第5話 サムソンの最期
非常にありふれたことだった。それこそ海辺の砂つぶ、夜空の星ほどにもある出来事。
丹波果穂はクラスメイトからいじめを受けていた。
定番の上履きからノート、教科書、制服に至るまで隠され、あるいは落書きされた。教室では陰口を叩かれ、廊下を歩けば足を引っ掛けられた。SNSでは彼女を肴にした悪口話で盛り上がる始末。典型的ないじめの手口だ。
(で、引きこもりの後に自殺未遂、そして転校……)
悲しいかないつの時代も数の暴力には敵わない。これ以上娘が傷つけられる前にと動いた両親の判断は、決して間違ってはいない。むしろ称賛に値する程の迅速な対応だ。
(手遅れになる前でよかった)
と、普通ならば考えるだろう。そして黙って転校する。辛い過去には蓋をして。受けた傷には見て見ぬふりをして。だって騒いだところで何も変わりはしない。
しかし、世の中には諦めの悪すぎる人間がいるのだ。聖書に記された士師の一人サムソンもまた往生際の悪さでは天下一品。死なば諸共と大量のペリシテ人を道連れにして死んだ。
「すみません。わざわざ先生にご足労いただかなくても、おっしゃってくだされば伺いましたのに……本当に、申し訳ありません」
智美は何度も頭を下げては謝罪の言葉を繰り返す。彼女が夫である丹波雅弘と共に帰宅したのは午後の三時。二人とも引っ越し準備のため半休を取ったとのことだった。
いい両親だと、栄一は思った。娘のことを第一に考えつつも周囲への配慮も忘れない。
しかし、光はすげなく、そして若干ぶっきらぼうに「私が勝手に伺っただけですから」と答えた。
「そうおっしゃいましても、先生には先日もご迷惑をお掛けしたばかりですし」
「この度は娘がお騒がせいたしました」
夫婦揃って深々と頭を下げる始末。萎縮もここまでくるといたたまれない。対する光は相当頭にきているようだ。喧嘩腰で切り出した。
「ご迷惑、お騒がせというのは、お嬢様の自殺未遂のことでしょうか」
取り繕わない光の言葉に、雅弘は苦い顔をした。
「ええ……おっしゃる通りです」
「お父様の転勤というのは真っ赤な嘘で、実のところは転会も転校もお嬢様を加害者どもから引き離すため」
「いけませんか?」
雅弘は挑戦的に訊ねた。
「娘の将来を考えた末の決断です。訴えたところで学校も対応しないでしょう。そもそもいじめがあることすら認めないかもしれません。下手をすればモンスターペアレントだの言い掛かりをつけられます。そうなった場合、娘はどうなりますか? 間違いなく嫌がらせはエスカレートします。だったら今の場所にこだわらず、別の学校にうつればいいだけのことです」
こちらが訊いていないことにまで饒舌に語る。しかし取り繕おうとすればするほど、自信のなさが透けて見えた。
一通り雅弘の言い分に耳を傾けてから、光は腕を組んだ。不機嫌な時にする癖だった。
「転校も転会も個人の自由です。牧師がとやかく言うことではありません」
と言う割には、光は全く納得していないようだった。
「ところでお父様は聖書をお読みになったことは?」
雅弘は無言で首を横に振った。クリスチャンホーム育ちの智美とは違って、雅弘はごく一般的な家庭で育ったと聞いている。キリスト教とは年に一回、クリスマス程度の付き合いなのだろう。
「十戒にあります通り、キリスト教ではいかなる理由があっても殺人は罪と定めています。自ら命を断つことも同様です。何故ならば我々は神によって創造されたものだからです。神の許しなしに死ぬことは許されません」
いきなり始まった聖書の講釈に、雅弘は怪訝な顔をする。が、光は意に介せず続けた。
「その点、人間は非常に不可解な生き物です。被造物の中でも自ら命を絶つ生き物は人間だけです。神に造られたモノの分際で、創造主の意に反して勝手に死のうとする。生物学的にも神学的にもおかしなことだとは思いませんか」
「あの、先生……?」
「はっきり申し上げます。あなた方のお嬢様は怪物です。私の理解の範疇を超えたモンスターです」
本人が自室に引きこもっているのをいいことに、光はとんでもなく失礼は発言をかました。栄一はもちろん、丹波夫妻も口をぽかんと開けた。
「ふざけるな!」
さすがに堪忍袋の尾が切れたのだろう。雅弘は激昂し、光に掴みかかってきた。
「黙っていれば好き勝手に言いやがって。あ、あんたに何がわかる! 他人のくせに、俺達が真面目に話し合っているのに……ふざけやがって!」
「丹波さん、お、落ち、ついてっ」
慌てて間に入った栄一がとりなす。が、完全に頭に血がのぼった雅弘の耳には届かない。大の男に胸ぐらを掴まれ凄まれても、光はひるまなかった。
「本当ですか」
むしろ光は受けて立った。切り込むかのような鋭さで雅弘を見据える。
「本当に真面目に話し合ったのですか? お嬢様をモンスターに変えてしまったのは誰なのか、真剣に考えたことがありますか」
雅弘はまるで自分が喉を締められたかのような短いうめき声をあげた。後ろめたいことがあるのは明白だ。
栄一は力の抜けた手から光を引き離した。
「敵前逃亡も立派な戦術の一つです。転会、転校も結構。しかしそれは、当人が決断すべきことだと私は考えます」
突然の転校に対して不満はない、と果穂は言っていた。
むしろ願ったり叶ったりだ。ストレス発散のためだか何だか知らないが、残り一年半もクラスメイトのサンドバッグになってやる義理はない。担任教師に訴えても無駄だった。だったら学校を変えて、二度とそんな連中とは関わらないようにすればいい。
――でも悔しいの。
果穂がこぼした一言が、おそらく全て。
悪いことをしたわけでもないのにクラスメイト達から嫌がらせを受け、失敗を犯したわけでもないのに学校に行くことが怖くなった。
被害者は自分で、加害者はクラスメイト達。そのはずなのに、何故、自分ばかりが。
非はないはずなのに、引っ越しをして、転校までしなくてはならないのだろう。どうして何も言えないのだろう。何故誰も自分は悪くないと言ってくれないのだろう。
「子がモンスターになってしまうまで追い詰められたのです。親だけ『善人』でいようとは、虫が良すぎるのでは?」
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