早朝の負け犬、夕暮れの黒猫

野々村鴉蚣

ぶっ壊先生

 目時まし時計が何り響く。けたたましく、騒々しく、朝という存在を証明するかのように。どら息子にキレる母のように。それは少年の安心と安全を形作る静寂を食い破り、切り裂き、無惨にもばら蒔いて。撒き散らして。


「……あと五分」


 少年は寝言かも分からぬ一言を添えてスマートフォンの画面を操作した。その様子から察するに、意識は無い。それが日々の日記であるように、完全たるルーティンと化していた。

 少年は朝が嫌いであった。どこぞの熱血指導者を彷彿とさせる朝日は、夜の間に落ち着いた気温を無理やり沸き立たせる。井戸端会議を唐突に始める雀の群れは、電線の上で列を成す。昨晩これでもかと降り注いだ雨も、今や爽快な青空を生み出し、西の空には虹の橋。

 少年は、そんな朝が大嫌いだった。


「学校、行きたくない」


 枕に顔を突っ伏して、そこに確かに存在する羽毛の匂いに包まれて、少年は呼吸を繰り返した。

 今日も生きている。それを証明するように、左手の手首がキリリと痛みを放つ。


「学校、行きくない」


 スマートフォンの画面に、家族間で交流しているSNSの通知が点った。その緑色のアプリを開けば、昨日と変わらぬ文面が浮き出てくる。


『おはよう、今日も頑張ってね!』


 もう、二年は経つだろうか。毎日変わらぬ文言。見飽きた以外に表現のしようがない、母からの短なメッセージ。


「…………」


 少年は、虚ろな目で画面に指を這わせ、文字を走らせる。それは寝ていた間に見た夢の話だ。少し長くなるが、暗く重く痛々しく苦痛に充ちた悪夢。それを書き終えてから、バックスペースキーを連打した。


『おはよう』


 少年が送信したのは、たったそれだけだった。それだけが、彼に許されたセリフだった。


 目覚まし時計は再び唸り出す。画面には家を出る時間と表示されていた。それを見て、少年は朝食もとらずにカバンに手を伸ばす。憂鬱な朝だから。


「行ってきます……」


 誰も居ない下宿先の玄関に、小さく呟いてから鍵をかける。いつもと変わらぬ朝だ。最も憂鬱な朝だ。


 世界は日々、朝を迎える度に新しく作り替えられているらしい。昨日見た風景も、昨日居た猫も、昨日飛んでいたカラスも、全て今日とは違う。全てが今日とずれている。

 毎日自分のもののように扱っている部屋も、カバンも、筆記用具も教科書も。全て毎朝作り替えられている。

 神様が、そうしているのだ。この世界は神様が作りだしたひとつの舞台で、少年を含めた全ての存在は、朝を基準に動き出している。だから、いつか突然神様の気まぐれで、世界が昨日とは違うものに書き換えられる可能性だってあるのだ。

 そこのホームレスが明日には総理大臣になっているかもしれないのだ。耳元で唸る羽虫が明日には美を象徴する孔雀になっているかもしれないのだ。公園のブランコで泣いている幼子が明日には世界を股に掛けるアイドルになっているかもしれないのだ。


「そう」


 毎日いじめられ、カツアゲされ、殴られ蹴られ噛まれ踏まれ嬲られ貶められ馬鹿にされ無視され卑下され脅され笑われる少年も、明日には変わっているかもしれないのだ。


「そう信じるしかない……」


 そう信じるしかないのだ。と、少年は自分の左手首を摩った。まだヒリリと痛みが残っていた。

 彼にとって、この痛みだけが存在意義であった。明日、突然この痛みが無くなるかもしれない。明日、突然この傷跡が無くなるかもしれない。明日、突然この屈辱が無くなるかもしれない。明日、突然この生活が無くなるかもしれない。そう信じる事だけが、少年にとっての希望だった。唯一無二の、生きる希望だった。


「今日じゃ、ないけど」


 誰にでもなく、少年は笑う。

 笑う。

 笑う。

 笑う。

 そして、笑う。


「ヘラヘラしてんじゃねぇよ、キモイんだよ」


 少年の額から、血が零れた。朝は憂鬱だ。学校は、地獄だ。


 少年が欠かさずクラスに顔を出しているのは、ただ母に心配をかけたくないからだった。少年が一度でも出席を怠れば、学校教師は彼の親に電話をした。なんでも、高校生から一人暮らしをしている少年を心配しているから、との事だった。

 しかし、そんなのは口からの出任せである事を少年は知っていた。ただ、教師が保護者から受けるクレームを恐れるがあまりに取っている行動に過ぎないことを、少年は知っていた。


 だから彼は学校に行くのだ。


 親に心配はかけられない。先生にいい格好をさせたくない。少年をダシにして、少年を貶めて、少年を蔑んで、それでもなお威張り散らしている教師に、弱味を見せたくなかったからだ。


「やべ、先生来た!」


 頭から雑巾を被り、両手をガムテープでぐるぐる巻きにされ、痛みで涙を流す少年を見て、担任の教師はため息をついた。


「ホームルームの鐘が聞こえなかったのか? 遊んでないでクラスに入れ」


 少年は、教師の言葉に対して返事をするのが精一杯であった。


 これが日常。これが常。これが、現実。


 だから少年は信じてやまなかった。この世界が作り替えられる日が来ることを。


 しかし、春が過ぎ、夏が来て、夏休みを飛び越えるまで、延々と少年の苦痛は止むことがなかった。

 延々と、いつまでも続くものだと。そう少年が感じ始めた、そんな二学期の初め。その男がやって来た。


「自分を殺してんじゃねぇぞ!」


 緑の芝生に似た坊主頭に、真っ赤なモヒカン。それを誰かが鶏と揶揄した。しかし、新任だと名乗った教師は鼻で笑い胸を張る。


「おうおう君たち、元気がいい事で何よりだ。しかし君たち、校則を破って金髪に染めているくせして、私の頭を馬鹿にするんだな」


 少年は、無理矢理ブリーチを当てられた自分の髪の毛をそっと握りしめた。前髪が表情を隠す。そんな少年に一瞥くれた教師は、また目を逸らして叫んだ。


「俺はな、この学校をぶっ壊しに来た。内側からだ」


 その言葉の意味を理解した生徒が、果たしていただろうか。しかし、少年はなにか希望のようなものを感じていた。


「世界が書き換えられたんだ……」


 この世界に機械仕掛けの神が居るのなら、どうか最後は大団円を。そう願っていた少年を、放課後になると同時に教師が呼び止める。


「おい君、酷い負け犬だな」


 その言葉は、今までのどの言葉よりも少年の心を抉った。


「やられっぱなしに耐えっぱなし。やり返す事もせず、延々と一人」


「関係ない……じゃないですか」


 苦虫を噛み潰したように顔を顰める少年に、教師はハッキリと告げた。


「聞け、少年。ソクラテスが言ったという『悪法もまた法なり』って言葉な、あれはデタラメだ。そんな言葉は存在しない」


 少年は、何の話か分からなかった。しかし教師は続ける。


「あの人はな、自分の信じる正義を貫いただけだ。脱獄とか、そういう悪いことをしたら、あの人が尊敬する偉人達にあの世で合わせる顔がないってな」


 教師は少年に顔を近づけて、そっと手に何かを握らせた。


「お前は周囲に合わせすぎだ。もっと自分をとっぱらえ。解放しろ。自分の正義を貫いて見せろ」


 教師はそれだけ言い切ると、去っていった。少年の手には、カッターナイフが握られている。


「……僕の、正義」


 その日の夕方、少年はいつものようにいじめられると思っていた。しかし、一向にクラスメイトは現れなかった。

 帰り際、彼はその理由に気づく。


 学校の屋上で、クラスメイトが集まっているのが目に止まったのだ。一年前から不登校だった女の子を囲うようにして。


 誰かが、少女の制服を引き裂いた。それを見て誰かが舌なめずりをし、また誰かが腰のベルトを外している。

 それを見て少年は、決意した。右手の握る力をより強くさせ、屋上に繋がる階段を駆け上がる。


 それは、初めて少年が自分の意思で起こした行動だった。

 見過ごせば、あの世で父に会わせる顔がない。


 屋上に繋がるドアを開けたそこで、一匹の黒猫が唸り声を上げていた。身ぐるみ全て剥がされて、体のあちこちに傷をつけて。


「来るんじゃなかった」


 涙ながらに呟いた彼女を庇うように、負け犬が吠える。


「てめぇら全員、ぶっ殺してやるッ!」



 もしも、機械仕掛けの神が居るとするのなら、明日を書き換えるのはやめて欲しい。今日を、昨日を、一年前を。

 虐められる少女を黙って見ていることしか出来なかったあの日の少年の行動を、どうか書き換えて欲しい。


 少年は強く願う。少年は過呼吸気味に嗚咽を繰り返す。


「てめぇら、てめぇら全員ッ!」


 しかし、この世界にデウス・エクス・マキナなどはいない。どんでん返しはありえない。大団円など起こりえない。学校は閉ざされた社会。カースト制度が色濃く残る最悪な世界。

 底辺の反逆など、金属バットの前に無力。


 それが現実。これが真実。永遠に変わることは無い。搾取される側は、永遠に搾取され続けるのだ。


「よくやった。少年。君の叫び声は職員室まで響いてくれたよ」


 この先生が、現れるまでは。


「まずはいじめ制度から、ぶっ壊しに来た」

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早朝の負け犬、夕暮れの黒猫 野々村鴉蚣 @akou_nonomura

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