第37話 遠雷(β)
日常を過ごしてはいるが、そろそろ一学期の期末考査であることは忘れてはいけない。
通学路を共にする他の高校の学生を見ていると、どうやら七月の初旬にテストがあるようだが、姫八学園は夏休み前の中旬に行われる。
記憶をさかのぼってみよう。
梅雨が開けたのは七月初旬。
そして、エニシくんやミヤコちゃんと出会ったのも七月初旬。
それから数日が経った。
つまり――テストは間近なのだった。
朝の登校時。
レイにテスト勉強の進捗を聞かれて、自信満々にこう答えた。
『え? 俺は一夜漬けだから……』
『は?』
無表情であるはずのレイの顔が、スッと冷え込んだ気がした。
なんなら背後に刀を構えた白装束の般若が見えた気もした。
『わたし、陣くんに唯一、教えられるものがあるわ』
『卵の殻むきか?』
『あ、あれは、もういいのっ』
パンチが飛んできたので、甘んじて受けいれた。
多分、たまごパンチだと思われる。
『嘘だよ。勉強ってことだろ、先生』
『え、ええ……先生、そうね……なんだか、いい響きだわ……。陣くんの先生……。禁じられた――』
うっとりとし始めたレイのその後の話をまとめると、こういうことらしい。
『今日は先に帰宅させてもらうわ。色々と準備してから夕食に向かいます。そして陣くんに勉強を教えます。先生が、教えます』
『わかった。お手柔らかにお願いします、先生』
『よろしい――今日のメニューはなにかしら』
『ミートボールパスタでも作ろうかな』
『最高ね。すぐに行くわ』
そういうことらしい。
◇
というわけで、今日の帰宅は珍しく一人が確定していた。
「一人のほうが当たり前だったんだけどな……」
人間の価値観というのはすぐに変わるらしい。
今じゃ夕飯にレイが同席していないほうが違和感を感じてしまうだろう。
「ま、とにかく買い出しにいくか――ったく、リョウに捕まったから遅れ気味だぞ」
リョウが彼女に送るというプレゼントの相談を受けていたのだ。
なぜ俺に聞くのかが不明なのだが、本人曰く『陣に相談して、仮に失敗しても、まあ陣の推薦だったしな!、って諦められるからな。だってお前、センスなさそうだし』とめちゃくちゃ爽やかな笑みを浮かべられた。
むかついたので口にチョークを詰めてやった。
『死ぬわ!』
『おちつけ。チョークの主成分はたしかカルシウムだ』
『〈たしか〉って言っちゃだめですよね!?』
『……? 怒りっぽさが治ってないから、カルシウムじゃないのか……?』
『カルシウムに速攻性はないだろ! ていうか、カルシウムじゃなかったらヤバいだろうが……口ゆすいでこねえと!』
てな感じである。
憎まれ口叩かなきゃとってもいい奴なんだけどな。
まあ、腐れ縁ってこんな感じだろう。多分。
そんなこんなで20分ほどを無駄にしてしまい、教室にも生徒がまばらになる。
いつもより皆の帰宅が早いのは、テスト期間が目前ということも、夏休みが近いということもある思われるが、一番の理由は『天気』だろう。
「……ああ、降り出しちゃったか」
昇降口に立つ。
屋根があるので濡れはしないが、空から大粒の雨が降ってきていた。
遠雷も聞こえ、暑さの中にねっとりとした湿気が混ざり、肌に空気がひっかかる感じがする。
「傘があるからいいけど……、跳ね返りがひどいなあ……」
これじゃあレイもすぐには来れないだろうし、涼しい図書館で少し雨宿りでもするか?――と踵を返した時だった。
振り返った先に、見知った顔があった。
俺も驚いたが、相手方のほうがよほど驚いた表情で立っていた。
視線ががっちりぶつかる。
「あれ、ミヤコちゃん」
「――っ。あ、あの、こんにちは」
「うん、こんにちは――どうしたの? 一年の昇降口ってこっちだっけ?」
いや、そんなことはないよな。
姫八学園はとにかく広く、生徒数も恐ろしく多い。俗に言われるマンモス高校というやつだ。
位置的に遠くはないが、昇降口も学年ごとに用意されている。
ミヤコちゃんは、ぎこちなく首を振った。
最初こそ合ったが、先ほどから視線は下がっている。
「実は、先輩のこと、待ってました」
「先輩って……レイのことか?」
「レイ……」
「ああ、真堂先輩のこと?」
「いえ――あ、でも、真堂先輩も待ってましたし、荒木先輩も待ってました」
「そうなの?」
「これ……お菓子、今度は米粉でマドレーヌ作ってみて、それで、どうかなって……この前のクッキー、召し上がってないかもしれないと思って……」
「ん……?」
なんだか文章に違和感を感じるな。
この前のクッキーを召し上がらない理由ってなんだろうか。
米粉といえば小麦アレルギーを持った子供なんかにも良いやつだよな……?
「ああ、俺もレイも小麦アレルギーはないよ? だからおいしくいただいたよ。俺の妹もおいしいって食べてた。店で売ってるやつみたいって」
「あ、そ、そうでしたか……ありがとうございます……」
ギャルといえるだろう目立つ格好をしている気もするのだが、ミヤコちゃんの内面は反比例しているようだ。
視線はわずかに上がったが、それでも目は合わなかった。
ただ、なんていうんだっけ――そうだ、アヒル口だ。ミヤコちゃんは視線をさげたまま頷くように頭を軽く下げた。そして笑みを我慢するみたいに口角をくっとあげた。結果、アヒル口みたいになっていた。
さらに笑ったときにエクボが出てきたのは、うつ向いている状態でも確認ができた。
「なんか久しぶりに見たな、エクボ」
「え、あ……」
批判されたと思われたのか、笑みが消える。
エクボも消えた。
「あ、ごめん。かわいいと思って。否定したわけじゃなくて」
「か……っ」
「ん?」
なんだ?
喝でも入れられるのか……?
ミヤコちゃんは思わず、といった感じに視線を上げていた。
信じられないものでも見たかのように、俺の顔を見ている。
なんだかこういうところがレイに似ている気がするのだ。
「か、かわいいとか……言っちゃだめです」
「え? じゃあ可愛いものを見たら、なんて言うんだ?」
「そういうことじゃなくて……っ」
いつの間にか顔を真っ赤にさせたミヤコちゃんが、紙袋を押し付けてきた。
「と、とにかくこれ、ご家族で召し上がってください――クッキーも捨てられてなくてよかったです」
「え? 捨てる?」
「あ、ちが……ちがくて、なんでも、ないです。今の誤解を招く失言でした……」
「よく分からないけど、捨てるわけないし、めちゃくちゃうまかったから」
「は、はい。どもです」
「うん。こちらこそ。レイも喜ぶと思うよ、マドレーヌ」
多分、話は終わりだろう。
俺は外を見た。
先ほどがピークだったらしく、雨脚は弱まっていた。
帰れないこともないか……?
どうしようかと考えていると、ミヤコちゃんの声がした。
「あの、お二人って付き合ってるんですよね……?」
「二人? 付き合う?」
ミヤコちゃんはコクンと頷いた。
「真堂先輩と」
「俺?」
「はい」
俺は少し考えてみた。
答えは出たようで、出なかった。
「付き合ってはないかな」
「え? そうなんですか」
「でも、とても大切な人だし……家族みたいな感じかもしれない」
「付き合ってないのに、家族なんですか」
「まあ、たしかに不思議な関係だよな。レイとも話したことあるんだけど、答えはまだないかもしれない。知り合ってまだ一か月ちょっとだし」
「え? そうなんですか?」
「実際にはもっと前なんだけど、こういう関係になったのはそんなところ」
「そう、なんですか」
ミヤコちゃんはつぶやくように言った。
「人の関係って、時間はあまり、関係ないのかもしれないですね……」
「そうだね。うん。たしかに時間とかじゃなくて……えっとだな」
「じゃなくて……?」
「タイミングというか、なんていうか、一緒に居て、どう思うかっていうことで……まあ、息があえば数日でも信頼し合えるってことを知ったよ」
「そう、ですか」
「人として、レイのことが好きって感じだろうね」
ミヤコちゃんは何かを考えるような時間を挟んだ。
「――さっき、実は、真堂先輩を見かけたんです」
「へえ? ならマドレーヌも渡したの?」
「あ、いえ、なんだか話しかけられなくて……それはお二人分です」
「話しかけられない?」
「なんていうか、真堂先輩……荒木先輩と居るときと、雰囲気が違くて。ちょっと怖かったというか」
「表情が動いてないだけじゃない?」
レイのことを誤解している人は、たいてい無表情に対しての悪印象だと最近、気が付いた。
「わからないですけど……。でも、アタシ、荒木先輩の横に並んで立っている真堂先輩が好きだなあって思って」
「俺の横か」
「はい」
「そうか。なら、そう伝えておこうか」
「だめ! やめてください!」
ミヤコちゃんは、怒っているというより焦った感じに言った。
「……すみません、変なこと言って。なんかアタシ、最近、よく分からなくて」
「分からない?」
「あ、いや、すみません、説明できることじゃないんですけど――でも、なんか、感情的になっちゃうこと、あって……よく分からなくて」
ミヤコちゃんは視線をさらに下げると、『あ、いや、たぶんアタシの話自体が分からないと思うんですけど』と続けた。
その通り、俺にはさっぱり分からない。
分からないが、このまま放置できるような話でもない。
俺は考えた末に言葉をかけた。
それはレイと過ごす日常の中で、感じている本心だった。
「確かにまあ、ミヤコちゃんの話は分からないけど……でもさ。俺たち、たかが高校生だけど、色々と毎日あるわけだ。大人からしたら馬鹿らしいことかもしれないけど、そこには悩みとかがあるわけだろ?」
「ええ……そう、ですね」
「俺も最近まで色々と悩んでたんだけど、レイに助けてもらったんだ」
「真堂先輩に……」
「うん。で、気が付いた――なんて域には達してないけど、わかったことが一つある」
「わかったこと、ですか?」
俺の目を見ていることに気が付いていないのか、頑張って俺を見ているのかは知らないが、顔をあげているミヤコちゃんは、俺が横にずらした視線につられて、顔を外へと向けた。
そこには雨脚が弱まってきた雨と。
真上に居座る黒い雲と。
そして、遠くに太陽が差し込む晴れた場所が見えた。
「やまない雨はないってことかな」
とても悲しいことも。
ついてしまった嘘も。
戦わなければならない現実も。
そのすべてに終わりは来るものだ。
そのあとはきっと晴れるに違いないと、今では信じることができる。
ミヤコちゃんは、俺の言葉を噛み締めるように、なんどかうなずいた。
「そう……ですね。アタシ、多分、そういうことに気づいてきたのかもしれません」
景色を見るミヤコちゃんの目に映るのは、雨か太陽か――瞳を覗いただけでは、心の中の天気までは分かりそうもなかったが、俺の目には可愛らしいエクボが映っていた。
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