第33話 等価(宮子視点)(β)
アタシは小さな紙袋を下げて、廊下を歩いていた。
荒木陣……先輩へのお礼の気持ちが詰まっている――はずだ。
思い出されるのは、二日前。
エニシくんが怪我をした当日の我が家のこと。
◇
怪我の夜。
お父さんとユカリさんの知るところとなったのは、エニシくんの無事と、助けてくれた高校生の存在。
しかし、大事故は免れたものの『助け人の住所不明』という事態に陥っていた。
「ミヤコと同じ学校の男の子なのかな?」
お父さんはアタシが傷つかないように、なんとか情報を得ようとしていた。
内縁の妻の子とはいえ、一家の責任者であることに違いはないのだから、知らないふりはできない。
「あ、えっと……」
正直、アタシは焦っていた。
エニシくんとユカリさんの方を見ることができない。
小学生と高校生が関わっているのであれば、常識的に考えて、アタシが色々と把握していなくちゃいけないだろう。
でもアタシはそれを忘れた。
悪い意味での『来るもの拒まず、去るもの追わず』――アタシは助けてもらうだけ助けてもらって、名乗ることすら忘れていた。
「名前は……聞いたのと、先輩だってわかってたから、学校であとで聞こうと思ってた……」
嘘だ。
でも嘘を言わなきゃ、アタシの居場所はここにない。
ユカリさんが労わるような声色を出した。
「でも、本当にありがとう、ミヤコさん。とても親切な人なのだから、お礼が遅れたとしても、きっとわかってくれるわ」
アタシは頷かなかった。
そんな確証はどこにもない。
ユカリさんはたまにこういった楽観的なことを言う。アタシはそれがどこか苦手だった。
エニシくんは声を出さない。
お父さんは優しい声を出した。
「じゃあ、とりあえず住所とかそういったものはミヤコに頼むとしようか。それから僕が先方に連絡を取るよ」
演劇みたいだな、とアタシは思う。
アタシはまるで観客から舞台にあげられた一般人だ。
◇
そしてアタシは色々と動き回って、荒木陣先輩の居場所を突き止めた。
事件が一昨日。
探索は昨日。
そして訪問が今日。
「……だからってクッキーを焼いてくる必要は――ない」
アタシは手の中の紙袋を目の前に掲げた。
中には急いで焼いたクッキーが入っている。
これは正式なお礼の品ではない。
あくまでアタシ個人が用意した粗品だ。
感謝の気持ち、と言えば説明になるだろうか?
それともイライラしていたことの謝罪と説明するか?
趣味がお菓子作りのアタシにとっては、これぐらいしか思いつかなかった。
あの人の笑顔を前にして、アタシの人生からあげられるものはこれぐらいしか思いつかなかったのだ。
フツーの人なら笑えばいいのかもしれない。
笑顔には笑顔で返す――等価交換。
それが当たり前なのかもしれない。
でもアタシの体の中にある笑顔は、なかなか表に出てこない。
きっとアタシの体の中には、怒りをためておく箱みたいなものがあって、それが邪魔で笑顔が出てこれなくなっているのだ。
そういえば浦島太郎が乙姫さまからもらった玉手箱には、何が入っているか教えてもらったことがある。
正解は――『時間』だ。
浦島太郎が海の中で三年を過ごした間に、地上では七百年の時が過ぎてしまった。
彼の体に刻まれるはずだった全ての時針が、そっくりそのまま玉手箱に入っていたというわけらしい。
浦島太郎はそれを開けたから――開けてしまったから、若い心のままお爺さんになってしまった。
ではアタシの中の怒りの箱を開けたら、アタシはどうなってしまうのだろう?
蓋が開くまでは、主人公にだって分からない。
◇
上級生のクラスが並ぶ廊下を歩くというのは、何歳になっても緊張するものだ。
自意識過剰なのかは分からないが、視線を強く感じる。
――やっぱり帰ろうか……。
――住所だけなら先生に理由を話せば……。
――クッキーを渡すのだってアタシの勝手だし……。
うん。
決めた。
今日はやめよう――アタシが踵を返し、数歩進んだ。
その時だ。
「あれ? この前の。エニシくんのお姉ちゃん」
いまだに耳に残っていた男性の声がした。
「あ……」
なんだか救われた気がして、アタシは振り返る。
そこには見覚えのある男子生徒が立っていた。
「……こんにちは、荒木先輩」
「やっぱりそうか。後ろ姿が似てたから、そうかと思って近づいたんだけど」
あの時と変わらない笑顔がアタシだけに向けられた。
「探していたので、助かりました」
「探してたって……、俺を?」
アタシは手を背後に回して、クッキーの入った袋を隠した。
クッキーなんてなんの意味もないことを、今さらながら知る。
荒木先輩の笑顔のようにキラキラと輝いているものと、等価交換できるものなんて、そうそうあるわけがないことに気が付くべきだった。
それこそタイやヒラメの舞い踊りでも用意しなければ。
もしくは――それぐらい輝いた女の子とか。
「陣くん。この子が、先日の子?」
荒木先輩の隣に一人の女子生徒が立っていた。
色素の薄い髪。色白の肌。嘘みたいにピンク色の唇――怖いくらいに綺麗な人。
「ああ、そうだよ。エニシくんのお姉ちゃんで……ええと、そうだ、名前聞いてなかったんだよな」
「そう言っていたわね」
荒木先輩が頷くと、隣の女子生徒は――まるで射貫くような視線をアタシに向けた。
それは恨みだとか、怒りだとか、不快感だとかの感情が載ったものではなく。
純粋に『力強いだけ』の視線だった。
視線は物語っていた。
自分がどういう存在であるのかを証明していた。
――ああそうか。
――こういう人が、こういう笑顔の人の隣に立つんだな。
アタシは妙に納得していた。
美女は笑うことなく……、しかし不思議と楽しそうな感じのする声音で言った。
「はじめまして。わたしは二年の真堂礼よ。あなたのお名前は?」
それが真堂先輩との初めての出会いだった。
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