第3話 青月妃の称号
硬そうな木で出来た焦げ茶色の扉が音を立てて開くと、内部は落ち着いたベージュ色の壁に木の床。濃い飴色の棚には巻物や本が並べられ、中央の大きな机の奥に三十歳前半の美形が座っている。
机の前には、先回りしたらしいレイシンが背筋を伸ばして立っていた。
「……成程。彼女の保護を私に求める、ということですか」
白緑色の長い髪を背の半ばでゆったりと結び、金茶色の瞳をした男が椅子から立ち上がって近づいてきた。渋い灰水色に紺色で縁取られた深衣が、涼やかな美しい顔を優雅に引き立てている。
「私の保護?」
唐突な話題に目を瞬かせるしかない。一体何の話をしていたのだろうか。
「私は宰相のセイランと申します。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
レイシンと同じくらいの背丈を少しかがめて微笑む姿は美しくて柔らかい。つられるように微笑んでしまう。
「家名は
この世界に来て、何度も繰り返した答えを返す。この国では家名があることは珍しくて、皆が驚く。平民で家名を持つのは古くから続く家だけらしい。家名を名乗ることで一族が背後にいると警戒されて、多少は身の安全を確保できる。
「カズハ様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
宰相も一瞬驚いたらしくて言葉に詰まった。家名を持つ者には特に敬意が払われる。この世界では何の身分保証もない私の唯一といってもいい武器。
「わかりました。カズハ様の保護を私が請け負いましょう。貴方は私が先に手を回していたと報告して下さい」
「はい。よろしくお願いします」
兵隊長は|拱手(こうしゅ)の礼をして、扉から出て行った。
「あの……どういうことでしょうか? 私の保護とは?」
「詳細を知ることは、カズハ様にとって危険ですので説明できませんが、これまで少々危険な御立場にいたということです。リョウメイ様が〝華蝶の簪〟を贈られていたことが幸いしました」
宰相に言われて、誰かが私を殺すようにと兵隊長に指示していたことを思い出した。
椅子に座るように勧められて、机を挟んで宰相と向き合う。この世界の家具は男性に合わせて作られているので、腰をかけると足が浮く。子供に見えないように膝を合わせて力を込める。
「一箇月後に戴冠式が行われ、リョウメイ様は皇帝に即位されます」
宰相の落ち着いた声は心地いい。この世界の一年は三百六十日、一箇月は三十日で分かりやすい。
「カズハ様、貴族に知り合いはおられますか?」
「いません」
村を領地にしている貴族は、私が過ごした三年間一度も視察に訪れなかった。
「それは困りましたね……」
「何か問題があるんですか?」
「一般国民が何の後ろ盾もなく皇帝の後宮に入ることは、滅多にないことです。そうですね……カズハ様がよろしければ私が後見人になりましょう。私には妻がおりませんので養女にすることは難しいですが、可能な限り支援致します」
この国では単身者が養子や養女を取ることを禁止していると宰相が説明する。単身者は伴侶を持つのが先だというのが理由。
「後宮入りの支度は通常、女性の家が半分を負担しますが、今回は私が用意致しますので安心してください」
宰相の言葉にお礼を言う。兵隊長にお金は不要と言われて、リョウメイと二人で貯めたお金は村長夫妻に渡してしまった。私の手元には少額しか残していない。
何だろう。物凄く親切な人かもしれない。柔らかな微笑みは、どこまでも優しい。
宰相セイランを後見人として認めるという簡単な書類に署名をする。筆を持ったのは何年ぶりだろう。筆文字は全然得意じゃなくても、ぎりぎり見た目良く書けた。
「これが異世界の文字ですか。初めて見ました」
驚く宰相の声で調子づいた私は、漢字の意味を一つずつ説明していく。一つの文字が複数の意味を持つこともあると言うと、便利な文字だと感心していた。
「生活用品等、すぐに手配致します」
侍女も妃の実家が用意するのが普通だと聞いて、申し訳なさしか感じない。
「あの……私、何かできることはありませんか?」
〝華蝶の簪〟があれば、何も問題なく迎え入れられると思い込んでいた自分が恥ずかしくなってきた。
「妃の後見人というのは、それなりに利益がありますので気になさらないで下さい。しっかり利用させていただきますから」
皇帝への発言力や影響力が上がり、貴族や商人たちからの貢物が増えるのだと笑うので、ほっとする。
「カズハ様の称号は
「え?」
私の称号は青月妃ではないのだろうか。宰相は少し気まずい表情を浮かべ、言いにくいことですがと言葉を続けた。
「青月妃には、すでに左大臣の娘が内定しております」
「妃が二人になるのですか?」
「いえ、五名です」
続いた説明は衝撃だった。皇帝は即位と同時に五名の妃と婚姻を結ぶ。妃は青月妃、
頭が真っ白になるというのは、こういうことなのだろう。
「……リョウメイは……奥さんになるのは私だけって……だから〝華蝶の簪〟を私に……」
思わず口から零れた言葉を聞いて、宰相が目を伏せる。
「平民から皇帝になるには、強い力を持つ貴族の後ろ盾がどうしても必要です。貴女には酷な話ですが、正妻――皇后の座は諦めて頂くしかありません。それがリョウメイ様の為です。どうかご理解下さい」
世界が回るような酷い眩暈がした。椅子から崩れ落ちそうになった所を、案内をしてくれた女性が抱き止めて支えてくれた。
女性の腕の中、ふわりと渋みのある柑橘系の香りを微かに感じる。薄荷の香りを好んで使っていたリョウメイを思い出して涙が零れた。
泣いても仕方ないとわかっていても涙が止まらない。平民と皇帝、階級社会の残酷さが痛い程に心に刺さる。一人の夫に一人の妻、それが当たり前だと信じて疑わなかった私には、一夫多妻なんて理解できない。皇帝になるリョウメイは、自分の意思で結婚相手を選ぶことも認められないのか。
「長旅でお疲れでしょう。
目を逸らしたままの宰相が、静かな声で私に告げた。
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