いじめる側の意識の問題というのは、実はかなり根深いのかも知れません。
人間というのは意識していない相手のことを、ほんとうにどうでもよく扱いますよね。それこそ、ゲームの駒の様に撃って潰す。
Gを潰す時の方が感情が動くのですよね。だから殺虫剤で殺すのですね。
おそらく、その程度の意識、認識なのでしょう。指摘されれば、相手は強く否定するのでしょうけれど…。
以前に読んだ本で、関わり合いのない人、他人というのは影のような存在であるという記述を見たことがあるのですね。
お互いにそれぞれが生きてはいるのでしょうが、関わりをもっていないために、何かあっても、自分に関係ない、影の世界の出来事のように感じる。つまり何も感じない、心に響かないのだろうと。
相手を自分の中に入れる行為、それをして初めて、相手を影ではなく認識できるのだと。
相手に興味を持つ行為。それが自分の中に相手を招く、認識することらしいです。
会話や学校行事などの共通体験、そういうものをきっかけにして繋がりができていくものなのですが、どうもそのあたりが弱いのかな?
最近、そんな風に思うことがありますね。
そういったコミュニケーションの基礎、大元は家庭で学んでから学校のような共同体に入ってゆくものですが、そこがうまく機能していないのでしょうか?
相手を影のような状態のまま、対等の人間として認識する機会を持たないまま学校に入ってくる子供が増える。
その子供が大人に、親になって、子供を育てたり、傷つけたりしているのかなと。
杞憂かも知れませんが、コミュニケーションの知らない世代、他人と関わることを知らない人が増えているのかなと感じたりしてます。
自分もコミュニケーションの出来ない人間でしたので、軽度のイジメや、ハブられる側にいたことはあります。
ただ、それはそういった状況にあっただけで、機会によって逆の立場になること。それこそコインの表裏のようなことがあっても不思議ではないと認識しているのですね。
おそらく、いや間違いなく当時の自分は相手を人間でないものとして感じていたのだと思います。ごく少数の親しい友人さえ、すがる相手でしかなかったのではないかと思ったりもしています。
自分は当時、その状況に恐怖感を持っていましたが、
それすらもなければ、目の前に対する障害物でしかない相手には、それこそゲームや虫のように排除していたのではと思うのですね。
相手と繋がらない状態、相手を同等の人と認識できない状態というのはそれくらい恐ろしいものなのです。
イジメについて、自分はそんな風に感じています。
作者からの返信
みなはらさん、読んでくださって ^^) _旦~~
いじめ問題って、実は万人共通の問題ですよね。いじめに遭った経験というのは、色んな作品になっていたり発信されていたりするんですが、そこからもう一歩踏み出した意見が出ないと……そうですね、おっしゃる通り「人間として認識する」っていう感覚の欠如。そこが問題っていう。そもそも、人間って何、生きてるって、死ぬってどういう事、痛みってどういうもの、っていう、そういう「リアル」を感じる機会が減っている気がします。自分が痛みを味わった先の、他者の痛みも感じる想像力というか。
「いじめはなくならない」っていうのは、ある意味事実だと思うんですが、そのある種の「自然現象」を抑えるのは、思いやりと自制心ですよね。我慢というか、忍耐が必要で。
育った環境は人それぞれ、忍耐する力も、個人差がある。だけど、例え自分がかなりそういう先天的・後天的資質に恵まれていなくても、やっぱり、努力する事はやめてはいけないんだと思います。もしかしたら、痛みが伴う苦行のようであっても。コミュニケーションっていうのはだから、苦しい側面も引き受ける行為なんだと思います。
なかなか、そういうのは青年期には思いもしなかったですけどね。
障害者だって人間だもの ねこお
無視、ねぇ。不良女から格好の餌食にされていた僕も、流石に高学年からは無視されるようになりましたね。
イジメのない学校だったんですけど、徐々に。こう、明確な無視じゃなくて、いざとなれば助けてくれるけど、基本的に僕が一人でも大丈夫だという状況下だと、みんなスルーしていきましたね。自分が浮いてる人間だと思っていたので、その妙な距離感には諦めがついていましたよ。
距離を取る、というより、意図的に避けてるって感じだったし、何よりスタート地点が……。最初から無関心同士ならいいですけど、僕の場合は仲良かった同士なので。特に、当時は恋心だと気づかなかった特別枠の子が離れていったのは、何気に傷つきましたね。悪意はないんだろうけど。
ってもね、心優しい子らが多いその学校でも、学年に一人や二人手に負えないバカがいるんですよ。非難されて当たり前、みたいな感じの。
一人は、何もかも汚いくせにナルシストで上から目線な男子。別に貧乏でも汚くてもいいんですよ。僕みたいな人間でも仲良くしてくれた人は多くいたし。ただね、性格さえもね、どうしようもないというか。その男子に好かれてるって、親友の女友達に相談された時は、ガチめに引きましたしね。
もう一人は、まぁ、この界隈にも良くいる女です。正義面して何もかも悪いと騒ぎ立てる奴。風紀員気取りのね。特に男子からメチャクチャ嫌われてましたが、まぁ前者の男子とは違い、友達らしき人物は一人もいませんでした。
お前何も楽しめんぞ? ってぐらい。っというか、今思い出したけど、一回もその人と喋ってない……。どうでもいいか。
まぁ随分と長くなっていますが、子供から大人の世界に移ると、色々と辟易としますよ。何も変わらないんですもん。広くなっただけで。
作者からの返信
ネコさん、読んでくださって ^^) _旦~~
何だろなあ、あからさまな嫌がらせは無いけど、浮いてる、っていうのは、なかなか厳しい状況ですよね。特に子供の時期って、親友的な密接な関係の友情を経験する年齢だと思うので。大勢から好かれるより、仲のいい人が一人でもいたらいいんだと思いますが、そのクラスにはたまたま、気の合う人がいなかったんでしょうね。何とも……。
大人の世界は、どう言ったらいいんだろう。今はそんなに差がない気がします、子供も大人も。誰しも気を遣いながら生きてる気がする。それに、忙しい。夏休みを目いっぱい暇に過ごす子供って、どのくらいいるんだろう。することが無さ過ぎて下らない遊びを思いついたり。
そういう「暇」とか「余力」みたいなのが、人の心を豊かにするんじゃないのかなー、と思うし、何か気に入らない事があったとしても「まあいいや」と流せる余裕を生む気がします。
編集済
※削除対象で構いません。
いじめはダメ。というのを・・・それを訴えるだけでは、ダメ。
――というのは、確かですが、問題は、そこから先でしょう。それが欠けてます。
そして、その結論は、先人が出してます。
三島由紀夫は生前、東大をはじめをした成績優秀な"だけ"の学生との論争に疲れて、
「青年は人間性の本当の恐ろしさを知らない。そもそも市民の自覚というのは、人間性への恐怖から始まるんだ。自分の中の人間性の恐怖、他人の中にもあるだろう人間性への恐怖、それが市民の自覚を形成していく。互いに互いの人間性の恐ろしさを悟り、法律やらゴチャゴチャした手続きで互いの手を縛り合うんだね。
(中略)
だからこの際、東大を人間性の完全な解放区、つまり動物園にして、気づかない青年たちの"完全なる自治"に委ねる。そのときいかなる事態が生ずるか。身をもって学生たちに体験させる。イヤでも気づくだろうさ。(東大を動物園にしろ)」
と、書いて、見放したわけです。
その後、この成績優秀なだけで、三島が指摘したような、ヒトへの恐怖を持たない、自分の誤謬をわからない者が、何をしたか…。
浅間山荘や日本赤軍・・・時代を経てオウム真理教を鑑みれば、まさしく動物園そのもの。
いじめ、ばっかり。
所詮、東大だの言っても、規範・人間性が無いから、知識を棍棒の様に振り回すだけで、野蛮人というよりも獣なわけですね。
カントが・・・
「人間はそもそも邪悪な生き物だ。だからこそ法律の中に放り込まねばならない。
人間を"善"だと言っても、平和にはならなかった」
と、いう言葉を残したように。
つまるところ、本当にいじめをなくしたいと言うなら、かつての会津で言われていた教育『ならぬことはならぬ』・・・と。
ヒトという獣を法律の中に放り込まなければならないわけです。
鎖で縛るなかで、『なぜ自分が縛られるのか』を、自分で考えさせて、調教するしか無い。
ただ、今の大人に出来るのか?と、いうと甚だ疑問です。
だって、政治家、官僚という法律の番人、最も法に従わなければならないものが、自分勝手にルールを貪り、自分の得になるように弄っているのですから。
規律を守らねばならぬ者が、守らないのですから、何の、誰の見本になるのやら。
なろうの頃から、読ませていただいてますが、何かを批判をしながらも、そこに甘んじているきのこさんに、それを論ずる資格はお有りで?
直接の手をくださぬとも、批判せずに追随しているという点では、寧ろ、いじめている側ですよ。しかも、子供社会でなく、大人社会で。
自己批判に至らないのですから、何の価値も見いだせません。三島、太宰、漱石・・・海外ではカント、ニーチェ、ドストエフスキーなどなど。
彼らはまず、自分と周囲の醜さを直視して、そこから逃げてません。そこから物語が生まれるから、面白いもので、長く読まれる。
そういう意味では、悩んでいる様に振る舞いながらも、高い位置からいじめを論じる。実のところ自分の恵まれた環境にある矛盾から出てくるだろう苦悩に全くもって触れないのはズルく思えました。
言いたくはないけど、コレは娘さんも同じ。寧ろ娘さんはきのこさんのように、人生から来る後ろめたさが無いでしょうから、よりヒドイ。私には忌避感しか無い。
・・・と、まぁ、読んでの違和感を書かせていただいた次第です。
ただ、矛盾を突くのではなく、なんとかやり過ごすという女性的思考と言えるかもしれませんね・・・。一応、理解はしてます。
ここでは応援が常で、批判はダメみたいですから、削除対象・・・。消して構いません。寧ろ消してくれ。
作者からの返信
アノンさん、読んでくださって ^^) _旦~~
そうですね、「論じる資格があるのか」。正直、どの位置に立ってモノを言うかにも依るんだとは思います。罪を犯したことが無い人間はいるのか、っていう、そういう観点から言えば、全人類が黙るしか無くなるのです。なので、ここでは「ただの人間」として論じます。何物でもない、人間です。
さて、私は偉大なる文豪と比べるにはあまりにも、矮小であります。なので、彼らの残した轍(申し訳ない)を踏む事は避けたい、というか、その足跡すら見ることは無いと思っています。断固として、家族にかける迷惑を最小限に留めたいと願う凡人です。たぶん、どれだけ卑怯だと言われても、受け流していくんだと思います。ただ一点。人の親として、自分の闘争に子供を巻き込みたくない気持ちは少なからずあります。だけど、こうして得た感想に対し、真摯に答える場面を見せる、いい機会を得たと思っています。
批判はダメではありませんよ、私の場合は。むしろ、自分の内部に潜む闘争心を開放するのに丁度いい場を得たと思って、歓迎します。ただ、多くの人はそうでは無いと思うし、内部の暴力性を自覚していない人が大半だと思うので、やっぱり「応援コメント」ってう形の方が、よそでは歓迎されるんだとは思いますね。はいー。