第42話 彼女は宙を見ていた

 久しぶりに聞いた静かな部屋の音が虚しく反響していた。


 完全に油断していた。もう大丈夫だろうと、安心しきっていたのだ。

 彼女は僕が寝ている間に玄関のドアの鍵を開け、外に出て行ってしまったに違いない。

 どうして安心できていたのだろう。今まで僕が寝ている間に彼女が部屋から出なかったことが奇跡だったというのに。


 どうすればいい?どこにいる?焦っているだけで僕は一歩も動き出せていなかった。

 まだ遠くに行ってないなら近くにいるかもしれない。

 僕は部屋の鍵を取り、脱ぎっぱなしにしてあったスリッパを履いて玄関から外に出た。


 アパートを出てから100メートル程歩いたが、未だ彼女は見つからなかった。厄介な事になってきた。


 月のない夜だった。

 街灯が点々とあるにしろ、車や人通りも少なく暗い道路に違いはなかった。この一帯は住宅地だ。夜は賑やかさとは程遠い。


 先程の真虎さんの事件の話もあってか、いつもは感じない恐怖に駆られた。得体の知れない何かが潜む恐怖。僅かな音でさえ反応して振り返る。依然七瀬は見つからず、次第に彼女が無事か不安になってきた。


 今まで知っている広い道を一通り歩いていたが、全くそれらしき人影はなかった。いちいち暗闇に現れる通行人に注目しながら歩いていると気が気じゃない。いつ誰かに殺されてもおかしくないくらいの気分だった。


 それにしても、全くの目星がつかないまま捜索しているが、本当にこんなので見つかるのだろうか。僕は立ち止まり、今まで歩いて来た道を振り返る。気がつくと、随分遠くまで来ていた。一度しか行ったことがない古いレンタルビデオ屋の明かりが見えた。


 このまま見つからないまま夜が明けてしまったら、もう一生見つからないような気がした。頭に浮かぶのは無残にも切り刻まれた七瀬の姿。

 身震いがした。最悪の結果だけは免れたい。

 七瀬のことだ、きっとあちこちに気が散ってそこまで遠くまでは行けないはずだ。

 探すならアパートから狭い範囲内であると判断した。

 見過ごしていただけで、案外近くにいたのかもしれない。

 となると、まだ通っていない道……


 僕は意を決して、さらに暗い路地の方へと進むことにした。正直狭い道はほとんど知らないので携帯電話の地図頼りだ。迷ったら最後、一晩中彷徨うことになりそうだ。


 背の低いアパートや民家に挟まれた路地は車が一台通れるかという狭さで、車が来た時は轢かれそうで怖かった。何より僕自身が不審者と思われ通報されないかが一番心配だったが。

 広い道から離れるほど街灯は減っていき、立っている間隔が広がっていく。街灯を目印に歩いていると自分の歩くスピードが急に遅くなったのかと勘違いしてしまう。


 何度目かの路地の角を曲がると、突然開けた直線の道に出た。道幅も二車線で広々とした歩道付きだ。どうやら近くに大きな施設があるらしい。地図で調べると留置所のようだった。近所にそんな所があったんだ。


 道の片側には街灯が等間隔で立っており、僕の方から2番目の街灯の下に人影が見えた。この時間に不自然なことにぼうっと突っ立ていた。


 まさか……!僕は恐る恐る歩みを進め人影に近づく。

 そして、明かりに照らされた顔がはっきり見えた時、確信した。

 七瀬麻里だった。


 彼女はひたすら上を見ていた。僕も目線の先を追うと、星が瞬く夜空が見えた。

 彼女は宙を見ていた。


 街灯から照らされて佇む彼女は、あの日UFOに拐われた時の姿のようだった。

 今にも宇宙に吸い込まれそうな、儚い幻を見ているようだった。

 僕は再び消えてしまわないように、彼女の手を掴んだ。


「よかった……無事で……探したんだぞ」

 僕は安堵とともに大きく息をついた。

「計画は予定通り実行されるんですね……」

 彼女は上を見ながら、誰かに話しかけるように話した。

「また台本の台詞か。僕はもう知ってるんだぞ、『異邦人』の台本だろ?秋良から台本が届いたら読み合わせでもしてやるさ」

 彼女は構わず続ける。

「3日後ですか……分かっています」

「演技してるって丸わかりだからな。演技力磨いた方がいいぞ。まったく……ややこしいことしやがって……」


 ふと、手に妙な感触があることに気付いた。ヌメリと生温かい液体が手と手の間に絡み付いている。


 僕はゆっくりと七瀬の手を離し、自分の手わ街灯の光に当てた。


 僕の手は真っ赤な血で濡れていた。


 鼻をつく鉄の臭いが血であることを表していた。指先はすでに乾き始め、ベタついていた。


 すぐさま七瀬の右手首を掴み、明かりに照らす。

 七瀬の手もまた赤い血で染まっていた。


「怪我してないか?痛くないか?体に異変はないか?」

 焦って矢継ぎ早に問い詰める。

 だが先程から彼女はどこか痛そうな素振りも見せていない。もちろん、僕も怪我をしていない。

 ……では、この血はどこから?


 彼女の足元に何か黒い物影がある事に気づいた。僕と彼女を挟んで向こう側に転がっている。

 暗くてよく見えないので、僕は携帯電話のライトを当てながら近づいた。


 光が照らし出したのは人間だった。

 倒れた人間の頭部がライトに照らされて白く発光していた。


「うわああああああああああ!」


 僕の手から携帯電話が転げ落ち、車道に放り出された。


 生きているのか、死んでいるのか分からない。分からないが、相手が突っ伏している状態ならこちらが優勢のはずだ。万が一動き出しても、上から押さえ込めば……


 僕はヨロヨロと車道に歩き携帯電話を回収した。車は一切来る気配がなかった。

 ライトを再び倒れている人間を照らした。

 頭部を照らすと顔の様子を観察する。短髪の男性らしい。意識はないようだ、照らしても眩しい顔にもならない。顔色は真っ白で血の気がない。


「あ……!」

 男性の下には赤い血溜まりができていた。血溜まりの中には内臓のようなものが浸されていた。

 彼の腸は引きずり出されていた。




 すでに足が動いていた。

 僕は七瀬の手を引いて、走り出していた。一心不乱にその場から離れることだけを考えていた。

 道などわからない。ただ目の前の道を突き進む。

 七瀬の息が上がる声が聞こえたが、構わず走り続けた。きっと僕もとっくに息が上がっていただろう。

 足に限界が来たようで、僕はよろめき立ち止まった。


 いつの間にか見知った広い道路に出ていた。

 息が苦しく、僕は膝をついて四つん這いになって必死に酸素を求めた。


 家に帰らなければ……誰もいない所に早く……

 血でベタついた七瀬の手を再び掴み、僕は歩き出した。


 運良く誰にもすれ違わずに僕たちは家に辿り着いた。

 部屋の電気を点け、七瀬の姿を確認する。

「大丈夫か?怪我はないか?」

「うん大丈夫」

 七瀬はそう言うが、部屋の電気で明らかになった七瀬の姿見は別の意味で全然大丈夫ではなかった。


 彼女の着ていたTシャツは首から下まで血がベッタリと付き、両手は肘まで血の跡があった。両足のスニーカーも、血溜まりを踏んだせいか血が染み込んでいた。


 僕は彼女のあまりにも壮絶な姿に息を飲んだ。こんな姿一目誰かに見られたら通報間違いなしだ。


 こんなの誰が見ても殺人者じゃないか……


 ……信じたくない。

 彼女があの男性を殺害したという証拠はあるか?たまたま男性の血を浴びただけかもしれない。別の犯人にやられた男性を介抱しようとして血がついたかもしれない。そもそも男性はまだ死んでないかもしれない。付いたのが彼の血だともわからない。


 あらゆる憶測が僕の頭を巡っていた。

 だが、どれも真実から遠ざかっているのを感じた。


 僕はかつて彼女の中に「七瀬麻里」ではない何者かの存在を見たことがある。

 クラスメイトの七瀬麻里でも、「異邦人」で宇宙人役を演じる七瀬麻里でもない。もはや人間とは思えない存在だった。


 七瀬が僕の部屋にやってきた次の日の朝。彼女は一度だけ、感情を失った目をして、瞬間移動をやって見せた。その直後僕は彼女から殺意のようなものを感じた。いや殺意はないのかもしれない、それに感情などないから。僕が本能的に感じ取った生命の危機だと思う。


 まさか、彼女に潜むそれがあの男性を殺害したとしたら……理屈は通る。

 気のせいじゃなかった、ずっと思い出そうとしていなかっただけだ。


 僕は彼女の両手を掴んだ。僕と彼女の手はまだ同じくらい血の跡が残っていた。

「お前はやってないんだよな、やったのはお前の中の宇宙人だもんな」

 両手を掴みながら自分を諭すように僕は繰り返した。

「やったのお前じゃない。宇宙人だ」

 彼女は何も答えない。

「血を洗い流そう。早く罪を流そう」

 僕はそう言って七瀬の手を脱衣所の洗面台に引っ張って、一方的に洗い始めた。

「僕らは悪くない、僕らは悪くない」

 呪文のように僕は繰り返し唱えながら、流れ落ちる水の中で必死に七瀬の両手を擦り合わせる。


 何度も何度も、すがるように願うように。


 だけど血の跡はいつまでも落ちなくて……

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