あのカンバスだっていつかは汚れる

foreside

第1話 無

帰り道、私は一人だった。


いつも通り残業を終え、時計を見ると二十二時。先輩も同僚も二時間ほど前にみんな帰って行った。


私といったら、帰ったところでやることも特にない。ただ夕飯を食べ、残った仕事をして寝るだけだ。そんな日常が今日も繰り返されるのだと心のどこかで思っていた。


ため息が漏れる。




その日は雨だった。それに湿気と風の追い打ちが重なった。


今朝の天気予報では曇りと予報されていたが、念のため折りたたみ傘を持ってきたことが幸いした。




「雨粒と共に沢山の小銭でも落ちてきたらいいのに」




私は訳の分からないことを考えながら暗がりの裏路地を歩いていた。その道は駅から続く一本道から少し入ったところにあった。この路地は人通りもほとんどなく、不気味な雰囲気を漂わせていた。




冷静に考えれば、小銭なんて落ちてきたら危険である。お札の方が安全だ。そんなの小学生でもわかる。しかし私にとってはどちらでもよかった。ただ現実から目を背け、理想にふけっている、そんな時間が至福であった。




「バンッ」




と鈍い音がした。まさか、と疑念と期待が入り混じった心持ちで黒色の傘を下ろすと、灰色で液状の固形物がこべりついていた。




「小銭なんて落ちてきやしない、落ちてきたのは鳥の糞だ。余計な期待かけるんじゃねよ」




と苛立ちを隠せず、右手で激しく傘を振る。しかし糞はなかなかとれなかった。しびれを切らし、前かがみになる。私は一つ息を吐くと、左手で糞を取った。




安堵していたのもつかの間、そんな少しの隙を雨は見逃さない。角度をつけて、容赦なく雨は飛び込んできた。私は慌てて傘を戻し、続けて上体を起こす。視界には、ダラダラと続く細い小道。再び疲れがどっと押し寄せてくる。雨は激しさを増していた。




家までの距離を案じ、憂鬱に歩いていると、暗闇の先に子犬の姿が見えた。こんな時間に子犬の散歩なんて、さぞかし幸せな人生なんだろうなと理不尽な憤りを覚える。無論、子犬にもその飼い主にも恨みなどない。私はそれほどまで疲弊していた。




降りしきる雨は私の自由を許さなかった。すると徐々に、自己嫌悪の心が傀儡師のように体を操っていった。自制心は力を失い、歩く速度は加速度的に上昇していく。やがてある速度に達した時、風の力は閾値を超え、私の傘を破壊した。




「うわ。ついてねえ。バチでも当たったのかな」




私はそこで理性を取り戻した。急いで雨をしのげるものを探し、鞄を探る。鞄には幸い小さな白いタオルが入っていた。強いに雨に急かされるように仕方なくそのタオルを頭上にかざすが、やはり体の七割は雨に晒されていた。再び歩き始めた私は、やや自暴自棄気味になっていた。




しばらく道なりに歩いていると、視界に遊具の群れが見えてきた。いつにもまして淀んだ天気と雨、細い道特有の薄暗さのせいか、遠くからは目視できなかったが、かつてから馴染みのある公園の存在にその時やっと気づいた。




その近くには犬の姿も見えた。ただ、周囲に飼い主らしき人間の姿はない。犬は黒い首輪をはめられ、公園内のベンチと太い紐で繋がれていた。時計に目をくれると、短針は数字の六よりやや右側にあった。




「こんな台風の日に公園におき去りか、お前も気の毒だな」




と犬の姿に同情の念が起こる。私の足は、いつしか公園の前で止まっていた。私は犬に運命的な何かを感じていたのかもしれない。真っ白なワイシャツは肩まで濡れていた。




家に連れて帰ろうかと思案を巡らす。しかし、あいにく私の暮らすアパートはペット持ち込み禁止であった。すぐ上に大家が住んでいる手前、下手なことはできない。そこでとりあえず交番に届けることにした。一種の義務感に駆り立てられたのか黙々と括り付けられた黒い紐を解く。その時の私は、雨風と止まらない汗との格闘も全く意に介することはなかった。しばらくして無事に犬を解放すると、紐を右手に出口へと向かった。




公園を出たところで再び犬の方に視線を戻す。白い体毛に覆われ、くるりと丸くて黒い瞳と愛くるしい鼻。子犬はどうやらチワワのようだった。私は、こんなに可愛いチワワを捨てるやつなんてろくなやつではないと推測した。それと同時にワイシャツの惨劇にも気がついた。犬を駅前の交番に預けて、早く家に帰ろう。そう決意したその時、視界の隅に一輪の花の姿を捉えた。雨にも、風にもそして孤独にも負けずに咲いていた。




「みんなひとりぼっちだな」




私は子犬とつながる紐を強く握った。しかし花に近づくことはできなかった。手を差し伸べたところで何も出来やしないと頭をよぎった。そしてそのまま公園を後にし、駅の方へと戻っていった。花は水のベールをまとい、一段とたくましく輝いていた。




数十分後、交番に犬を引き渡し、公園の前を通り過ぎる頃にはスーツのズボンまで濡れていた。タオルももはや意味をなさず、ただ雨に身を任せて走っていた。ふと公園の方に目をやる。すると信じられない光景がそこにあった。




そんなはずはない。そんなはずはないのに。―どうしてー。


公園の一角にポツリと咲いてたあの白い花は、綺麗さっぱり無くなっていた。電線に群れるあのカラスの仕業だろうか。公園を駆け回るあの黒猫の仕業だろうか。


「嘘…」


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