第48話 記憶(ユカリ視点)(β)

 姉のユカリ。

 妹のマドカ。


 一才しか違わない姉妹だけど、アタシたちは全く違う性質だった。


 アタシは、ほんわかとしているらしい

 マドカは、ハキハキとしている。


 アタシは頭がよくない。

 マドカはいつも要領が良い。


 アタシは健康で。

 マドカはいつも病気がちで。


「お姉ちゃん。わたし、この人と結婚したいの」


 初めて、マドカの婚約者を紹介されたとき気が付いた。

 ああ、なるほど。

 色々と違うアタシたちだけど。


 男の趣味だけは、同じなのか――って。


 でもそれだけだった。

 だって、アタシはマドカが大好きで、自慢の妹で、両親が死んでから命を懸けて守ってきた宝物で――婚約者のサトシさんと一緒に幸せそうにしている姿を見ているのが、アタシの一番の幸せだったからだ。


 二人を遠くから眺めているだけでよかった。

 アタシの幸せは、二人の間に育っていた。


 二人に恋してた、って言えばいいのだろうか。

 アタシが立つ場所は、二人の傍にはなかったけれど、後ろから楽しそうな背中を見ているだけで、なんだかとっても幸せだった。


   ◇


 マドカが妊娠した時。

 アタシの人生は悩みの最中だった。

『村』なんていう、都会生まれのアタシたちには縁のない場所へ嫁いだ彼女は、隣の町まで働きに出るサトシさんと、サトシさんのお母さんと三人で暮らしていた。


 お義母さんは無口だけれど愛情に深い人で、マドカどころか姉のアタシまで、まるで娘のように接してくれた。


「仕事やめてきちゃった。これで出産に立ち会えるなぁ」


 アタシが言うと、マドカはその美しい眉をゆがめて、それでも笑ってくれた。


「お姉ちゃんがいてくれたら、安心ね」


 マドカは自宅での出産を決めていた。

 村では代々、そうしてきたらしい。

 幸いに母子ともに健康だった。

 アタシの心配は次の就職先ぐらい。


 相変わらずサトシさんとマドカの間に幸せの木を育てながら、アタシは一人で幸せを感じていた。


 アタシの居場所は二人の側にはないけれど、幸せの間借りをしているみたいな感じ。

 アタシそれで満足していた。


   ◇


 昔の夢をよく見る。

 マドカは見ないらしいけれど、アタシは両親の葬式の夢をよく見た。


 両親が死んだのは事故で、それはアタシが16才、マドカが15才のころだった。

 道路で起きた不運な事故で、当時はニュースでも騒がれたものだが、騒ぐだけ騒がれた後、残ったのは孤独だけだった。

 誰も助けてくれないというわけだ。

 

 アタシたちは親族の家を転々とするはめになった。

 だが20歳を超えたころには、父と母の遺産を受け継いで二人暮らしを始めた。

 

 アタシはさえないアルバイト。

 マドカは花の女子大生だった。


 忘れられない一言がある。


「お姉ちゃん、我慢、してないよね」


 ある日、突然、マドカに聞かれた。


『なんのこと?』とは聞かなかった。


 我慢してるなんて気が付いちゃいけない――アタシの我慢をため込む箱は、16才の頃から、パンパンだ。


 でもアタシは笑った。

 だって、それが姉の務めだからだ。

 それを否定したら、アタシは立てなくなっちゃう。


 そしたら誰がマドカを守るの?――アタシの家族は、マドカだけなのだ。


   ◇


 出産が近づくにつれて、アタシたちの会話は現実的なものになっていった。

 おむつはどうするとか、服はどうするとか、お姉ちゃんの次の就職先はどうするだとか、ここで一緒に暮らそうよ、だとか。


「わたし、『お母さん』じゃなくて、『ママ』って呼ばれたいな」


 ある日マドカは恥ずかしそうに教えてくれた。

 それで色々と編み物してあげて、ペアルックをつくって、一緒に遊ぶの――そしてママって呼んでもらいたいらしい。


 マドカの気持ちはよくわかる。

 たしかに『ママ』のほうが良い。


 そんな話をしていたら、時間は光のように過ぎていった。

 

 そして『あの』出産の日がやってきた。


   ◇


 その日はうす暗い朝で、雲が分厚い嫌な日だった。

 なんだかイヤな予感がしていたのだ。

 それまでなんてことなかったのに、とっても嫌な予感が突然降って湧いてきたのだ。


 結論から言えば、マドカの出産は失敗だった。


 子供は元気だった。

 だけれど、マドカは――アタシの妹は、出血多量で亡くなった。

 出産は命がけなのだ。

 わかっていたつもりだけど、アタシはわかっていなかった。


 命の誕生に笑えばいいのか、命が消えたことに泣けばいいのかわからなかった。

 わかるといえば一つだった。


 失意のどん底にいるだろうサトシさんに、アタシは言った。


「この子を育てるの、アタシも手伝います」


 妹が命を懸けて生んだ命だ。

 ならアタシが守らなきゃいけない。

 だってアタシはお姉ちゃんなんだから。


 我慢?――そんなもの、忘れなきゃ。

 なにもかも忘れて、なにもかも置き去りにして、アタシは目の前の命を守らなきゃいけない。


 それが姉なんだ。


   ◇


 それからは怒涛の日々だった。


 子供は女の子だった。

 名前は宮子ちゃん。

 それは生前、マドカとサトシさんで決めていた名前だった。


 不思議な家族構成――サトシさん、お義母さん、ミヤコちゃん、そしてアタシ。

 家族ではない、家族。しかし、居心地は良かった。

 妹を失った悲しみに押し潰されないぐらいには。


 最初の数か月はてんやわんや。

 アタシは次の仕事のことなんて考える暇もなく、ミヤコちゃんの世話をした。


 そんな中で、アタシはサトシさんとお母さんと、ミヤコちゃんと――ずっと一緒に暮らしてきたような錯覚を覚えた。

 なぜだろうか。

 わからなかった。


 その次の数か月は、さらにてんやわんや。

 アタシは何を考えるでもなく、育っていく命を必死に抱きしめた。


 サトシさんは仕事をし、足腰が弱くなってきたお義母さんを必死に支え、アタシはミヤコちゃんを育てた。


 そして、その時はやってきた。


   ◇


 ある晴れた朝のことだった。

 子育てにも慣れてきたころだった。

 

 ミヤコちゃんは首も座り、離乳食もなれてきて、ハイハイも進んで、どんどん自立していった。

 あとは言葉だけだな――そんなとき、ミヤコちゃんはアタシを見て、言った。


「ママ」


 後々考えると、それは『まんま』だったのかもしれない。

 お腹が空いていただけかもしれない。


 しかしアタシは衝撃を受けた。

 その二文字は、別格だった。


『わたし、ママって呼ばれたいな――』


 そう笑っていた妹の笑顔がよぎった。

 ついさっきまで忘れていたような気がしていたのに、昨日話したかのように、鮮明に思い出された。


 その頃アタシは、サトシさんとお義母さんとミヤコちゃんとの生活に慣れきっていた。

 当たり前だとも思っていた。

 それがたった一言――ミヤコちゃんの『ママ』という言葉で目が覚めた。


 ――アタシは、妹の居場所に居座っているだけじゃないの……?


 疑念は留まるところを知らなかった。

 アタシはミヤコちゃんの母親ではない。

 どんなに頑張っても、妹を超えることはできない。


 アタシの愛は――母親のそれではない。

 きっと、何か、別の何かなのだ。


 驚いた。

 アタシは少しの間、姉としての何かを忘れていたかもしれなかった。

 まるで竜宮に居続けて地上へ戻ることを忘れた、浦島太郎みたいに。

 

   ◇


 アタシは村を出ることにした。

 これ以上、ミヤコちゃんの傍に居てはいけないと思った。


「そんなことないよ。ミヤコも喜んでるし、マドカだって……」


 サトシさんは首を振ったけれど、アタシにはもう駄目だった。

 気が付いた。


 アタシの中の妹は――マドカは、まだ死んでいなかった。

 ミヤコちゃんを育てる、中途半端な決意をした瞬間から、マドカの死を受け入れる時間が止まっていたらしい。


 だからアタシはミヤコちゃんに『ママ』と呼ばれることに、恐怖を感じている。


 妹が望んでいた幸せを、横取りしたような気分になってしまった。アタシの中に生きているマドカの居場所を奪っている気になってしまう。


 アタシはだから、立ち去った。

 逃げたといわれても、仕方がない。


   ◇


 それからアタシは都会に戻った。

 再就職をして、結婚をした。

 サトシさんとお義母さん、ミヤコちゃんとの生活を忘れようとしたが、無理だった。

 それは幻のように、アタシの脳裡にゆらゆらと、たゆたっていた。


 結婚してから数年後。

 子供に恵まれた。

 男の子。

 エニシと名付けた。


 この子は幸せにしなければ、と思った。

 それは母親としての気持ちのはずだった。


 その間も、アタシの元には一年ごとにミヤコちゃんの写真が届いた。

 サトシさんが送っていたのか、お義母さんが送っていたのかは知らないが、拒否することはできなかった。

 

 一年生――大きくなったね。

 三年生――マドカに似て美人だね。

 六年生――なんでそんな、つまらなそうな顔をしているの?


 ある時、サトシさんと話す機会があり、その時、アタシは知った。


「ミヤコには、母の死を伝えていないんだ」とサトシさんは言う。

「なぜ」とアタシは絶句した。


「ミヤコは……、母親のこと、覚えてるんだよ」

「母親……?」


 マドカのこと?

 いや、まさか。


 サトシさんは首を振った。


「君のことだよ。君との思い出を、母親のそれだと信じている。それを死んだ、とは言えないよ。話が複雑すぎる」

「複雑じゃないでしょう? 黙ってるほうが、複雑よ」

「子供にとっては衝撃だ」

「でも、そんなことって――」


 サトシさんは遮った。


「――それにね、俺は思うんだ。君の口から、マドカの死を、ミヤコに伝えるべきだって」

「なぜ……?」


 なぜ、そんな酷なことを……。


「だって」

 サトシさんは悲しそうに言った。

「きっと、マドカの死を一番受け入れられていないのは、ユカリさんだから。そうだろう? ユカリさんの辛そうな表情だけは、何年経っても、あの頃のままだよ……」


 ああ、ばれているのか――アタシは思った。

 そう。

 アタシの時間は、ずっと止まっている。

 

 二人が幸せそうに笑っているのを、横で見ているあの時間で、止まっているのだ。


 結論。


 でも、やっぱりアタシは逃げた。

 ミヤコちゃんに会う勇気なんて、アタシにはなかったから。


 アタシが逃げた事実は変わらないから。


   ◇


 浦島太郎という話がある。

 あれは竜宮で楽しんでいたら、地上で数百年たっていたという話だ。

 アタシはあれを自業自得だと思った。

 現実逃避したから悪いんじゃないかって。すぐ帰ればよかったじゃないの?、って。


 でも、それが自分の身に降りかかってくると、『冗談じゃない』という気持ちになる。


 夫が心不全で亡くなったのは、出勤時の車の運転中だった。

 事故で亡くなったのではなく、亡くなってから事故が起きた。


 そして、それは交通事故を引き起こした。

 なんの呪いだろうか――アタシは両親を事故で亡くし、妹を出産で亡くし、そして夫まで事故で亡くした。


「エニシ、つらい思いさせて、ごめんね……」


 謝るが、何も変わらない。


 車の事故は、加害者になるととても大変なことになると、被害者として理解していたつもりだ。

 しかし現実は予想以上につらかった。


 妹の死とは、別の辛さがあった。


 そんな時だ。

 ふらりと、彼が――サトシさんがやってきた。


「助けさせてくれ。昔、助けてくれた恩返しだ」


 彼はエニシを導き、アタシの不安を取り除いてくれた。

 だが、それはあくまで親戚の関係だ。

 目をつむれば妹の笑顔がよみがえるから――『わたし、ママって呼ばれたいな』


 大丈夫、マドカ。

 わたしは、あなたの姉だから。

 わたしは、あなたの居場所を奪っていない。


 お姉ちゃん、頑張るから。

 だから、安心してね。


   ◇


 サトシさんは、エニシに色々なことを話した。

 エニシは誰に似たのか賢く、色々なことに気が付いた。


 お義母さんが亡くなったのは心にきた。

 アタシは逃げて、逃げて、隠れた場所まであぶりだされて、そして悲しみだけを知った。

 現実逃避――それはアタシにふさわしい言葉だった。


「また、昔みたいに一緒に暮らしてみないか」


 サトシさんからの連絡は、そんな一言から始まった


「無理に決まってるでしょ」とアタシは断った。


 でもサトシさんはひかなかった。

 苦しそうな声で、本心を吐露した。


「正直に言う。ずっと、助けてもらったことに感謝してた。もう負担は掛けられないと話してた。でも俺も母さんも、子育てが下手だったらしい。ミヤコに我慢することしか教えられなかった。だからミヤコを救えるのは、ユカリさん――あなたしか、いない」


 そう。

 まだミヤコちゃんは母の死を知らないのだ。


 信じられないが、本当のこと。

 それはすべてアタシのせいだった。

 アタシの身勝手な責任感とエゴが招いた、最悪の結果だった。


 妹を守ってきて。

 守れなくて。

 せめて生まれてきた命だけは守りたくて――でも、色々な重さに耐えられずに逃げた。


 でも、本当は分かっていたのだ。

 サトシさんが、ここまでミヤコちゃんに本当のことを言わないのは。

 お義母さんが、ぽつぽつとしか語らず、下手なごまかしで先延ばししてきたのは。


 きっと、アタシの為なのだ。

 アタシがマドカの死を乗り越えられていないから――二人はアタシを待っていただけなのだ。


 そしてアタシは逃げて。

 十数年が経った。

 アタシの心は海に沈んだまま何も変わらなかった。

 でも地上では、戻れないほどの長い年月が過ぎ去ってしまった。


 もう、玉手箱を開けるしかなかったのだろう。


 さんざん悩んだ。

 エニシにも相談をした。

 夫の位牌に語り掛けもした。

 夢にマドカが出てきて、こちらをやさしく見ていた。


 アタシはそうして、サトシさんに答えた。


「昔みたいに一緒に暮らしてみます。何年掛かるかわからないけれど……アタシが、ミヤコちゃんにすべてを話すから」


 サトシさんは、喜ぶことなく、静かにうなずいた。

 彼がとても長い間背負ってきた重荷が、やっと肩から降りたように見えた。


   ◇


 そうして始まった生活。

 偽物の家族。

 でも、エニシはどこか嬉しそうだった。

 お父さんが死んでからふさぎこんでいたけど、お姉ちゃんが出来て嬉しそうだった。


 アタシはどうだろう。

 うまく笑えているだろうか。

 ほんわかしてるね、と言われるアタシの良さは、消えていないだろうか。


 アタシの気持ちはまだ、あの時のまま――いや、もっと前。 

 父と母が死んだ、16歳の時のまま。

 時が、とまったあの日。

 姉として、妹を守らなければならなくなった、あの日。


 ミヤコちゃんは大きくなって、アタシと同い年になった。

 16歳のミヤコちゃんと。

 16歳のままのアタシと。


 どちらが先に老人になるのだろうか――答えは、ミヤコちゃんだった。


『お母さんって呼んでもいいですよ』


 言わせてしまった。


 マドカ。

 ごめんね。

 アタシは、どうやら、こういう人間みたいだった。


 逃げて、逃げて、逃げて、言えなくて。


 マドカ。

 ごめんね。

 正直に言うよ。


 アタシ、お姉ちゃんなのに、とっても弱いんだ。

 ずっとずっと、誰かに助けてもらいたいのに、我慢してたんだ。


 我慢の箱に、叫びを一杯詰め込んで――それから逃げてきただけなんだよ。


 アタシが恋した二人の背中は、いつまでたっても追いつけなかった。

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