第35話 他人(宮子視点)(β)
自宅のお風呂に肩までつかりながら目をつむる。
色々と思うところもあった引っ越しだったけど、このシステムバスだけは本当に良かったなあ、と思う。
昔の家の浴槽は深く、狭かった。
今の家の浴槽は浅く、広い。
一日の汚れを落とす入浴で、160センチちょっとのアタシが足を伸ばして寝転がることができるのは、なんていうか人生においてとっても重要なことだと思う。
まぶたの裏にさっと光がさすように、二人の表情が浮かんだ。
「……荒木陣先輩と、真堂礼先輩」
父には先ほど伝えてきたので、もしかしたら今頃、荒木先輩の家に電話をしているかもしれない。
荒木先輩は本心から、お礼を遠慮していたと思うので、親同士が話し合ったほうがいいだろうということはきちんと伝えておいた。
あとは大人に任せておこうと思う。
「……クッキー、食べてくれたのかな」
ごみ箱行きはないよね、と信じたい。
いや、きっとそんなことはない。
アタシ、なんで今、そんなひねくれたこと考えてしまったのだろう?
そもそもクッキーを渡せたのだって、アタシの力じゃない。
真堂先輩はわざとアタシの紙袋に言及したのだと思う。きっとアタシの反応を見て、すべてを悟ったのだろう。
貫くような視線にはたじろいでしまったけど、きっととても優しい人なのではないだろうか。
でなければ、荒木先輩の横には立っていないような気もする。
「……ま、知らないけど」
そう。
アタシは何も知らない。
ただただ予想しているだけだ。
アタシは毎日、思考の海に漂っている情報を手にとっては、ためつすがめつして、一方的に話を決めている。
荒木先輩はこんな男性なんじゃないかな、とか。
真堂先輩はこんな女性なんじゃないかな。とか。
アタシのお母さんはこんな顔なのかな、とか――。
そう。
アタシは母のことを何も知らない。名前すら知らない。
母の痕跡は、アタシという存在以外、なにも残っていなかった。
母が居なくなったのは2歳のころだ。
顔を覚えているわけがない。
物心ついてから写真を探したりもしたけれど、それは一枚も存在しなかった。
戸籍を調べればいいと思うだろうけれど、逆に言えば、そこまでしても分かることなんて名前ぐらいだ。
調べない理由は三つ。
名前だけを知ってどうするのだろう、というのが一つ。
そこまでして隠匿しようとしている大人に逆らうのは疲れそうだ、というのが一つ。
最後に、そんな風に考えていたら同居が始まってしまい今更名前ごときどうでもいいかと考えてしまった、ということが一つ。
計三つの理由から、アタシは最初で最後のピースを捨てのだ。
それに、不公平でしょ。
母はアタシを置いて行ったのに、アタシだけ母を追いかけていたんじゃ、不公平。
イタチごっこなんてしたくない。
でも、いつか知ってしまう時は来るのだろう。
ほかの理由から必要になった戸籍謄本で見つけてしまったりするのだろう。
その時アタシの怒りの箱は壊れないだろうか。心配だ。
それにしても。
声も知らない、顔も知らない、名前も知らない――。
「それって、ただの他人だよね」
その言葉はやけに深く、心に突き刺さった。
遠くの親戚より、近くの他人――そんな言葉を聞いたことがある。
今のアタシに必要なのは、そういう思考なのかもしれない。
そんなことを思う。
だって、アタシが困っていたときに助けてくれたのは荒木先輩で。
アタシが渡せなかったクッキーを受け取ってくれたのは真堂先輩で。
アタシが熱を出したときに大慌てしていたのは――ユカリさんだから。
◇
「お風呂、出たよ」
エニシくんに声を掛ける。といっても、二階の彼の部屋をノックしてからの、ドア越しの会話だ。
別に嫌っているわけじゃない。
ただ小学四年生といっても、もう立派な男の子だと思うし、アタシのことだって色々と感じることがあると気が付いたのだ。
具体的には、同居が始まってすぐのこと。
おばあちゃん家みたいに、お風呂上りに下着姿でうろついていたら、目が合ったエニシくんに真っ赤な顔をされた。
あ、いけない、そういうことか――と自分の立場を知ったのは、その時だ。
『あ、はい、ありがとうございます。お風呂、すぐに入ります……あ、シャワーしか入れないけど……』
エニシくんの声がドア越しに聞こえた。
「あ、うん。なにか手伝うことあったら、言って?」
『はい……、でも平気です、ありがとうございます』
「あ、うん」
それ以上の返答はない。
アタシはドアから離れた。
最近思うことがある。
気のせいだろうか――エニシくんの態度が、少しおかしい気がするのだ。
じっと、こちらを見て、アタシのことを観察しているような……気のせいだろうか。
「なにかしたかな。アタシ」
もう下着姿で家を歩くことはない。
無駄なことも話していないし、病院受診のときも荒木先輩が助けてくれた。
胸のサイズが合わなくなって一度に大量に捨てた下着も、今までとは違って、見つからないように慎重に分けておいた。
ベッドに腰かけて髪を乾かす。
「……どうしよ。さっぱりだな」
ドライヤーの音に押し出されて、妙案が出てくることもない。
じゃあ、気のせいかな? アタシの自意識過剰?――いや、それはない。基本的に人の目を見ることをしないアタシが、ここまで気になるのだ。錯覚ではないと思う。
ちなみに人の目を見ないのは、苦手というよりも嫌いだから敢えてしていない。
だって、目は口ほどにモノを言う、というでしょ。
アタシには、その感情を受け止めるだけの受け皿はない。
自分の怒りを収める箱で、心の倉庫はいっぱいだからだ。
考えていたら、髪の毛が乾いてしまった。
アッシュに染め、軽く波打たせた髪を右肩に流して、ベッドに寝転がる。
スマホ片手に目をつむれば、荒木先輩の笑顔が浮かんできた。
次に真堂先輩のまっすぐな視線。
そしてユカリさんのどこか自信のなさそうな表情と、エニシくんがじっとこちらを窺うようにする視線。
いくら考えても答えはなく、けれど太陽のもとで海にたゆたうように、アタシはいつまでも思考の波に身を任せることができた。
ポコン♪、と通知音。
無意識のうちにスマホの画面を見る。
お風呂に入っているときも何人かから連絡が来ていたようだ。
そのすべてが『遊びの誘い』で、『ミヤコに紹介したい男の子がいる』か『ミヤコを紹介してほしい男の子がいる』のどちらかだった。
男の子?
それって、だれ?
顔も知らない、声も知らない、名前も知らない――。
アタシはそのすべてに『NO』を送った。
もちろん波風立たないように、凪いでいる海のように静かに。
「他人に構ってる余裕なんて、ない」
それは何を指しての『他人』なのか。
そんなこと、本当は既にわかっている気もしていた。
高校生にもなった。
新しい家にも慣れてきた。
四人での暮らしを疑うものは、もしかするとアタシ以外存在しない。
脳裏に映る、先輩の笑顔。
「遠くの親戚より、近くの他人……」
アタシの中で、コトリと何かが動いた。
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