第3話 彩
十五時四十五分。終業のホームルームを終えると、私は足早に別校舎の奥に位置する美術室へと向かった。一日中、あの生徒の姿が頭から離れなかった。私は気難しい男のはずだった。他人への興味は皆無に等しかった。ましてや芸術の最中に他人のことが脳裏に浮かぶことなどまずなかった。しかし、授業中に少しでも隙ができると水を失った魚のように彼女を渇望していることに気がついた。そんな邪念を打ち払うかのように私は創作に没頭するように努めた。自然にではなく故意に没頭しようと努めた初めての経験であった。
美術室は私のオアシスだった。生徒は自分の作品に没頭し、私もまた彼らの作品に没頭する。
数分後、美術室についた私はいつものように鍵穴に鍵を挿し、回そうと試みる。授業終了後には必ず鍵を閉めてからホームルームに向かうことが私の日課だった。しかし鍵は少し右に回ったところで止まってしまった。回す向きを間違えたかと思った私は、続けて左向きに鍵を回す。すると今度は「かちっ」という音がした。両開きの扉のうち、右扉に手をかけ引っ張るが扉は動かない。もう一度引っ張るがやはり開かない。どうやら鍵がかかっているようだった。私は少し不審に思った。それはつまり、始めは鍵が開いていたことを意味していた。もう一度鍵を右に回すと再度乾いた音が響く。右側の扉に手をかけ、中の様子を伺いながら開く。
するとそこには女生徒の姿があった。彼女は椅子に座り、向こう側を向いていた。顔が見えず、誰だかわからない。しかしなぜだか私は胸の高鳴りを感じた。
「誰だい?」
私は少し上ずった声で尋ねた。女は微動だにしない。私は後ろ手でゆっくりと扉を閉め、彼女の正面へと回り込んだ。すると彼女は驚いた様子で頭を上げた。
「あっ。すみません。勝手に入ってしまって」
端正な顔立ちとまっすぐ伸びる黒い髪。そして何よりも彼女が醸し出す雰囲気に、心も体も飢えから解放されたような気分だった。
「もしかして鍵空いてたのかい?」
「はいそうです。美術部に入部したいと思ってホームルーム後すぐに来てみたんです。張り切っちゃって。そしたら扉が開いていたので、つい覗いてしまって。あの絵が目に入ったんです」
彼女は箱型に広がる美術室の奥の壁面にかかる絵を指差した。カンバスに一筆一筆繊細に、そして大切に描かれたその絵からは作者の落ち着きが感じられた。
「あああの絵か。無名作家の作品だが、私はあの絵が大好きなんだ」
彼女は少し間を空けて
「先生は落ち着いた人なんですね」
と言った。彼女の言葉は皮膚を通り抜け、私の体内へと浸透していく。心地よさを覚える一方で、私は彼女に全てを見透かされているような気がした。まだ、彼女の視線は絵の方向を向いていた。この瞬間に限れば、彼女の存在が部屋を満たしていた。
「でもダメだぞ、勝手に入ったら。不審者かと思うだろう。まあそもそも、鍵をかけ忘れた私が悪いのだけどな」
「いえいえ、私が悪いです。すみませんでした」
彼女は視線を私の方に向け、少し静止してから頭を下げた。
「まあ仕方ない今回は。それでなんだって?入部希望なんだって?」
彼女が頷く。
「そうか。そしたらこれから入部届けを持ってくるから少し待っていてくれ。詳しい説明は書いているときにするから」
「わかりました」
「もし暇だったら、絵や作品を見ていてくれ。うちの生徒が作った作品だ」
秋波高校は部活動が盛んだった。それは文化部も同様で、我が美術部は全国大会上位作品をずらりと有する都内一の美術部だった。私は彼女の顔を見て、踵を返す。
扉を開け、美術室の外に出る。彼女の方を振り返ると、彼女は立ち上がり、作品を鑑賞し始めていた。身長は百六十㎝ほどだろうか。立ち上がった彼女の姿を見ると、再び朝の情景が浮かんでくる。同時に、彼女のことばかり考えている自分に気がつき、何かが壊れかけている気がした。これまで授業後に鍵をかけ忘れることは一度たりともなかった。鍵をかけることは美術品や私のオアシスを守ることであり、私を守ることであった。
職員室に向かう私の心はは振れ幅を持っていた。サインカーブのように正負をを行き来し、時には零になることもあった。足取りの重さもそれに呼応して変化していた。
その波が数往復する頃だろうか。気がつくと私は職員室の前にいた。すでに生徒たちはそれぞれの活動場所へと移動を開始していた。おそらく数人の生徒とすれ違っただろうが、完全に意識の外にあったため、気付くことはなかった。職員室に入り、自分の机を漁る。職員室にはすでに教員が数人いたが、当然私に話しかけてくることはなかった。入部届は机の引き出しのうち一番上、私が一番初めに手をかけた場所に入っていた。予備用も含めて入部届を二枚手にし、職員室を出る。階段に向けて歩いていると
「先生、その紙なんですか?」
と一年E組の太田明里が覗き込んできた。彼女は美術部の部員であった。私は無機質に
「ああ。入部届さ。三年生の女の子が入部したいって美術室まで来たんだ」
と階段を下りながら答えた。
「ええ、新入部員ですか!やった!これで部員15人目ですね」
太田は頬を緩め、生き生きとした声を出した。彼女は部員の増加を喜んだ。
「でもおかしいですね。三年生のこの時期に入部なんて」
「いや、転入生らしいんだよ。噂では」
「そういうわけではなくて。受験の時期じゃないですか?これから何か作品を作る余裕あるんですかね」
彼女が言うことはもっともだった。それほどの進学校ではないとはいえ、この時期の三年生は受験に向けて勉強を始めるのが普通だ。
「AOや推薦、もしくは就職組なんじゃないか?」
「うーん。わかりませんね。まあ本人に聞いてみるのが一番ですね。早く美術室に向かいましょう。もしどこかへ行ってしまっていたら嫌ですから」
と彼女に急かされ、美術室へと向かった。
美術室に入ると、もう既に作品を作り始めている生徒の姿もあった。彼女は教室の中央あたりで、数人の女子生徒と仲睦まじく立ち話をしていた。太田は教室に入るとすぐにその輪に入り込んで行った。私は入り口のあたりでその様子を伺う。
「あなたが転校生の方ですか?お名前は?」
「白川です。白川百合です」彼女は反射的に答えた。彼女らしい名前だ、そう思った。
「白川さんですね。初めまして。私は一年生の太田明里です。先生から転校生が美術部に入りたいって言っていると聞いたので。前の学校でも美術部に入っていたんですか?どうしてうちの美術部に入ろうと思ったんですか?」矢継ぎ早に質問をする。
「はい。絵を描くことが好きで。こちらでも続けようと」
「そうなんですか。でもどうしてこの時期に部活に?そろそろ受験じゃないですか」
「いや、大学にはいきません」
突然彼女の顔に陰りが見えた。沈黙が美術室を覆う。彼女にも「黒」い部分があった。
一方である意味では初めて彼女に生を感じた瞬間でもあった。
「おい白川、入部届持ってきたぞ」
これ以上踏み込んではいけない気がして、気づけば声をかけていた。
「あ、はい。ありがとうございます」
彼女は輪を抜けて私の方へと近づいてきた。彼女は既に白を取り戻していた。その白は私の心をざわつかせた。
「じゃあ記入してくれる?」
私は慌てて胸ポケットからボールペンを取り出し、入部届とともに渡す。彼女はそれらを手に取ると右手にボールペンを持ち、入部届を近くにあった机の上に置いて書き始めた。するとすぐに
「先生二枚くっついてますよ」
と声をかけられた。予備用の入部届も一緒に渡していた。
「ごめんごめん」
と謝りの言葉を口にし、一枚だけ受け取る。記入する彼女の姿を見ているといつの間にか我を忘れそうになる。私は一つだけ彼女に問いかけた。」
「あのさ、白川さん。あなたはどうして絵を描くことが好きなんだい?」
彼女は顔を上げ、ペンを止めた。そして赤ん坊のような笑顔で
「白いカンバスに筆を入れる。その瞬間がたまらなく好きなんです」
と言った。その瞬間彼女に初めて色彩を感じた。白でも黒でもない鮮やかな何かを。虹よりもはるかに多い色彩が彼女を染めていた。
「そうか。わかったありがとう」
彼女は再びペンを走らせた。すると、彼女から色彩が消えていった。彼女は白を取り戻したのだ。私は彼女の変化に美しさを感じた。彼女が一種の芸術に見えた。
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