第59話 G

 放課後。

 俺は一人だった。


 レイにはある程度の事情を話して、先に帰ってもらっている。

 そうして昨日、イバラギさんと別れた場所で、再び彼女を待っているのだ。


 実のところ、イバラギさんからは、まだ話を聞けていない。

 俺を引き留めてまで『いじめられている』と発言した彼女自身が、ハッとなった表情を浮かべ、『また明日、ここで待ってるから』と立ち去ってしまったからだ。

 わざわざ引き留められてまでした会話だったが、彼女のほうからその機会を放棄してきたということになる。


 理由は不明だが……、俺から引き留めることはしなかった。

 一連の行動が、彼女にとって、どういったモノなのかの判断がつかなかったからだ。

 もしかすると、俺を引き留めることだけでも、多大なエネルギーを使っている可能性だってある。


 彼女の意図も分からない中で、俺ができることは、彼女の到着を待つことだけだった。


   ◇


 自分のテストの点数とレイのテストの点数とを交互に思い出して、一喜一憂していた時――イバラギさんは、向こうからやってきた。

『風紀委員』と書かれた腕章をつけている。

 それは彼女と二回目に出会ったときの姿だった。


 自信に満ちた顔。

 だが俺にはどうも、その奥に別の何かが隠れているように思えた。


 イバラギさんは俺と目が合うと、どこか気まずそうにしながら視線をさまよわせた。

 やっとのことで近くまでくると、ストンと崩れ落ちるように、俺の横に座った。

 

「本当に来たんだ、アラキジン」

「イバラギさんが来いって言ったんだろ」

「確かに言ったけど、それで来るか来ないかは、あなた次第でしょ」

「そりゃそうだけどさ」

「それに……いいの? 私と二人きりで話してて。恋人、怒るんじゃない?」

「恋人?」

「昨日の下級生。彼女でしょ?」

「いや、ただの後輩だけど」

「へえ。そうなんだ」

「たまに夕飯をうちで食うぐらいだな」

「うん……?」

「あとたまに朝ご飯をうちで食べてるな」

「それ、彼女以上に不思議存在なんだけど……まあ、いいわ」


 イバラギさんはげんなりとした表情を浮かべた。

 それがどこか作り物めいて見えたのは、なぜだろうか。


「話、あるんだろ?」


 単刀直入な物言いに、イバラギさんは怒らなかった。


「イジメられてんのよ、イバラギさんは。その相談と解決を荒木陣に求めてる」

「まるで他人事みたいだな」

「他人事のようで、他人事ではない感じね」

「先に言っておくけどな……解決できるかなんて、俺にはわからねーぞ」

「解決できるわよ」

「んなこと言われてもだな……」

「解決できる。あなたならね。じゃなきゃ、私はあなたに助けを求めようなんて思わない。だから助けてよ、アラキジン」


 現実味のない言葉を、彼女は並べ続けた。


「とにかく私の話、聞いて」

「すでに聞いてるだろ」

「聞くの? 聞かないの?」

「だから、聞いて――」

「どっちなの」

「お、おう。聞くよ」


 レイとはまた別の威圧感を感じた。


「じゃ、話すからね」


 そうして彼女の話は始まった。

 それは彼女の内面へともぐる旅の始まりだった。


 ◇


 イバラギさんは、スタートの合図をするかのように足を組んだ。

 そこに肘をのっけて、手のひらには顎をのっけた。


「あたしって、昔から気弱だったのよ」

「気弱……?」

「なによ」

「いや別に……」

「ふんっ」


 やはりどこか演技っぽく、彼女は鼻を鳴らした。


「あなた、兄弟いるんだっけ」

「妹が一人いる」

「頭、良い?」

「どうだろうな……。紙一重な気がするけど。俺のほうが劣っている気がする」

「なにそれ、ひどい言い方」


 そこだけは心から楽しそうに、イバラギさんは笑った。


「私にも、姉が居てね。これがまた、よくできた姉なのよ」

「うちと同じってわけか」


 妹と姉という点では違うけど。


「何をするにも比較されてさ。私はいっつも――」

「つらかったのか?」


 先行した言葉は、しかし、心情をとらえてはいなかった。


「全然。よくできた姉っていうのはさ、妹のことまで思ってくれるわけ。いっつも私をダメ子供扱いしてきた親から、姉はわたしを守ってくれたのよ」

「良いお姉さんだな」

「ええ。私の自慢の姉。いつだって背中を追いかけていたわ。彼女は私のお城だった。そこに隠れてさえいれば、私は傷つかなかった。まるで茨で囲われたお城に一人で隠れているように、私は私でいられた」

「……そうか」


 含みのある言い方。

 俺は頷くことしかできない。

 イバラギさんはどこか、遠い場所を見つめていた。

 視線は時間を逆行しているようだった。

 

「そう。いつだって、お姉ちゃんは私を守ってくれた。なんだって守ってくれたのよ……でも今回だけは、姉を頼ってはいけないの。だって、これは――私が解決しなくちゃいけない問題だから」

「助けを求めたっていいだろ?」


 俺は、かつての俺を思い浮かべた。

 レイが居なかった時間。

 レイが居てくれた時間。

 どちらが良いかなんて、言葉にするまでもない。


「そうね」


 イバラギさんは、そこで俺を見た。

 視線は確実に俺をとらえていた。


「荒木、陣」

「なんだよ」

「続きは明日、またここで話しましょ?」

「……は?」

「真面目なんだから、登校日はきちんとくるんでしょ?」

「いや、そういう話じゃなくてだな」


 登校日はまだ三日ある。

 月曜日から金曜日までの五日間。

 しかし、だからといって、今日はこれで終わりという意味がわからない。

 そもそもイジメの話はどうするというのだろう。


「じゃあね。また、明日、ここで」

「お、おい、ちょっと――」


 引き留めようとして、先ほどの思いが胸をよぎる――彼女は何がしたいのだろうか?


 俺は結局、彼女の背に声を掛けなかった。

 掛けられなかった。


 去り行く背中をぼんやりと見つめながら――結局俺は、明日もここで待つのだろうな、と他人事のように考えた。

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