第9話 吸鳴
身長の高さで上から降り注ぐ光をまともに受けられない湊は、まるで目薬をしたかのような大粒の滴をこけた頬の上から流した。黒い影自体を見ているかのような桜久良は、太陽から照らされる月のようにそこにじっと立ち彼を眺めている……
ふたりの辛さが溢れだした今日の夜。
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『「助けて」は本当に困ったときに云われると、逆に助けられない。
「わかる?」
助けてあげたくても、その傷はただの軽少じゃないのよ。それはもう重症なの、重体なの。手持ちの救急箱で助けられる軽さじゃない。』
 ̄ ̄ ̄
窓ガラスに打ち付けた雨のように夜の街灯を滲ませる感覚が、桜久良の瞳でオレンジの豆電球を用いて連想させる。ガラスを叩き割るように、自分の腕をガンガンと床に打ち付けて喘ぎ哀しむ。声を上げればあげるほど自分の喉から親友の名前を呼んでいたことを思い出して追い詰められた。
「咲こそ、咲こそ、咲こそ、咲こそ、咲こそ…………………
咲が死んだら、私…………」
桜久良の住居を知っている人間が紅く染め上げた口角をこれ以上なく吊り上げて微笑んだ。ヒールを穿いた脚は彼女の部屋の電気を付けなかったことを脳裏に焼きつけて、求めていたある場所へと音を立てずに戻っていった。不幸が続いている彼のもとへと―――
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湊の家。
哀しさに暮れているとはいえ、整理されているはずの書類の棚が落ちた。
疲れている身体をスッキリしようとお風呂から上がった時の出来事であった。タオルで頭を拭き乱しながらしゃがみこんで右手て持ち上げた時、あの家庭科の教科書が調理実習のページを開いて床に叩き落ちた。
『浮気』『キモい』『マザコン』『子供』そんなような言葉が一面にぎっしりつまったページが顔を出した。しかし彼はそんな筆圧に動じず、その言葉の奥にあるひっそりと光を灯しびを信じた。お母さんらしき人がよく作ってくれそう料理のレシピが、その誹謗の言葉の下に眠っているからだ。
うっすらと微笑みながら拾い上げる湊は、捻りそびれたはずのない水の蛇口を閉め直して、ある人へと連絡をする。電話の相手先が不安そうな声を洩らしているのを知りながらも、その人に向けて家庭科の教科書の写真を送りつけた。もちろん彼は中傷された言葉に同情して欲しくて送ったのではなく、そこに記載されている料理が食べたいと部屋のなかでシャッター音を鳴らした。たとえその味でなくてもいいから、誰かの手料理でそれを食べたいからと……
―――――
いつだったか、彼の名前について不思議がる女性がいた。
彼の名前はあくまでも′当て字′で付けられたようなものだから。
『湊』という漢字は、彼の名前のように『′かなで′』とは読まない。そもそも湊とは、みなと/あつまる/水があつまるなどの意味をもつ漢字である。
桜久良も気になった事があった。学生時代に先生に読み間違いされたことはないのか。そもそも、私たちの頃はまだ『~太』『~子』などそのような名前が支流であった。桜久良自身、咲にやり取りするまでは名前のせいで華やかなイメージを抱かれ周囲とのギャップに苦戦をしていた。今の現代ともなれば名前たちは、ものすごく豊かになり逆転しつつあるものの気にがかかった。
桜久良はそんな他愛のないことで頭をシャワーのお湯で打たれながら身を預けた。身を委ね過ぎたばかりに、誰もいないはずの頭を触られ悲鳴をあげたのは記憶に新しい。
―――――
雨上がりに這い上がったミミズは、夏の日差しのあまりに干からびた。これを目がしに黒くて残酷な蟻たちは、ミミズを細かくしては自分の住みかへと運ぶ。
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