第52話 幻想と現実

 日が沈み、夜が降りてきた。魔法灯を吊るした白い華舟が白月宮に近づいてくる。私とユーエンは玄関前の船着き場まで迎えに出た。


 ユーエンは殆ど何も言わずに粛々と初夜の支度を整えた。私に夜着を着せる手が少し震えているのは気付いていた。何かを言わなければと思いながらも、皇帝の妻である今の私には何も言えない。


 華舟に乗るリョウメイは豪華な青い深衣を着用している。青海波のような紋様が魔法灯の光で波打つように煌めく。私の顔を見て笑顔で手を振る姿は子供のようで、先日のうなだれていた姿とは別人に見えて仕方ない。


「カズハ!」

 華舟が接岸するとリョウメイが走ってきた。

「リョウメイ……」

 抱きしめられると、ムスクに似た匂いと花の甘ったるい香りが鼻につく。人工香料でないのなら、とても高価な香り。村にいたころの薄荷の香りは全くしない。


「体調はもう大丈夫なの?」

「うん。……ごめん。僕もイーミンに操られてたみたいだ」

「え?」

「僕が本当に好きなのはカズハだって気が付いたんだ。すっかり騙されてたよ」


 自分は騙されていた被害者だと何度も言い訳するように口にするリョウメイが、私には全く理解できなかった。


「子供が出来たと思ってたから仕方なくそばにいたんだ」

「……でも、そういうことをしたんでしょ?」

「侍女とだよ。まぁ、練習したと思えばいいかな」


 その言葉を聞いて、ほんのわずかに残っていたリョウメイへの愛情が完全に死んだ。自分の心の裏切りを後ろめたく思っていた気持ちも綺麗さっぱり消え去った。


 笑顔のリョウメイが私の手を両手で握る。久しぶりに触れるリョウメイの手は、とても柔らかくて綺麗になっていた。一緒に畑を耕し、籠を編んだ手ではなくなっていた。


 見上げた顔も色白で美しい。リョウメイは皇帝になってしまったと心の底から理解した。


「カズハを正式に青月妃にするよ。皇后にしてあげる」

 リョウメイの無邪気な笑顔だけは変わっていない。もしかしたら、変わってしまったのは私の心だけなのかもしれない。


「……ごめんなさい。私、青月妃になりたくないの。それから……これも返す」

 私は震える手で月長石の婚姻の腕輪を外してリョウメイに差し出した。


「あー、拗ねるなよ。イーミンが青月妃用の瑠璃の腕輪を持って逃げちゃったから、新しいのがまだ出来てないんだ。次に来るときは新しいの持ってくるからさ」

 リョウメイは笑いながら腕輪を懐のポケットに入れた。あっさりとした仕草は、妃が腕輪を返す理由を知らないのかもしれない。それでも私の気持ちは完全に決まった。


 これで気持ちと立場の区切りがついた。

 私は肩を抱こうとするリョウメイの手をすり抜けて、白月宮へと案内した。



 居間には簡単な料理とお酒を用意しておいた。

「カズハの手料理が食べられるなんて思わなかった。物凄く美味いよ」

 王宮では毒見が続いて温かい物が食べられないとリョウメイが嘆く。


「皇帝に残り物出すなんて申し訳ないわ」

「本当は僕の為に作ってくれたんだろ? わかってるよ」

 リョウメイは笑いながら鯛の天ぷらを食べているけれど、それは本当に残り物だ。ユーエンの為に作って、夕方一緒に食べた。


 お酒には睡眠薬を混ぜて飲ませ続ける。ユーエンに眠れないと言ってもらった薬。離縁したのだからリョウメイに抱かれるのは嫌だとはっきりと思う。


 私は聞きたいと思っていたことを口にする。


「どうして宴をしてたの?」

「王宮の中って、楽しいことが何にもなかったからさ。カズハも綺麗な服着て、楽しめただろ?」

 リョウメイの軽い言葉にめまいがした。私の為に何かを考えているのだと思っていたのは、私の都合の良い妄想でしかなかったと痛感する。本当に胸が痛い。


「リョウメイが宴の為に使ったお金は、国民の税よ? 小父様が毎年苦労して税を納めているのは見てたでしょ?」

「左大臣が税からは出してないって言ってたし、皇帝には使う権利があるんだ」

 王宮に隠されたお金を使うことで民が豊かになるとリョウメイが笑う。


「権利があっても限度があるでしょ? 毎回私たちに新しい装束を揃えるだけで、一体いくらかかってるか知ってる?」

 先日、宰相セイランに値段を聞いた時、本当に倒れるかと思った。宿屋や食事の値段から考えて、私のバイト代一年分でも一着にも足りないだろう。


 王宮金庫に入っているお金は、ほとんどが非常用。他国が攻めてきた時の軍事費、飢饉になった際に外国から食料を輸入する為の費用、国を護り民を護る為に代々の皇帝が備え続けてきたお金だとセイランに聞いた。


「服の値段なんて知らないよ……もう、難しい話は止めよう。折角の料理が不味くなる」

 少し不機嫌になったリョウメイは、また料理に匙を伸ばす。


「……そういえば。誕生日の手紙、ありがとう。嬉しかった」

「良かった。届いてたのか。本当は贈り物も用意したかったんだけど、イーミンが邪魔してたんだ」

 一転して上機嫌になったリョウメイが、イーミンの悪口をまくしたてる。


 妃たちへの贈り物は正妻である青月妃が決める規則があって、春待華は名もない雑草と聞いたイーミンが私に贈ることを許可したと笑う。


 これまでに前例のない趣向を凝らしたという宴の話をリョウメイが面白可笑しく口にする。自分の考えは斬新で、左大臣や貴族たちにとても驚かれたと笑う。

 リョウメイは自慢しているけれど、実際は単なるお世辞だと思う。大袈裟に驚く姿を見せられて、自分は素晴らしい考えを持った特別な人間だと思い込まされていたのだろう。


「左大臣はいなくなっちゃったけど、もうすぐ新しい左大臣が就任するから、春になったらまた宴を始めるよ」

 手だけでなく心までリョウメイは変わってしまっていた。事実を突き付けられた私は、諦めの気持ちしか持てない。私の言葉はリョウメイには届かない。


「……後宮の決まりを幾つも廃止したのは何故? 月妃が自由に出られるようにしたでしょ?」

「それはイーミンが外に出てみたいっていうから、廃止したんだ。まさか僕を裏切って、兵隊長なんかと逢引きするためなんて知らなかったけど」


 後宮の在り方すら変えてしまうような規則の廃止は、単にイーミンにねだられただけで、リョウメイは何の危機感も、何の目的も持っていなかった。

 その他の規則の廃止も、イーミンや左大臣の言われるままに認めたようだ。


「皇帝の仕事って大変だよ。難しい話ばかり聞かなきゃいけないし、重い印を決められた場所に綺麗に捺さなきゃいけないし」

 これでは決裁した書類の内容もろくに理解していないのだろう。


「皇帝は神様に祭祀を行う義務があるのよ。神様にこの国を治めるように天命を受けたんだから、ちゃんと感謝して報告しないとだめよ」

「カズハもセイランと同じこと言うんだな。左大臣は神様なんて嘘だから、全部やめてもいいって言ってたよ」


「それこそ嘘よ。皇帝がちゃんと祭祀を行わないと神様がお怒りになるの。秋の実りが無くなったら困るでしょ?」

「僕は祭祀をやってなかったけど、去年は大豊作だったじゃないか」

 リョウメイの言葉に私は愕然とするしかなかった。


「……私が、後宮の外に出ていたこと、知ってる?」

「え? 知らないよ。秋はずっと機嫌が悪かったから宴に出てこなかったんだろ? イーミンがそう言ってた」


「待って……初代青月妃の扇の持ち出しを許可したでしょう? 何の為だと思ってたの?」

「扇? ああ、イーミンが欲しいっていうからいいよって言ったんだけど、何か意味があったの?」


 楽しかったけれど苦しいことも多かった旅のことをリョウメイは知らなかった。私が必死になってリョウメイを擁護した嘘も、皇帝の悪い噂を払拭しようと奇跡を起こして頑張ったことも、知られていない。


 馬鹿馬鹿しくて笑いが零れる。私が皇帝になったリョウメイの為にと思ってしたことは、全部無駄だった。この国を助けたことも、全部無駄。


 離れていても思いは通じ合っているなんて、綺麗な物語の中にしかない嘘だった。離れていた間にリョウメイも私も、違うものを見て、違うことを考えていた。


 料理を食べつくしてもリョウメイは眠る気配がない。薬の量が足りなかったのかと、私の心は焦る。


「そろそろ寝室へ行こうか」

 お酒の臭いがするリョウメイに囁かれて体が強張る。壁際に控えているユーエンに助けを求めようと思っても、緊張で声が出ない。


 戸惑う私の手を強く引いてリョウメイが自分で寝室の扉を開けた。白の絹の寝具は真新しい光沢を見せている。


 被り布を深くしたユーエンの手で、静かに扉が閉められた。

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