第6話 サムソンの最期

 もう二度と来るはずのない場所だった。

 果穂は大きく息を吐いて、学校指定の鞄を背負い直した。一年以上着ていた制服とも今日でお別れだ。帰ったらすぐ捨てるつもりだった。制服も、学生証も体操着もジャージも、この学校を思い起こすものは何もかも。

 教室に足を踏み入れた時、数人の女子のグループがこちらに目を向けた。思わず顔を伏せた果穂の耳に「珍しい」や「最後だからよ」だの忍び笑う声が入る。聞こえないふりをして席に着いた。

 遠巻きに様子を伺うクラスメイトもいるが、誰も果穂に話し掛けようとはしない。いてもいなくても変わらないクラスメイト。それが自分だった。

(だったらどうして、放っておいてくれなかったの?)

 いないものとして扱われた方がマシだった。表立っては関わらないくせに、果穂の一挙一動を観察しては影で笑いものにする。姑息さと狡猾さに腹が立った。

「丹波さんが転校することになりました」

 朝のHRで担任教師が連絡事項の後でさりげなく付け足した。予想していたのだろう。クラスメイト達に動揺する様子はない。丹波果穂など彼女達にとってその程度の存在だったのだ。

 ここまで来ると思い悩んでいた自分が酷く惨めに思えた。きっと暇つぶしだったのだろう。なんとなく目についた気に食わないクラスメイトをいじって楽しんだ。ただ、それだけ。

「丹波さん」

 礼拝堂に向かう途中で、担任教師に声を掛けられた。

「大丈夫ですか? もし気が向かないのなら……」

 何を今さら。果穂は首を横に振った。『大丈夫』ならば転校なんてしない。生徒を気遣う教師を演じて免罪符にしたいのならそうすればいい。だが、協力はしない。あんたが私に何もしてくれなかったのと同じように、私もあんたには何もしてやらない。

 深く追求される前に果穂は生徒の流れに入った。礼拝堂は全校生徒が一堂に会することができるほどの広さを誇る。登校日は果穂も含めて生徒全員で毎朝礼拝を行っていたーーそれも今日で終わりだが。

 果穂は入学時に母からもらった聖書を開いた。最終登校日に聖書の朗読当番。おまけに聖書の箇所は旧約聖書の士師記十六章、怪力の士師サムソンの最期が記されたくだりだ。まるで仕組んだような偶然だった。

 粛々と進められる礼拝の中、果穂は頭が冴えていくのを感じた。ここにいる人々の大半は果穂のことなんて知らない。興味もない。ただ煩わしい礼拝の時間が終わるのを待っている。

 聖書を機械的に朗読している間も、果穂は奇妙な感覚を味わっていた。

 愛する女性に裏切られて敵であるペリシテ人に捕らえられたサムソン。痛めつけられ神殿に引っ立てられ見世物にされたサムソンは、神に願って怪力を取り戻し支柱を押して倒壊させた。見物に来ていた大勢のペリシテ人はサムソンと共に神殿の下敷きになり死んだ。それが士師サムソンの最期だ。

 果穂は聖書を演台の上に置いた。マイクを手に取って告白した。

「もし私がサムソンなら、この礼拝堂の柱をへし折ってここにいる全員もろとも死んでやりたかったです」

 でも自分はサムソンとは違う。ナジル人ではないし神様から怪力を授かったわけでもない。ペリシテ人に両目をえぐられたサムソンに比べたら、自分の受けた仕打ちなんて可愛いものかもしれない。

 だから、命まで奪うのはやめようと思った。自分はこの学校を出ていく。二度とここにいる人間とは関わるまい。自分と全く関わらない人間なんて、生きていても死んでいても同じことだ。痛み分けで手打ちにしてやろう。

「代わりに、私はここに今までの『私』を置いていきます。いつも無視されて、ダサくてデブで不潔と罵られて笑いものにされた、嫌な思い出も全部置いていきます。だからみんなも私にはもう二度と関わらないでください。最低最悪な一年間をありがとう。さようなら」

 ささやかな復讐を終えると、果穂は壇上から降りた。どうせ転校するのだ。さっさと帰ろう。親に心配を掛けた詫びに今日は夕食を作ろうと思った。

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