという間に多くの命を呑み込んだ焔。
今は何の恐怖も感じられない。
ゆっくりとそれに近づいた時だった。
ふと気配を感じて視線を上げると、向こうに誰かが立っていた。
黒いマントをすっぽりと被っていて、手に握られた鞭が長い影を落としていた。
鞭が揺れる度、焔も同じように揺らめいている。
まるで生死を支配する死神のようだ。
降りしきる雨の中、彼と死神はしばらく黙って互いを見つめていた。
不意にバシャバシャと水の跳ねる音と馬の嘶きが聞こえてきた。
振り返ると数人の男が暴れる馬を押さえつけているところだった。
「遅かったか……」
先頭にいた青年が呟いた。
「生存者はあなただけですか?」
トニーはしばらく黙っていたが、後ろを振り返った。
火はとうに消え、死神の姿もなかった。
「あぁ……そうだ」
そう答えると、青年は住む場所や食料を与えてくれた。
彼はフィリップと名乗った。
ある日、フィリップに声をかけられた。
「ここの生活には慣れましたか?」
相変わらず黙りこくったままの自分の前を2人の子どもが笑いながら駆けていった。
「……すみません。稚拙な質問をしました」
彼は素直に謝ると言葉を続けた。
「ここにいる人たちも皆、あなたの村に起こった悲劇と同じものを経験しているんです。それでも悲しみや憎しみを押し殺して生きようとしている。でも知っていますか? 昼、笑っている人々が、夜、声を殺して涙を流しているのを」
つと彼は目の前の草を掴んだ。
「俺は嫌だ、こんな偽りの生活は…何故笑わなきゃいけない? 何故涙を隠さなきゃいけない? 生きているだけで十分だ、皆そう言う。でも、泣きたい自分を殺して生きていくなんておかしいじゃないか……!」
トニーは黙って、その言葉を聞いていた。
「俺は……この地に悲劇をもたらした奴を知っています。俺たちはあなたのような故郷は持っていないが、心の拠り所を失う苦しみは知っているつもりです」
「……」
「突然話しかけてすみません。でも、何故かあなたが俺と同じ目をしているように見えた。とてつもなく大切な何かを無くしたような……」
フィリップは寂しげに微笑むと立ち上がった。
「たわいのない戯れ言です。気にしないで下さい。では……」
「待って下さい!」
考えるより先に言葉がついて出てきた。
「つ、連れて行って下さい! 俺も!」
振り返ったフィリップの笑顔が闇に消えていく。
トニーは首を振ると、再び延々と続く暗い通路を歩みだした。
「…あの人は何もかも失った俺に全てを与えてくれたのに」
低く呟いた声が虚ろに響いた。
あの時はまだ、自分がまたそれを失うことになろうとは微塵も思わなかった。
その時、壁を伝っていた手が何かに引っかかった。
「あった! あったぞ!」
壁の窪みを押すと、壁に大きな穴が開き、中からひんやりとした空気が流れ込んできた。
「ゾルダーク様! 俺はあなたの言う通りにした! だからっ……?!」
叫んだトニーは言葉を失った。
誰もいない。
ゾルダークは自分をここへ連れてきて指示を下した。
取引に応じれば、妻と娘にもう1度会わせくれると。
彼は誰もいない広間を駆けながら叫んだ。
「誰か! 誰か、いないのか?!」
だが、その声に応える者はいなかった。
「おやおや。誰かと思えば…人間か」
振り返ると1人の男が立っていた。
「アレはどうした?」
「フィリップなら、約束通り連れてきっ……!」
「そんなことを聞いているんじゃぁない」
低く唸る男にトニーは思わず首をすくめた。
「死んだかどうかを聞いているんだ」
「……っ!」
「まだ生きているようだ」
覆面の男が新たに入ってきた。
「天上人が助けている」
「ほぅ……やはり我が君の仰った通りか。行くぞ。焔ほむらの番人を呼んでこい」
トニーは背を向けかけた男たちにすがりついた。
「ま、待ってくれ! 約束したよな?! 妻に、娘に会わせてくれ!」
腹部に激痛が走り、トニーは地面に転げて呻いた。
「約束? 知らんな」
冷たい男の声が刺さる。
「でも! ゾルダーク様は……っ!」
再び蹴りが飛んでくる。
「黙れ。人間ごときが気安くその名前を呼ぶな」
「でも約束が……」
男たちは互いに顔を見合わせたが、突然吹き出すと笑い出した。
「な、何が可笑しいんだ?!」
「何って、お前だよ! あんなのを信じていたのか?! ハハハハッ! 本気で死人が蘇ると?! アハハハハハッ……」
「……っ!」
トニーは血が滲む程に唇を噛んだ。
立ち上がろうとするのに身体が動かない。
「騙したのか……」
この約束を信じて今までやってきた。
だが、何もかもが間違いだったのだ……
ぼやけていく視界の中で男の声が響いた。
「御苦労……お前のおかげで、あの男は最も悲惨な最期を遂げることになるだろう」
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