第36話 牛酪(バター)(β)
俺は夕飯を作成中。
父さんはまだ帰宅しておらず、テレビのある部屋ではレイと舞が二人で会話をしていた。もはや日常となっているので、すべてに違和感はない。
「おなかすいたねー、レイちゃん」
「そうね……、目の前のクッキーは食べちゃだめよ」
「せちがらいねー」
「難しい言葉をしってるのね……わたし、それ、最近、とてもよく感じるの」
「そうなんだー? プリン?」
「プリプリって感じね。具体的には陣くんが原因よ」
「おおー。おにいちゃん、かっこいいー」
「……そ、そうかしら。別にそう思ったことはないけど?」
「えー? おにいちゃん、マイ、すきだよー?」
「き、嫌いとは言ってないけど?」
「レイちゃん、熱いの? たかいクーラー買ったから、涼しいのにね?」
「マイちゃん、もうやめて、大人の負けよ……わたし、負けを認めます……」
「うん?」
なんの話をしてんだか……。
まあこれも含めて日常なんだけどな。
「さて。プリンセス二人のご機嫌をとりますかね」
今日は『手羽元とゆで卵の煮込み』を作ろうと思っている。
圧力なべがあれば早いらしいのだけど、我が家にはまだそれがない。
ちなみに我が家の煮込みは基本的に煮込むだけ。
放課後に買い出しも行うので、下ごしらえの時間も取れないことが多いからで、それがなぜかというと成長期の舞のお腹は常に腹ペコだからである。
今回の料理も、細かい時短テクニックを使っておいた。
通学前にセットしておいた炊飯器を利用して、ゆで卵を作ったのだ。色々とやり方はあるらしいが、俺は米と一緒に炊いてしまっている。
そうしておけば帰宅後、殻をむけばよいだけだ。手羽元とのタイムラグも無くなる。
ちなみに卵の殻むきだけは、レイと舞も手伝ってくれた。
その時の光景が以下である。
『む、むずかしいわね……でも、これは……わたし、得意かも! ほら見て! もう終わったわ!』
『そうだね、レイちゃん』
『すごいな、レイ』
『でしょう? さあもう二個目よ、みんな遅いわね!』
舞と俺は優しい目でレイの頑張りを見届けた。
レイの前には溶岩みたいなデコボコの卵が、誇らしげに並んでいた。
◇
さて、二種類だけではあるが具材はそろった。
鍋にそれらをイン。次いで水を入れて、しょうゆ、酒、さとう、酢も適量入れる。
舞とレイの会話をラジオかわりにしながら、着火~沸騰を待つ。
アクを取ることをさぼってはいけない。
そして我が家だけかもしれないが、落し蓋をして水分を飛ばす前に、はちみつを少量入れる。
こうすると肉が柔らかくなるらしいのだが、大家さんの言いなりなので根拠は不明である。
あとは再び、舞とレイの二人の会話に耳をそばだてるだけだ。
「ねえねえレイちゃん」
「なにかしら、師匠」
おい、数分の間になにがあったんだ。聞き損じたぞ。
「もういいよ、ししょーは」
「そう? 優しいのね」
「おにいちゃんも優しいよねー」
「……うん」
「クッキー食べたいね」
「……うん」
「でも食べちゃダメなんだよね」
「……うん」
「レイちゃん、うんしか言わないね」
「……うん」
だから、なにがあったんだよ。
まあ良い。
話を聞く限り、先ほどから二人はミヤコちゃんにもらったクッキーを囲んでいるらしい。
なぜ囲んでいるだけなのかといえば、ご飯の前にお菓子を食べてはいけないのが荒木家のルールだからである。
「ねえ、レイちゃん。このクッキーは、どこでかったの?」
「後輩からの差し入れよ」
「さしーれ? なにそれー」
「それは……そうね、なんというか、概念が難しいわ。なぜならば観測者によって意味を変えるからよ。なんだか量子力学的な話だけれど、まったく関係はないの」
「ふうん? レイちゃん、クッキー好きなの?」
「え? なぜ?」
「だって、さっきからずっと見てたから」
「……見てないわ」
「え? 見てたよ……? マイも、見てたけど……」
「ご、ごめんなさい……嘘よ……だから舞ちゃん、そんな不安な顔はやめて……私は心の汚い大人だわ……」
「ううん! クッキー好きなの?」
「そうね……、色々と難しい質問ね……、この場合だけは好きとか嫌いとかそういう話ではなくなるのかもしれない」
「舞はドーナッツがすきー! あとプリンと、クッキーと、しょうげんじ!」
「しょうげ、……え? なに?」
「しょうげんじ! キノコだよー! 秋にねえ、下の階のおじさんが持ってきてくれたのー。バターで焼いたよー! まじうまー!」
「そんなキノコあるのかしら? 本当に?……まじであるわね」
「まじでしょ?」
「まじだったわ……、勉強になりました」
俺も最初はキノコの名前なんて思わなかったから、その気持ちはよくわかる。
ショウゲンジは、別名ボウズダケとかコムソウとも呼ばれるらしく、ショウゲンジの『ジ』も寺らしい。
理由はよくわからないのだが、キノコのカサの形がそれっぽく見えるからだと、ネットには書いてあった。
マツなどの針葉樹林付近に生えるらしいので、山に入らないと手に入らない天然の食材の一つである。
「ねえレイちゃん。ロクガしておいた、ぷりぷり探偵みよっか? しーずん、さん!」
「そうね。今日の犯人は絶対に当てるわ。大人として嘘はつけない……!」
「この前はハズレちゃったもんね」
「だって、しょうがないわ。まさか被害者の彼女が犯人だなんて思いもしなかったの……。彼氏と彼女って結婚を前提にお付き合いをする、愛するもの同士なのだから、犯人のはずはないのに……人生の謎ね。フィクションならではかもしれない」
「なぞが~なぞをよぶ~おなかがいたけりゃ~といれにいっといれ~♪」
「その主題歌も謎よ」
「きらい?」
「嫌いではないわ」
なんだか平和なのかなんなのかよく分からないが、今日も今日とてレイマイワールドって感じである。
なお、先ほど話題にあがったショウゲンジは、下の階に住んでいる整体師のおじさんが山で採ってきたものだ。
山梨あたりに足をのばしているそうで、その季節にちなんだ山菜やアケビなど含めた色々なものを、おすそわけしてくれる。
一度、『秘密の場所の確変到来』とかいって、大量のマツタケをアパートの関係者にくばってくれたことがある。売りにだしたら数十万はする品らしい。
その月は大家さんの善意で整体師さんの家賃が半額だったらしいが、免除ではなく半額というところに戸暮家の気質が見えている気がする……なんていったらナギナタもった大家さんに追いかけられるので内緒だ。
「そういや今年の秋ももらえるのかな。そしたらレイに食べさせてあげたいけど……というか、おやっさんに頼んで、きのこ狩りにつれてってもらうのもアリだな……」
レイとこうした関係になってから、まだ日も浅い。
これから色々な体験を一緒にできると考えると、どこかワクワクしている自分が居た。
ふと思いつく。
「そういや、汁物どうするか。ショウゲンジは余ってないけど……」
俺は冷蔵庫から、安売りされていたヒラタケを取り出した。
「話題が旬ということで、ヒラタケの味噌汁にするか」
ヒラタケはスーパーでも簡単に手に入るキノコだ。
良いダシがでる肉厚のキノコで、何に使っても安定したおいしさが味わえる。
味噌汁というのは、俺が初めて作った料理で、なんだかいつも感慨深くなる。
その時、覚えたこと――重要なのは『味噌汁は煮えばな』という考えだ。
味噌汁はまず具材を煮込む。
そのあと、味噌汁をお玉ですくい、菜箸で湯にといていき、それからまた温めるわけだが……、この時沸騰させてはいけないという考えだ。
理由は二つあるらしい。
一つは沸騰させてしまうと、味噌の風味が逃げるから。
二つ目は、味噌は発酵食品であるが、もちろんそこには腸内環境等の健康を促進する微生物が存在している。それらが死滅するのを避けるためらしい。
よって『煮えばな』――味噌をといた後の過熱で、火を止めるタイミングのことであり、目視でいえば、鍋の底から泡が一つぽこりと浮かんできたところで止めればよい。
「って、あとは……バターだ、バター……あったかな……、そうだこの前、大家さんからもらったっけ……」
そして忘れちゃいけないのが、バターだ。
キノコの味噌汁には特にバターが合う。
秋には大量の、イグチと呼ばれるキノコをもらうのだが、豚汁に飽きたら、まずバター味噌汁を作る。
風味が増して、キノコの味が引き立つのだ。
知らない人はぜひやってみてほしい。
「いや、ちょっと待て……俺は誰に話しかけてんだ?」
なんだか独り言が多くなったよな、最近。
多分だけど、レイが舞と遊んでくれるので、会話の相手が居なくなったからかもしれねーぞ、と自分に危機感をあおる。
とはいっても、これは幸せなのだろう。
幸せだから、独り言なんて気にもならなくなるのだろう。
「つまるところ……幸せ病ってやつかな……」
誰にともなくつぶやいた。
途端、背後から声がした。
「幸せ病?」
「え?」
振り返れば、そこにはコップを持ったレイが立っていた。
どうやら麦茶を取りにきたらしい。
「幸せ病って聞こえたわ?」
「え、っと、そうだな」
なんだろうか。
別に悪いことを口にしたわけではないはずなのだが、なんだかイタズラが見つかったときのように、そわそわする。
レイはじっと俺を見ていたが、舞の『レイちゃん! 事件ぱーと! 事件ぱーと!』との叫びにハッとなった。
「陣くん。気になるワードが耳にはいったのだけれど、わたしは行くわ。なぜなら犯人を見つけなければならないからよ――バターの香りがいいわね……! お腹すいたわ!」
「お、おう。まあ、とにかく頑張ってくれ。お腹はもう少し我慢してくれ」
「ええ。嘘つきな大人と認識される前に、威厳を見せてくるわ……! お腹すいたけど!」
レイは麦茶をしまうと、ガッツポーズを見せて、コップを持つ。
無表情のガッツポーズってなんか、ちょっと怖いんだけど、レイのやる気を削ぐことは避けたほうがいいだろう。
「じゃ、またね、陣くん」
「おう。がんばれ」
そうしてレイは立ち去る前に――言った。
「わたしも、幸せよ」
「え?」
「わ、わたしも、幸せよ」
「あ、すまん、聞こえてはいた」
「そ、そう? ならいいけどっ」
レイの顔を見る。
久しぶりにレイの顔は真っ赤っかだった。
俺もなんだか、首筋あたりが熱くなってきた。
言葉を返そうとしたが、レイが先に口を開いた。
「ちなみに、彼女もそう言って――前回のぷりぷり探偵の犯人の女の子は、彼氏を凍った羊羹で殴り、それを食べて凶器を消したのよ……! 第14話、消えた凶器の謎のトリックね……」
「怖いよ」
「羊羹ってところもポイントで、血の色がわからないみたい。わたしはそれを、作者からのメッセージとして多角的に考察したわ――つまり、甘い愛と憎しみの色は同じである、というメッセージね」
「なんの話だよ……」
「あ、……愛の話よっ」
そうしてレイはぷいっと顔をそむけて、舞のもとへ戻っていった。
いや、正確には犯人を見つけに行った。
「……さて。父さんが帰ってくる前に終わらせないと」
手に持っていたバターが溶けていたが、俺は気が付かないふりをした。
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