第32話 名前と乙女心(β)

 昼休み。

 今日はレイと二人。

 中庭で飯を食べることになった。

 梅雨の時期にはなかなか叶わなかったが、今は今で日差しが強い。


 とはいえそこは、姫八学園。

 ちょっとした自然公園なみの景観がそこかしこに見られる為、木陰を探すのは苦ではない。


 二人して並んでベンチに座る。

 俺はレイに保冷バッグを差し出した。


「こっちがレイの分だ」

「ええ、ありがとう、……?」


 レイは弁当を受け取りながら首を傾げる。

 なにか気になることでもあったのだろうか。


「中身はサンドウィッチだぞ」

「ええ、ありがとう。……?」

「具はシンプルにハムとチーズときゅうりだけど、特製ソースを使ってみた」

「それは楽しみね……、……?」


 なんだか不思議そうに俺を見ていたレイだったが、弁当袋から取り出したサンドウィッチにかぶりつくと、一人悦に入った。


「おいし……♪」

「それは良かった。あとレイに貸してもらったスープジャーにスープも入れてきたんだ」

「あ。まさかこれ、昨日の残りのスープかしら」

「うん。イヤだったか?」

「いいえ! とっても美味しかったから、もっと飲みたかったの!」

「……? 昨日、おかわりすれば良かったじゃないか」

「おかわり?」


 レイは目を見開いた。


「どうやって?」

「おかわりください、って言えば良いだろ?」

「だって、お父様はおかわりしてなかったわ」

「少食だからな」

「陣くんもしてなかった」

「スープは一杯でいいしな」

「舞ちゃんもしてない」

「体が小さいからな」


 レイの目がジトーといった感じになったのは気のせいだろうか。


「陣くん」

「うん?」

「それで、わたしはどうやって、おかわりをすれば良いの……?」

「え? だから、おかわりくださいって言えば――」

「乙女心パンチっ」

「うっ」


 あまり痛くはないパンチがみぞおちに入った。

 なんなのだ、いきなり。

 叩かれる理由がわからない。


 レイは、つんっと前を向くと言った。


「一生、言わないわ」

「……なにを?」

「おかわりって言わない!」

「欲しければ素直に言えばいいだろ」


 レイが握りこぶしをつくった。


「乙女心――」

「――レイの本当の気持ちが知れたら、俺は嬉しいんだからさ」

「……ウ、ウン……」


 レイは握りこぶしをほどくと、スープを一口飲んだ。

 それから言う。


「お、おいしーデス」

「そりゃ良かった」


 急に静かになったレイの横で、俺も自分の弁当を開いた。

 一口食べ、二口食べ、三口目にいく前に――レイの質問が耳に届いた。


「そういえば、さっき陣くんに違和感を感じたの」

「ああ。そういや、しきりに首をひねってたな」


 違和感ってなんだろうか。

 髪の毛は切ってないし、何かを変えたつもりはないんだけど。


「ええ。なんというか……、根拠はないのだけれど……」

「うん」


 レイはサンドウィッチに噛みつく。

 飲み込んでから、こちらを見た。


「陣くん、最近、なにか変わったこと……あった?」

「変わったこと?」

「ええ。なんて表現すればよいのか分からないのだけれど……、わたし、危機感みたいなものを感じるわ」

「危機感って……、なんだそれ」

「分からないから聞いているのよ? 小さなことでも思い出して?」

「お、おう」


 レイが、一瞬だけ大きく見えた気がしたぞ。

 しかしそれも束の間、レイはスープを口に運ぶと、にっこりと笑った。


「おいし……♪ で、なにかあった?」

「なにか、ねえ。――あ」

「なに?」

「舞の前歯がぐらぐらしてきたんだよな。抜けるのも時間の問題か」

「それは問題だわ。乙女にとっては、命をかけたライフイベントの一つね」

「小学一年で乙女もなにもないだろ」

「代理乙女心パンチっ」

「うっ」


 全く痛くないが心臓には悪いパンチが、脇腹めがけて飛んできた。


「陣くんは、乙女心を学ぶべき。絶対。わかった?」

「はい……」


 なんか怖い。

 最近は舞も、レイの味方をすることが多いしな……。


「他には? 他の日常的ではないこと、なにか思い出さないの?」

「他ねえ……、あ、そうだ」

「なに?」

「父さんが宝くじで一万円当たったって喜んでたな」

「それは凄いことなのかしら?」

「え、一万円だぞ。なんでも買えるだろ」

「そうかしら。一万円ってなんでも買えるかしら……?」

「一万円だぞ! わくわくするだろ! なんでもできるだろ!」

「なんでも……?」

「なんでも!」

「なんでも……、ということは、つまり……、陣くんに一万円渡したら……っ!」


 座っていたはずの、レイの腰が浮いていた。


「なんでも……、できる……っ!?」

「レイ?」

「い、いえ!? べつに何も考えてないから! そ、そうね、この話はやめましょう――他! 他には何かなかったかしら!」

「そう言われてもなぁ……あ、そうだ――」


 もう一つ思い出した。

 しかしレイは一人で勝手に納得していた。

 やけに焦っているのが気になるが。


「まあ、でも、そうね。歯が抜けて、宝くじが当たって、人生それぐらいしか起きないわよね。暑くなってきちゃったし、そろそろ中に戻りましょうか。わたしの勘違いだわ。そう、そうなのよ……っ」


 テキパキと弁当を片付けるレイを見ていたら――なぜだろうか、あの下級生の後ろ姿を思い出した。


「もう一つあったぞ。まあ、これもなんてことはないんだけどさ」

「なんてことないなら、別にいいの」

「男の子を助けてさ。病院に連れてったんだよ 」

「へえ、それは良いことね」

「その子のお姉さんがここの一年生だったよ。とても綺麗な子だったから、レイみたいに有名なのかな?」

「やっぱり良くないっ!」


 レイはダンっとベンチに手をついた。


「詳しく教えなさいっ!」

「え? なにを?」

「その出会いをよっ!」

「あ、ああ……? えっと、名前はエニシっていって」

「聞いたことのない名前ね……?」

「小4の男の子なんだけどさ」

「弟のほうじゃないわよっ! 姉の話をしなさいっ!」

「どうしたんだ、レイ」

「逆にその言葉を陣くんにぶつけてやるわよっ! 頭のなか見せなさいっ! ていうか姉の話をしなさい!」

「姉の話?」

「まずは名前っ!」


 これだけ表現豊かな声音なのに、表情がほとんど動かないのも逆にすごい。

 もちろん頬は赤くなっているが――あれ、そういえば……。

 レイに言われて今、気がついた。


「……そういえば、姉の名前は聞いてないな」


 レイはハッとなったようだった。


「人としては良くないけど、陣くんとしては良かったわ!」

「意味がわからん」

「乙女心パンチっ」

「うっ」


 訳が分からない昼休み。

 それでも俺にとっては楽しい時間だった。

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