第2話 透
「大原先生、おはようございます」
右隣の席から挨拶を受けた。体育科の江田美咲だ。一目で体育科の教員だと断定できる青いジャージ姿と肩まで届かない短い髪が彼女を象っている。高校時代はバスケットボールで全国大会に出場するほどの実力者だったと耳にしたことがある。新任としてこの春赴任してきたが、体育科の紅一点としての活躍を期待されている。
私は東京都内の一等地に門を構える、都立秋波高等学校で教員として勤務していた。専門科目は美術。総勢千人近い生徒が在籍しているこの学校は、キャリアとして三校目だった。以前勤務した学校では働き蟻のように上司にこき使われてきたが、秋波高校ではそれなりの地位を確立している。二年目となる今年度は二年C組の担任を受け持つこととなった。職員室には入り口に対して直角に三列で机が並ぶ。十年目になる私は、入り口から最も離れた列の手前から二番目の席を与えられていた。
「おはようございます」
荷物を机に置き、席についてコーヒーを片手に教材を広げていた私は、片手間に挨拶を返した。
「夏休みも明けて今日からまた生徒が来るんですね。気合い入れ直さないと」
江田は会話の名残のようにそう言った。独り言か会話かの判別がつかなかったので何も応答せずに意識を逸らそうとすると
「夏休みボケしている生徒もたくさんいるでしょうし、生徒指導に精が出ますね」
とどこからか野太い笑い声が響いた。後方で、脇に積み上げられた資料の整理をしながら山川剛が盗み聞きしていたようだ。山川は生徒間ではその強靭な肉体から体育科のボスとしての呼び声が高い。私には縁のない世界だが、なんでも筋トレが趣味だそうだ。ただその実態は優しく生徒想いのただの熱い男である。
今日は夏休み明け名物の生徒指導が行われる。秋波高校はそれほど厳しい校則があるわけではないが、「節度のある服装を」というモットーの元でネイルやピアス、華美な髪色は禁止している。スカート丈も過度に短いものでなければ許容範囲だ。
「こちらに来てから五ヶ月ですし、皆様のおかげもあって少しずつ慣れてきました。生徒の名前も覚えてきましたし、私としては今日からが本当のスタートみたいな感じですかね」
「おっいいね。ビシバシ生徒指導していこう」
山川は気分屋で、機嫌の良さと口数が比例する。会話量からしてどうやら今日は機嫌がいいようだ。
二人の会話をよそに、私はこれ以降誰とも挨拶を交わすことなかった。これが日常だった。朝に一言二言会話をすると、退勤まで業務連絡以外で教員と会話を交わすことはほとんどなかった。私の、人に対する興味の薄さが原因であることは明白である。動物や植物、そして芸術に対しての興味が強まれば強まるほど、人間に対する興味は失われていった。今では話しかけてくるのも江田くらいである。彼女もすぐに話しかけてこなくなるはずだ。
秋波高校の始業時刻は八時三十分であった。生徒が登校してくるであろう七時四十五分が近づくと江田と山川とともに職員室を後にして校舎の入り口へと移動した。三階建の校舎の二階に職員室はあった。階に応じて一階は一年生、二階は二年生、三回は三年生といったシンプルな割り振りとなっており、その他の保健室やパソコン室、視聴覚室などは各階に散りばめられていた。私たちは職員室を後にすると目の前の階段を降りて一階の昇降口に出た。まだ少数ではあるが、すれ違う生徒には一人一人挨拶の声をかける。挨拶が返ってくるのは稀であったが、そもそも期待をしていないので全く苦にはならなかった。
「どうして挨拶を返してくれないんですかね。確かに義務ではないですけど少し寂しいですね」
昇降口で下駄箱から靴を出し、履き替えている途中で江田がつぶやく。山川の返答を待ち、私は意に介さずに靴を履いていると不自然な間が生まれていることに気づいた、。どうやら山川の耳には届いていないようであった。
「そうですけど。まあそんなもんじゃないですか?」
と仕方なく私の見解を述べると
「そうですか…」
と、江田は少し不満そうな顔をして靴を履き替え始めた。
生徒指導は役回り制になっており、初日はこの三人が担当であった。テニスボールの乾いた音やサッカー部の大きな掛け声が校庭には響き渡っている。それほどの進学校ではないが、部活動が盛んな秋波高校では様々な部活が朝練を行っている。テニス部は団体戦関東準優勝、サッカー部は全国大会ベスト8、野球部は甲子園出場など輝かしい実績を残している。山川はこの野球部の顧問である。
校舎の入り口に立つと、一人また一人と生徒が学校に入っていく。早くに学校に来る第一陣たちは皆、模範解答のような服装で我々の横を通り過ぎていく。挨拶を返し、教師と立ち話をする生徒もいるが、無論、私と会話をする生徒はいない。この時間の私の存在意義はゼロに等しい。しかし仕事なので帰るわけにもいかず、ただ無機質な挨拶を振りまく機械と化していた。
しかし八時十分頃から服装に綻びが見え始め、私の存在意義でさえ指数関数的に増加していった。ワイシャツのボタンが二つ目まで開いている男子生徒やスカート丈が異常に短い女子生徒。ピアスをする生徒もいればワイシャツすら着てこない生徒もいる。彼らは第二勢力であり、我々は舐めるように生徒の姿を観察し、問題があればつまみあげて改善させる。
十分程度の格闘を経て第二陣を片付けるが、八時二十分ごろになるとまたぞろぞろと生徒が駆け込んで来る。彼らは第三陣。汗だくになりながらも遅刻の二文字を恐れてスパートをかけてくる、猫に追われるネズミの大群だ。
「もうすぐ遅刻になるぞ」
と山川が声を張り上げる。すると彼らはスピードを上げて猪へと昇華していく。猪の群れは門をくぐり抜け中に入ろうと突撃してくる。我々も速度と精度を上げて門番として目を光らせた。タイムリミットの八時二十五分が近づき、残り数匹となる頃には門扉は閉まり始めていた。さらに数人は間一髪門へと飛び込んでいく。
その中で悠々と私の前を通り過ぎていく一人の女子生徒の姿が見えた。他の生徒と同様に上から下まで服装をチェックする。耳。よし。ワイシャツ。よし。スカート丈。よし。すべてのチェックを終え、次の生徒に目を向けようとしたが、何故か先の残像が頭から離れず、もう一度彼女の方を向く。彼女は校舎へと消えていた。
彼女の残像は輝いていた。一瞬ではあるが私の体に入り込み、そして出て行った。私はせき立てられるように下駄箱のあたりを覗き込み、彼女を探す。しかし彼女の姿は全く見当たらなかった。
「大原先生、そろそろ三十分ですし教室に向かってください。あなたが遅刻しては本末転倒ですからね」
高らかな笑い声が響く。
「そうですね」
私は慌てて答える。山川の傍らには四人の生徒がいた。彼らは門扉に弾かれたようだった。私は残像の余韻に浸っていた。
「私はこの子達を生徒指導室に連れて行きます。お二人は早く教室へ」
そうして江田と二人で靴を履き替えて校舎へと入っていった。残像はもう消えかかっていた。
「最後ギリギリで校舎に入った女の子って誰ですか?」
気がつくと階段の途中で江田にそう尋ねていた。
「ああ。あの子は新しく転校してきた子です。どこのクラスだったかな。確か三年B組だったかな。どうしました、なにかありました?」
「いや特に何もないです。見たことない顔だなと思っただけです」
「そうか。早く行きましょう。遅れますよ」
江田に急かされ、駆け足で教室に向かっていく。もう残像はほとんど消えていた。顔もよく思い出せない。ただ、立ち振る舞いや着こなしから感じる無垢さ。彼女こそ「白」という色がふさわしい女だった。その白は私の中の黒を一瞬浄化してくれた。
教室に着くと、一息してから扉を開けた。教室に入る私の顔は少し輝きを取り戻したように感じた。
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