第4話 塗

彼女は記入を終えると、私の方に歩み寄り用紙を手渡しした。そして


「すみません。今日は用事があるので明日から参加します」


と言ってドアを開いた。すると太田が


「明日から部活動停止期間ですよ。テストが近いので。次はテストが終わった来週の金曜日です」と彼女の背後から声をかけた。テスト期間は来週の火曜日から金曜日まで続く。夏休み明け早々、生徒の前に立ちはだかる大きな壁である。


彼女の言葉を聞き、美術室からはため息の声が漏れる。


「ありがとうございます。そしたらまた金曜日にきます。」




白川はにこやかに微笑んだ。美術室を後にする彼女の背中には色気が感じられた。白ではない何かの残り香が漂っていた。私の視界はその背中に吸い込まれていった。一方で、美術室にはテストを危惧する声が充満していた。




その日の帰りのこと。いつもの帰り道。電車から降り、空を見上げると今日は綺麗な月が見えた。左側七割程度が欠けた月、いわゆる三日月だった。月明かりは外側から私の体を明るく照らし、一方で内側では彼女の存在が太陽のように私を照らしていた。体の内外から照らす光に急き立てられ、自然と足早になる。


駅から出てしばらくの間はちょっとした繁華街になっており、清潔な街とは言えない様であった。道中、路上に投げ捨てられた空き缶を蹴飛ばした。無機質な金属音が響き、蹴飛ばした空き缶は道の端の方に転がって人の波にさらわれ、何処かに行ってしまった。ただ、空き缶が転がった先には駅前唯一のペットショップがあった。いい時間だというのに、犬や猫の鳴き声が聞こえる。




「ワンっ」




一匹の犬の叫び声が大衆の雑踏を超えて私の耳に届いた。少し驚いて店の方を注視すると女性がゲージの前で座り込み、一匹の犬を凝視しているようだった。30代前後にも見える女性は微動だにせず、その姿は石像のようだった。




少し店の方に近づいたところで私は彼女らの動向に注目した。犬は女性の方に近づき、ケージの中から嬉しそうに吠えている。私には犬は彼女に求愛しているように見えた。しばらくすると女性はおもむろに立ち上がった。彼女の中で査定が済んだのだろう。女性は右肩から斜めにかけた小さな鞄に手を入れ、茶色い財布を取り出した。そして指で何かを数え始めた。三回ほどほど弾くと財布を鞄にしまった。お買い上げだろうか、女はレジの方に向かう。その時初めて、私のところから犬の姿が見えた。犬種はわからなかったけれど、可愛らしい犬だった。犬は彼女の動きに合わせて、狭いケージの中で少しだけレジの方に移動していった。見かけによらず、相変わらず力強い鳴き声だった。




少しすると女性の元に男性の店員がやってきて何やら話をした。女性の言葉に女は頷き、言葉を返している様子だった。やがて女性は振り返り、店員を残して犬の前まで動き、足を止めた。腰の方に手をやり、スカートを後ろから両手で押さえながら膝を折る。女性は目の前の犬に何やら話しかけた。一方で、犬は急に威勢を失い、なぜだか静かになった。私には暗雲が立ち込めているような気がした。女性は再度立ち上がり、レジの方に向かった。店員に、今度は一言だけ声をかけた。




私は結果を推し量り、店を後にした。曇りが私を襲っていた。私は気分転換も兼ねてすぐ隣のコンビニに入った。コンビニにはほとんど客がいない様子だった。私は飲み物のコーナーに移動しお茶を手にした。先ほどの女性と鉢合わせる可能性を恐れ、しばらくコンビニの中を意味もなく見て回った。




5分ほどしたところでやっとお茶を買い、、外に出る。すると不幸なことに、隣の店から先ほどの女性が出てくるところだった。見ない方がいいという心の声が聞こえる。しかし体は正直で、思わず彼女の持ち物を見てしまう。




先ほどは右肩から斜めにかけていたカバンを左からまっすぐかけていること以外、変わった様子はなかった。厳しい現実がそこにはあったのだ。


と、思った。




女性は店を出ると、すぐに背後を振り返った。そこに現れたのは先ほどの店員の姿であった。店員は笑顔で彼女の方に正対した。彼は彼女に何かを手渡した。




彼の右手にはペット用のケージがあった。


彼女は。


犬を飼うことにしたのだった。




その様子は私に立ち込めた曇りを一瞬にして晴らした。ケージの中の犬はこれまでのどんな鳴き声よりも男らしく、そして力強い鳴き声をあげていた。そのときの私には、犬の声は一種の告白のように感じられた。告白は成功したのだった。犬の告白に言葉はないけれど、人知を超えた何かを感じることができたのだ。その感情に出会うのはこれが初めてだった。




犬の勝利を見届けた私は、買ったお茶を飲むことも忘れ、再び帰路に着いた。


繁華街を抜け、細い道に入っていく。しばらくして公園の前を通った。そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。ただ一つだけ変化があるとすれば、あの花がないことくらいだった。あの日見た花は姿を失ったままだった。何かを思い立ち、ふらっと公園に寄った。花があったところに座り込む。ただ不思議と嫌な感じはしなかった。花があった辺りに手をやり、目を閉じる。蔓と彼女の姿が浮かび上がってきた。しばらく彼女に浸ると、目を開き立ち上がった。公園を後にする。その私の心にある思いが浮かんで生きた。




あの月のように私が彼女を照らしてやりたい。そんな大層な気持ちではないが、彼女の白に色をつけてやりたい。このモノクロの世界を鮮やかに照らすような、そんな色をつけてやりたい。




おそらく二十三時を回っているだろう。周囲の住宅は息を潜め、斑に光る明かりと暗闇だけが私の周りを覆う。まだら模様も徐々に勢いを失い、次第に闇が世界を支配していく。私はその様子を、ベンチに腰掛けて見守っていた。夜は更けていく。




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