第47話 玉手箱(β)

 湿気を帯びた風が頬を撫でた。

 アタシの頭は今、最高に混乱していた。

 下げていた視線を上げて、辺りを確認する。

 手の中で一冊のアルバムが何かを訴えかけていた。

 

 待ち合わせ場所の、駅ビル屋上。

 待ち合わせ時間まであと数分。

 案の定、誰もおらず、遠くに老人が座っている以外、アタシの周りに人はいない。

 

 その老人も今、立ち上がり、エレベーターのほうへ歩いて行った。

 入れ替わりにやってきたのが、真堂先輩だった。


「待たせたかしら」


 真堂先輩は傍までやってくると、無表情のまま小首をかしげて――止まった。


「ミヤコちゃん、ひどい顔してる」

「……先輩、アタシ、分からなくて」

「どうしたの? 最初から説明してくれる?」


 そうしてアタシは今日一日のことを、今もっとも頼れる同性の先輩に話し始めた。


   ◇


「……そう」


 話し終えると、真堂先輩は、少し考えるような時間を置いた。

 頭の良い先輩だ。

 おそらくアタシが先ほど、一瞬だろうとも至ってしまった答えにたどり着いたことだろう。


 案の定、真堂先輩は言った。


「ごめんなさい。客観的に話をするわ。ミヤコちゃん、具合が悪くなったら言ってね」

「……はい」

「率直に言うと――その女性は……」

「……はい」


 風が吹く。

 黒い空に、白い雲が浮かぶ。

 ゆっくりとそれは動き、アタシの頭上から――消えた。


「そのユカリさんと言う人は、あなたのお母さんの可能性はないのかしら」


 アタシは目をつむった。

 大きく息を吸う。

 それから吐いた。


「アタシが二歳か三歳の頃、母は家を出ていったそうです。それはなんとなく覚えています。とっても悲しくて、怖い夢をいっぱい見たから。どういう理由があろうとも、アタシにとっての母親が消えたことに変わりはないです」

「ええ」


 突然の長い台詞にも、真堂先輩は根気よく付き合ってくれた。


「思い出したんです、最近。先輩たちと一緒に行動させてもらって……昔、母の髪の毛の匂いを嗅ぐのが大好きだったなとか、母に抱き着いたときの柔らかさが好きだったなとか――本当に断片みたいな記憶だけど、とっても幸せだったころの宝物は、アタシの中にまだ、残ってました」

「陣くんもそんなこと、言っていたわ。わたしだって、賛同する」

「ありがとうございます。アタシ、おばあちゃんに『怒るな』って言われて育ってきました」

「おばあちゃんにとっての、処世術のようなものかしら」

「はい。いっつもそうやって言われてきて、アタシ、なんの疑問も持たずに、そう思ってきました。おばあちゃんにとって、大事なことなんだろうなって」

「違ったの?」


 アタシは首を振った。


「もう亡くなってしまったから確かめられません。でも今ならなんとなく、わかるんです。きっとおばあちゃんは、アタシのために、なんとかそういう言葉を伝えてきただけなんじゃないかなって」

「ミヤコちゃんに対するメッセージということ?」

「はい。おばあちゃん、村に住んでて、あんまり人と話もしない人だったから――アタシ、おばあちゃんのそういう言葉のせいで、お父さんも怒らない人なのかと思ってた」

「でも違った?」

「わかりません。でも、なんだか……アタシは玉手箱を開けた気分になりました」


 アタシは一冊のアルバムを、真堂先輩に差し出した。


「その……アルバムが玉手箱?」

「はい。浦島太郎が開けてしまった、時間が詰まった禁断の箱」

「それはパンドラともいうけど――でも、今はわたしが見たほうが良いのね?」

「はい。先輩の見立てを聞かせてください」

「わかったわ」


 そうしてアタシは少し、ズルをした。

 最初のページからではなく、最終ページを開いて、真堂先輩に渡したのだ。

 先輩は、比較的新しい写真を見て、言った。


「ミヤコちゃんね。これは……中学生ぐらいのころかしら」

「そうですね。ここに越してくる前です。まだ村に住んでいたころの、運動会の写真です。といっても子供はほとんどいなかったから、隣の町の学校に通ってました」


 エニシくんからもらったアルバムには、アタシの写真が挟まっていた。

 それは、1ページに留まらなかった。


「ページめくっていいかしら」

「お願いします」

「若くなったわね。これもミヤコちゃんかしら」

「はい。これは小6ですね。夏祭りの時の浴衣です」

「次は……また若くなるのね。これ、成長日記にしては、変ね。まさか反対から開いてるのかしら」

「すみません。そうです。できればそのまま反対に進んでもらえませんか」

「ええ。わかったわ」


 真堂先輩は面倒くさがることもなく、ページをめくっていった。


 そこには常にアタシがいた。

 というかアタシしかいなかった。

 小学四年の遠足。

 小学三年の夏休み。

 小学二年の雪だるま。

 小学一年のあさがお。

 小学校にあがるまえ、祖母に育てられた日々……そして。


「随分古い写真になってきたわね」

「……アタシが生まれたころですね――先輩、それで、このアルバム。なんだと思いますか?」

「普通に考えてみれば、ミヤコちゃんの成長記録にしか見えないけれど」

「成長記録……って、なぜ作るんでしょうか」

「それは……、きっとその一瞬を忘れないように、捕まえておくためじゃないかしら。ご両親からしてみれば、子供の成長は宝物だから……多分ね」


 真堂先輩は少しだけ言葉をぼかした。

 きっと先輩にも何か事情があるのだろうな、と思ったが、今はアタシの話を進めよう。


「ということは」と、アタシは結論を口にした。

「このアルバムは、アタシの親、もしくはアタシのことを大切にしている人の成長記録ということですよね」

「そう見える、という話よね」

「はい――最後のページ、いいですか」


 アタシは横から手を出して、真堂先輩の膝の上のアルバムをめくった。

 写真に詰め込まれた時が一瞬で、さかのぼる。

 玉手箱に時間を詰め直していくように、アタシの時間が巻き戻る――。


「これです」

「これは……お腹が大きい女性が写っているから、妊婦さんかしら。ようするにミヤコちゃんがお腹の中にいるという記録ね」

「そうなんだと思います」


 ページの一番最初に挟まれた写真。

 アタシは真堂先輩と一枚の写真を見ていた。


 そこにはカメラのレンズに向かって笑っている、二人の女性が映っていた。

 一人は緩やかにウェーブする黒髪を肩から垂らした妊婦。

 もう一人は柔らかな笑みを浮かべて、妊婦のお腹に手を置いている女性。


「ユカリさんという方?」と真堂先輩が言った。

「はい」とアタシは認めた。


 認めなければ話は進まない。

 認めなければアタシの混乱は収まらない。

 実のところアタシも、アルバムを見たとき、逆からページを開いてしまったのだ。

 昔のアルバムのせいなのか、もしくは逆から挟んでいったのかは知らないが、一般的な開きとは逆だったらしい。


 だからアタシも、時をさかのぼっていったことになる。

 しかしその結果、アタシは浦島太郎のように、今の時間に取り残されることになった。

 見知っていたはずの景色が、途端に見知らぬものへと変貌した。


 真堂先輩は、先を続けた。


「ということは、この写真の……お腹が大きい方が、ミヤコちゃんのお母さんなのね」

「やっぱり、写真の流れ上、そうなりますよね……」

「そうね。年代を遡って、お腹が大きいわけだし、ここでいきなり別人が出てくるわけないと思うけど――それにこの妊婦さん、雰囲気がミヤコちゃんに似ているわ」

「そう、ですよね」


 真堂先輩は、妊婦の顔に指を添えながら言った。


「そうすると……この妊婦がユカリさんという方なのね?」


 それは確信に満ちた声音だった。

 これは、そう。

 つまり、この妊婦の子の成長記録なのだ。

 だから、アタシはこの妊婦の子である――それはアルバムの流れを見れば、誰だって気が付いてしまう事実なのだった。


 だからこそアタシは混乱した。

 アタシだって、一瞬でも考えてしまったこと――まさかユカリさんはアタシのお母さんなの?


 でも――写真がそれを否定していた。


「先輩、違うんです」

「え?」

「ユカリさんは、妊婦のほうじゃないんです」

「どういうこと……?」


 カタカタと揺れていたはずの怒りの箱が、静かに震え始めた。

 それは怒りなのか、戸惑いなのか、恐怖なのか。

 アタシは答えなど知らないくせに、でも、一つだけわかっている事実を真堂先輩に伝えた。


「アタシの家に住んでいる人は――妊婦の女性じゃありません。その横にいる女性が、ユカリさんなんです」


 妊婦の横で、お腹に手を当てて笑う女性――それは誰がどうみても若かりし頃のユカリさんだった。

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