第16話 附け打ち、南座顔見世歌舞伎興行に参加
( 1 )
吉例顔見世歌舞伎興行
今年のテーマ「輝け、未来にかぶく」
今年の顔見世テーマ音楽 「都大路」(いよかん 作詞作曲)
昼の部(午前10時開場・10時半開演)
1 菅原伝授手習鑑・車引 (10時半~11時)
( 幕間 20分 )
2 新皿屋敷月雨暈 魚屋宗五郎 (11時20分~12時40分)
( 幕間 30分 )
3 仮名手本忠臣蔵 七段目 一力茶屋 (1時10分~2時50分)
( 幕間 20分 )
4 義経千本桜 道行 初音旅 (3時10分~3時45分)
夜の部(午後3時45分開場・午後4時15分開演 )
1 身替座禅 (午後4時15分~5時)
( 幕間 20分 )
2 伊賀越道中双六 沼津 (5時20分~6時50分)
( 幕間 30分 )
3 鳥辺山心中 (7時20分~8時25分)
( 幕間 20分 )
4 鳴神 ( 8時45分~9時50分 )
(※但し、偶数日のみ上演)
4 勧進帳 (8時45分~9時55分)
(※但し、奇数日のみ上演)
(※但し、千秋楽12月26日は知恩院野外歌舞伎にて上演)
協賛 「京都活性化プロジェクト委員会」
後援 京都府・京都市・京都商工会議所
京都市観光協会・祇園商店街
財団法人「関西大向こうの会(都鳥)」
高蔦屋百貨店・京都店
主な配役
( 昼の部 )
1 車引 松王丸 有田鯨蔵(有田屋)
梅王丸 三河犬之助(裏鷲屋)
2 魚屋宗五郎 宗五郎 尾川菊七(音田屋)
女房おはま 三河団次郎(高蔦屋)
3 一力茶屋 大星由良助 片山三左衛門(竹嶋屋)
遊女おかる 白梅泰三(富士屋)
4 義経千本桜 道行 初音旅
佐藤四郎兵衛忠信実は、源九郎狐 中林半九郎(中林屋)
静御前 中林吉之助(中林屋)
( 夜の部 )
1 身替座禅 山蔭右京 尾川菊七(音田屋)
奥方玉の井 三河犬之助(裏鷲屋)
2 沼津 呉服屋十兵衛 片山三左衛門(竹嶋屋)
雲助平作 片山冨蔵(竹嶋屋)
3 鳥辺山心中 菊池半九郎 中林半九郎(中林屋)
お染 白梅泰三(富士屋)
4 鳴神 鳴神上人 有田鯨蔵(有田屋)
雲の絶間姫 中林吉之助(中林屋)
4 勧進帳 弁慶 片山三左衛門(竹嶋屋)
富樫 堺田宗十郎(山鴫屋やましぎや)
知恩院野外歌舞伎(12月26日)
(知恩院御影堂・再建奉納歌舞伎)
(主催 都新聞社 後援 JR西日本・京都旅行 協力 竹松株式会社)
演目
1 女殺し油地獄 河内屋与兵衛 片山三左衛門(竹嶋屋)
お吉 尾川 向日葵(音田屋)
2 勧進帳 弁慶 片山三左衛門(竹嶋屋)
富樫 堺田宗十郎(山鴫屋)
今回の顔見世で、一番の注目は、夜の部のキリ狂言(最後の演目)の事だった。
通常、同じ演目で、千秋楽まで続けられるが今回は違った。
上演する日にちの偶数日と奇数日で演目は代わるのだった。
偶数日は、有田鯨蔵の鳴神、奇数日は、片山三左衛門の勧進帳・弁慶。
何で、こんなややこしい事になったかと云うと、奥役(歌舞伎プロデューサー)が、三左衛門に勧進帳の演目の依頼に行った時だった。
「やってもええけど、わしもう七十歳やでえ。毎日やれる自信ないわあ」
と云い出した。
この情報は、丸太さんから仕入れたものである。
丸太さんの奥さんは、三左衛門さんの妹さんなので、直で入って来る。
僕ら附け打ち仲間が知るのは、同時に祇園町でも知れ渡る事だった。
それは、三左衛門さんも百も承知の上だろう。
つまり、
「私、竹嶋屋の勧進帳は、今年限りで、もうしませんよ」と云う意味あいも込めての物だったのだろう。
それで苦肉の策として、奥役は、
「じゃあ、二日に一回はどうですか」と打診した。
「それやったらやってもええ」
次に、奇数日にするか、偶数日にするかでもめた。
「そらあ、奇数日にする」とこだわった。
三左衛門は、十五代目。実父は十三代目なので、竹嶋屋襲名の時も、本来なら十四代目なのだが、竹嶋屋は、代々偶数の代の役者は災禍に襲われる。
直近の十二代目は、戦後食糧難の時に、食べ物の事で、住み込みの狂言作者に惨殺されると云う痛ましい事件があった。
片山三太郎から、三左衛門襲名の時は、竹松の永川会長が、奇策ですでに亡くなった役者に十四代目を寄贈して、無事に十五代目を襲名させた。
しかし、そうなると十二月二十五日、二十六日と連投になる。
知恩院奉納歌舞伎は、前々から決まっていたので、これは動かせない。
歌舞伎ファンなら両方見たいだろう。
そこで竹松は、顔見世で初の「幕見券」を売り出す事にした。
但し、夜の部の「鳴神」と「勧進帳」のみ。
知恩院野外歌舞伎は、パック団体旅行関係が多かった。
知恩院野外歌舞伎の一本目の「女殺し油の地獄」の演目も実は、数年前に、
「この役は、有田屋の鯨蔵さんに譲ります。もう私はやりません」と宣言したものだった。
大阪松竹座で、鯨蔵がやる事が決まり、連日舞台稽古で、三左衛門さんはつきっきりで教えた。
本来歌舞伎は、演出家はいない。
だから異例中の異例だった。
しかし、幕を開けて五日後、鯨蔵は楽屋の風呂の中で、シャワーを浴びようとして、水が出た事に腹を立てた。
思いっきり、風呂のドアを蹴ったら、ドアの窓ガラスが割れて、足に突き刺さった。
すぐに救急車で運ばれた。
それを聞いた三左衛門さんは、激怒した。
「役者たるものが、楽屋で怪我するて何事や」
翌日、鯨蔵の母親の久子が菓子折りを持って、東京からすぐに飛んで、三左衛門さんの楽屋を訪れたが、それを拒否。
「私は、もう有田屋さんとは共演しません」と断言。
その断絶関係は、今も続いていた。
当時、つけを担当していたのが尾崎さんだった。
「あの時は、大変でしたよ」
いきなりの主役交代。打ち合わせなし。
「しかし、二つの(女殺し油地獄)見れてよかったです」
「やはり違いましたか」
「はい、芝居のテンポ、リズム感が全然違う」
鯨蔵は、東京生まれの東京育ち。だから上方弁があまり得意でない。
どうしても台詞が間延びしてしまう。
さらにイントネーションが所々おかしい。
大阪人は、「大阪弁」を京都人は「京ことば」を誇りに思っていた。
東京のマスコミは、すぐに「京都弁」と云うが、これは大きな間違い。
京都人は、千年のみやこを矜持している。他の地域と同じ「弁」には、こころがざわめく。
しかし、大阪人のように、正面切って抗議はしない。
「お江戸の人は、かしこおすなあ」と云いながら、こころの中で軽蔑している。
江戸の役者の変な抑揚に、腹立たしいものを持っていた。
ツイッター上で、この件が溢れた。
竹松は、鯨蔵の怪我を「外でこけた」と説明したが、ネット社会なので、すぐに嘘がばれた。
中には、どこでどう入手したのか、割れた楽屋風呂ドア窓ガラスの写真、動画まであふれた。
しかし、それが逆に人気、宣伝となり、切符があっと云う間に売り切れた。
三左衛門が、いきなり稽古なしで演じた「女殺し油地獄」は、鯨蔵よりも六分早く終わった。
それだけ、テンポがあったと云う事だ。
「この時は、日頃開演中の芝居は見ない、大道具、小道具、照明さんまでが、舞台袖に駈け付けて、鈴なり状態。おかしかったです」
遠くを見る目つきで尾崎さんは、当時の出来事を語った。
これが、興行の世界のおかしさでもあった。
「自分がもう出たくないので、わざとやったんではないのか」とつぶやくツイッターもあった。
もう一つ特筆すべき事柄は、今年から顔見世のテーマと主題歌を作った事だった。
伝統を現代に生かす
そのコンセプトのもとで決まった。
記念すべき第一回目の主題歌を作ったのが、今、若者に大人気のグループ(いよかん)だった。
彼ら二人は、三河犬之助のスペシャル歌舞伎「ミヤコカケル」や「スリーピース」のテーマ曲も手掛けた。
さらに、毎年夏に京都で大掛かりなライブを行っていた。
昨年は仁和寺、今年は平安神宮で行った。
その関係で、主題歌を託された。
今年の二月に行われた歌舞伎マラソンの応援ソング「明日、きみは風になる」も手掛けた。
このCDが売れない時代に、発売と共に、五百万部売り上げた。
附け打ち集団は、十二月は京都に集合していた。
十二月の歌舞伎公演は、東京歌舞伎座と京都南座だけだった。
東京歌舞伎座には、専属の附け打ちがいたので、原則僕らPAG(パタパタ・アート・グループ)は、関与しない。
但し、これも例外があって、役者がたまに、僕ら附け打ちを指名する事がある。
その時は、東京歌舞伎座へ行く。
そのため、附け打ち集団は、京都に集結していた。
( 2 )
顔見世が始まる前に、皆で知恩院の会場を下見に行った。
南座の前の四条通りを東の八坂神社目指して歩く。
その左側の道を歩くと、知恩院にぬける道が見える。
知恩院の三門が眼前に広がる。
南座から徒歩で、十分くらいで着く。
三門。
知恩院では「山門」ではなくて、「三門」と呼ぶ。
「空門」「無相門」「無願門」である。
京都三大門(南禅寺、仁和寺、知恩院)の一つでもある。
南禅寺の山門は、通常公開しているが、知恩院は春と秋の特別公開のみである。
高さ24m、横幅50メートル。
真ん中に掲げられている扁額「華頂山」の大きさは、下から見上げると小さく見えるが、畳三畳分もある。
建立したのは、徳川二代目将軍、徳川秀忠である。
もう四百年もの歴史がある。
京都は、東京と違って、歴史の歳月が千年以上ある。
だから、四百年は、新しい部類なのだ。
豊臣秀吉、その息子の秀頼、徳川家康とその息子の秀忠。この四人の武将に共通していたのが、多額のお金を投資して、京都の町、社寺の復興に費やした事である。
応仁の乱で焼失した寺社仏閣を数多く再建した。
三門を抜けると、すぐ目の前にそそり立つ壁のような階段。
天に向かうかのように、ずっと続く。
「男坂ですね」
尾崎さんがつぶやいた。
「これ、若い人でも苦しいです。お年寄りの参拝は無理でしょう」
「ご心配なく若人よ。俺たちオジサンは、あっちの女坂を利用します」
堀川さんが、右手を指さした。
階段ではなく、緩やかな勾配の道が続く。
車もそこを通る。
知恩院の「女坂」である。
東京、JR御茶ノ水駅、駿河台にも「男坂」「女坂」がある。
両側には、明治大学のキャンパスが広がる。
こちらは、「男坂」73段。「女坂」も階段で、途中踊り場が三つあった。
一方の知恩院の「女坂」は、階段ではなくてスロープだった。
今で云う所の、バリアフリーである。
だから、こちらの方が、人に優しい。
京都の「男坂」の階段は、345段もある。その落差が激しいのが、京都だった。
東京のは、あまり差がない。
三門から見ると、天空へと続きそうな階段が、南座の三階席を思わせた。
南座は、平成三年、三十年と二回改装工事しているが、建て替えでなくて、改装なので、あの急こう配の三階席の傾斜角度はそのままである。
三等席の切符を買って、三階席へ行こうとしたが、三階の入り口で、その急こう配に驚き、さらに、
「芝居見てたら、前に転がり落ちそうになる」
と云って、切符売り場に、戻って、一階席に買い替えるお客さんもいると聞いた事がある。
三門の下で、京都タツミ舞台の棟梁沢田三治さんと、南座照明課長の笠置さんと会った。
「下見ですか」
「そうや」
「大道具さんも、照明さんも大変ですねえ」
「もう、しっちゃかめっちゃかです」
と笠置さんは云うと一人大きく笑った。
「まだそのギャグ引っ張るか」
二人は、元附け打ちの丸太さんが、南座で劇場結婚式を挙げた時、余興で漫才を披露した。
その時のギャグが「しっちゃかめつちゃか」だった。
笠置さんの中では「しっちゃかめっちゃか」が今でも続いていた。
俗に云う、(マイブーム)なのだ。
「三左衛門さんも、今回の野外歌舞伎に(女殺し油地獄)を演目に上げるてやりますねえ」
僕は三治さんに云った。
「まあ、京都人のイケズや」
と云うなり三治さんは、大きく笑った。
「鯨蔵とこの笠置は、よう似とる」
三治さんは、じろっと笠置さんを睨む。
鯨蔵とは、東京の歌舞伎役者、有田屋、有田鯨蔵の事である。
「何がですか。顔ですか」
少しにやけながら、笠置さんが聞いて来た。
「アホぬかせ。金、銭に細かいとこじゃ。鯨蔵はこまめにブログ更新して毎月三百万円稼いどる」
「そんなに稼いでいるんですか」
僕は驚いた。
「しやから、稽古の時も舞台で片手にスマホ持ったままやろう」
確かにそうだった。
鯨蔵座頭、主演の歌舞伎公演の時は、ずっとスマホを稽古の時片時も話さない。
花道の揚げ幕の係の話では、花道に出る間際までスマホでブログを更新してるらしい。
笠置は、竹松からの給料振り込みをそのまま、妻に渡さず、そこから、毎月二十万円(一説には十万円。諸説あり)だけ決まった額を妻の口座に振り込んでいた。
すでに笠置の預貯金は、五千万円を越えていた。
「二人とも、あの手この手で、仰山、ため込んどる」
「そんなにありませんよ」
と云う笠置さんの口元が緩むのをしっかりと、僕は見届けた。
笠置は、休日に照明のアルバイトもしていた。
竹松の正社員は、社内就業規則で社員のアルバイトを禁止していた。
鯨蔵は、昨年子宮がんで、愛妻早苗さんを失った。
それでも毎日、「早苗ネタ」でブログのアクセス数を確保して毎月二千万円稼いでいた。(金額、諸説あり)
一人息子「勇太」ネタの二本柱が稼いでいる。
毎日百回は更新しているので、段々とネタが尽きると思われた。
ところが、ここに来て、「早苗思い出持ち物シリーズ」と云う美味しい宝物をひねり出した。
「早苗が好きだったスイーツ」に始まり、「早苗のハンカチ」「早苗の靴下」「ガウン」「帽子」「サングラス」「ノート」「スマホ」「鉛筆」「消しゴム」「早苗の好きな絵本」「絵画」「文庫本」「映画」「コミック」「プランター」「野菜」「パン」「蛍光灯」「敷物」「料理」「パッチワーク」「スポーツ」「トレーニングウエア」「雪駄」「草履」「靴」「ブーツ」「下駄」「お寺」「神社」「お庭」「ドライフラワー」「化粧水」「お財布」「小銭入れ」
等と、永久に続けられるアイテムを生み出した。
本当にそうだったのか、誰もそんな事を追及しないので、楽だった。
アップされた商品、食べ物は爆発的ヒットとなり、今ではメーカーが逆に取り上げて欲しいと売り込みをかけていた。
さらに、ブログのアクセスを上げたのが、先月から放送された、CMだった。
生前の早苗さんと、編集技術で共演していた。
コーヒーミルク「天使のコク」は、これも爆発的ヒットとなった。
既に亡くなった人をCMに起用したのは、業界初だった。
これがきっかけで、テレビCMには、最近亡くなった人が出るCMが氾濫していた。
ただ、唯一誤算だったのが、竹松で映画化された、
「愛のあふれた涙~早苗、その愛~」だった。
製作費、宣伝費十億円かけて全国封切りされたが、興行収入三百万円と大惨敗。
ネット、ブログが大人気でも、映画は入らなかった。
その原因は、鯨蔵にもあった。
と云うのも、ブログで映画の結末を書いてしまったのだ。
これは「禁じ手」だった。
鯨蔵の狙いは、それも織り込み済みで、話題となって、映画も入ると勘違いした。
ネットで炎上して、映画も不入りだった。
次は、「早苗の日記」「早苗の詩集」「早苗の絵本」を出す予定。
誰もそれが本人の書いた、描いたものか検証しないのが助かる。
「早苗打ち出の小槌」はまだまだ続く。
鯨蔵の先代岩寿郎、つまり実父が、岩寿郎襲名で二十億円もの借金を作った。
それを、鯨蔵は、一時五本ものCMに出演して、五年で返済した。
世間から見ると、歌舞伎界は華やかな世界に見えるが、内情は、火の車どころか、炎の車大炎上状態だった。
二十億円の借金を背負った人間だけがわかる、お金の有難さだった。
歌舞伎「封印切」で八衛門が、
「金のないのは、首がないのと同じ事や」の台詞がある。
その真意をわかっているのは、鯨蔵だけだった。
次は、今度は自分が「岩寿郎」を襲名する。
同じ轍は踏まない。
鯨蔵は、襲名までに二十億円稼ぐ気合をこころの中に秘めていた。
世間では、いつまで「早苗、早苗」と云うのか、一部で非難めいた声が出ていた。
それは承知済みだった。
二十億円稼ぐと決めたからには、毎日百回は自分のブログを更新する決意だ。
世界からアクセスしてくれる。
そのおかげで、ブログで毎月稼げるのだ。
「こっから見たら、南座の三階席が迫っとる」
沢田さんも同じ思いだったらしい。
「あの階段を客席に利用するんですか」
尾崎さんが尋ねた。
「それが一番収容出来る。けど一つだけ問題がある」
「何ですか」
「あの階段を客席にすると、花道のではけがない」
ではけとは、花道からの出と入りである。
確かに花道の、鳥屋口、揚げ幕を作ろうとしたら、階段をぶち壊す必要があった。
それが一番問題だった。
それ以外は、三門の下は、平らなコンクリートでしかも段差があり、下に降りる階段もある。
まさに、舞台向きである。
野外歌舞伎を行うには、様々な仮説施設を作らなければならない。
お客様のトイレ、切符売り場、楽屋、裏方の控室、ロビー、売店、照明に関してもセンタースポット、フロント、シーリングライトなどのライトを吊るイントレを立てないといけない。さらに仮設電源車の確保。
雨天時のお客様への雨がっぱ、ビニールシートの手配。
荒天時の使い捨てカイロ、座布団の確保。
花道と鳥屋口(花道の奥の小部屋)。
楽屋から、揚げ幕までの導線確保。
電源車のスペースとライン引き
テレビ中継用ケーブル確保。
たった、一日、いや数時間だけの野外歌舞伎。
はっきり云って、赤字である。
では、何故そんなにまでして、知恩院野外歌舞伎なのだろうか。
僕は、この下見の時、この素朴な疑問をぶつけた。
でも誰も明確な答えを出してくれなかった。
( 3 )
稽古の後、僕は新人の阿藤くんと二人で、祇園バー「マルサン」に顔を出した。
「今晩は」
「おやおや、今夜は若手だけですか」
丸太さんは、僕らの顔を見て云った。
まだ誰もいなかった。
妻の峰子さんもいなくて、丸太さん一人だった。
僕はハイボール、阿藤君は水割りを頼んだ。
「野外歌舞伎、大変らしいなあ」
丸太さんが先にこの話題を振ってくれた。
「一日だけでも、手間暇は一か月公演と同じですからね」
「しかし、竹松も思い切った事やるなあ。顔見世の千秋楽に、知恩院の野外歌舞伎をやるてなあ」
丸太さんも僕らと同じ思いだった。
「丸太さん、何で知恩院野外歌舞伎なんですか」
「東山君、ほんまに知らんのか」
「知りません」
「あの野外歌舞伎の狂言(演目)、わかるよねえ」
丸太さんの云っていたのは「女殺し油地獄」の事だ。
三左衛門は、鯨蔵に自分の芸を全て教えて、譲る気だった。
しかし、公演が始まって間もなく、楽屋の風呂で水のシャワーが出た事に腹を立てて、ドアを蹴ったら、ガラスが足に突き刺さり、鯨蔵は出れなくなり、三左衛門が再び出た。
それ以来三左衛門と鯨蔵との不仲は続いていた。
「あれ、義兄さんのイケズやな」
「やっぱりイケズですか」
丸太さんも、三治さんと同じ事を口にした。
「そうや。考えてもみいな。わざわざ、あの狂言(演目)持って来るのは、鯨蔵への当てつけや」
「でも、野外歌舞伎でしなくても、劇場でやればいいはずでしょう」
「いや、それは竹松の奥役(歌舞伎プロデューサー)は、絶対にさせへんやろ」
今回の野外歌舞伎は、厳密には竹松が主催ではない。協力である。
主催は、都新聞社 後援 JR西日本 京都旅行である。
「それと、もう一つあるんやでえ」
「何ですか」
この時、玄関戸が開いて、人が入って来た。
お客さんではなくて、峰子さんだった。
「おこしやす」
「お邪魔します」
峰子さんは、僕のような常連さんには、「おこしやす」と云ってくれる。
そして、一見さん(初めての客)には、「おいでやす」と云う。
こう云うきめ細かな対応はさすがに京都で、東京にはない。
「今日は、うるさいおじさんは、いてひんのやねえ」
峰子さんも同じような事を云った。
「はい、若人(わこうど)の集まりです」
「若人って何ですか」
阿藤君が不思議そうに尋ねた。
「そうかあ。阿藤君には(若人)通じないのか」
僕はまじまじと阿藤くんを凝視した。
「そらあ、東山さん、古いわあ」
「若人は、若者って意味。で、丸太さんさっきの話、野外歌舞伎やる、もう一つの意味教えて下さい」
「それは、峰子さんから云うてもらおか」
丸太さんは、今までの経過を話した。
「それは、ほんまかどうか知りまへんええ」
と前置きして話してくれた。
知恩院の「三門」と三左衛門をかけているから。
三左衛門を略すと「三門」になるからと云う。
「まあ兄さん、昔からお茶目なとこあるから、冗談半分で聞いて下さい」
「そうかあ、三門と三左衛門かあ。今頃気づいた」
いつになく僕が声を張り上げていた。
「義太夫三味線の矢澤竹也師匠が云いそうなギャグですねえ」
「それ、面白いですねえ」
阿藤君も目を輝かせた。
「まさに(歌舞伎、ちょっといい話)ですね」
「京都には、他にも山門ようけあるでえ。南禅寺、仁和寺、妙心寺、大徳寺、東福寺とか」
「じゃあ、三左衛門さん野外歌舞伎公演、やりたい放題ですねえ」
「けど、お兄さん、年やから、もうやらんと思う」
後日、この話を堀川さんにした。
「俺、今思いついた。その三左衛門野外歌舞伎公演の応援ソング」
「何ですか」
「サンモンとガーファンクル」
また堀川さんのオヤジギャグがさく裂した瞬間だった。
知らない人に、説明しておきますが、正確には「サイモンとガーファンクル」です。
二人の来客があった。
関西イヤホンガイド社長の高川きみこと、ドッグヨガ&カフェ・わんわん笑顔のオーナー、犬養雅美さんだった。
雅美さんとは、八月の嵐山こども歌舞伎以来だった。
「あら、東山くん、お久しぶりです」
まず雅美さんが挨拶した。
「ご無沙汰してます」
「今夜はご心配なく。犬は連れて来てません」
「犬の代わりに、私がお供してます」
横からきみこが云った。
「お二人は、知り合いだったんですか」
二人とも、京都で、女社長として活躍している。
京都では、女社長だけの集まりの会「みやこかがやき人」と云う組織があるそうだ。
今日は、その会合が祇園円山公園の中にある長楽館の会議室であったそうだ。
「長楽館に、そんな会議室あったんですか」
「上の階にあるの。もちろん一見さんお断りよ」
「出たあ、京都名物(一見さんお断り)」
「いいでしょう」
「一見さんお断りで商売出来るて、羨ましいなあ」
カウンターの向こう側にいた、丸太さんがつぶやいた。
「でも、丸太さん、ここも実質、(一見さんお断り)の店でしょう」
と僕は云った。
入り口は、普通の町家。
陳列ケース、店の看板、提灯もない。
もちろん、食べログなどネット、旅行ガイド雑誌にも掲載されていない。
東京、大阪のテレビ局から取材の依頼が、年に数度あるが全て断っているそうだ。
それでも、長年経営して来られたのは、祇園町の義理堅いところだ。
三左衛門が、一時期、映画に出ていたせいで、今でも映画関係者が店に寄る。
「確かにそう思います。私も高川さんに連れて貰わなかったら、こんないいお店たどり着けません」
店内をぐるりと眺めながら、雅美さんは云った。
話は、野外歌舞伎になった。
「イヤホンガイド、どうするんですか」
「やろうか、どうか迷っているの」
きみこさんの話によると、やはり一回だけと云うのがネックだった。
解説者への原稿依頼、収録、機材の搬入、アンテナ設置、人件費など、必要経費を出すと、百パーセント貸し出しされても、赤字だそうだ。
「でも、竹松も鯨蔵事務所もやってくれって行って来てるし」
経営者としては、考え込むのはもちろんだろう。
( 4 )
少し、一時間ほど喋ったあと、次の店へ連れて行かされた。
「今度は、どこですか」
「今度のお店も、元役者さんがやってる品格あるお店」
きみこさんが云うと、雅美さんは笑い転げた。
どうやら、その店は、雅美さんは知っているようだった。
祇園甲部歌舞練場の裏手にある、ここも町家だった。
「マルサン」と同じく、店の看板も提灯もなかった。
表札は、「雀」としてあった。
「今晩は」
玄関で靴を脱いで上がる。
正面の小部屋を通り襖を開けると、けたたましい音楽が耳に飛び込んで来た。
掘りごたつ式のカウンターがあり、その奥が小さな舞台となっていた。
障子戸で開閉が出来て、ショーの時だけ開く仕掛けだった。
一人の女性が踊っていた。
僕らは、踊りが終わるまで、部屋の片隅に立っていた。
踊りが終わると拍手した。
「はーい、手を叩くのはそこまで」
踊り手は、急に素に戻って、僕を凝視した。
「あら、東山さんじゃないの」
高川きみこ、犬養雅美よりも僕と阿藤君に視線を走らせた。
「こちらのイケメン男子は」
「附け打ち新人の阿藤くんです」
「阿藤雅之です」
「あら素敵。はいこっち座って、座って」
先にいた客をずらして、僕ら四人が座る空間を作ってくれた。
踊りてのママは、元竹嶋屋の女形歌舞伎役者、片山雀郎。
通称、ジャック。年齢不詳。五十歳過ぎているのは確かだ。
昨年突然、三十年以上務めた、歌舞伎役者をやめた。
祇園で、水商売しているのは、噂で知っていたが、実際に店の中に入ったのは初めてだった。
カウンターの右側の壁には、今年の顔見世と、知恩院野外歌舞伎のポスターが貼ってあった。
「お元気でしたか」
僕はジャックに声をかけた。
「もう死にかけ」
カウンターに名刺を置いてくれた。
「祇園 ( 雀 )すずめ・JACK」
と書かれていた。
「楽屋雀の意味もあるのよ」
楽屋内では、毎日、色々な噂話が行き交うのは知っていた。
その会話は、ピーチクパーチク、雀の鳴き声のように姦しい。
歌舞伎における、三階さんと呼ばれる役者さん中心の噂話大好き集団を、楽屋雀と呼ぶ。
店に来た、客は店名を、「じゃく」「すずめ」と二通りに分かれた。
「訂正するのも邪魔だし、お客様に失礼だから、二つの呼び名にしました。歌舞伎役者も襲名前と後で、二つ名前を持つでしょう」
「それ、いいですね」
きみこらは、何も云わないのに、ボトルが置かれた。
「そちらのお姉さんらは、勝手にやって。私こちらと親密にお話したいから」
「えらい、愛想なし!」
「悪かったわねえ。東山さん、付き合う人選びなさいよ」
きみこと雅美を一瞥しながら、云った。
ジャックは、カウンターに頬杖ついて、僕に近づいた。
「東山君こそ、どうなのよ」
「どうって?ぼちぼちやってますよ」
「あなたも大変ねえ。おっさん連中、まだくたばってないでしょう」
「堀川さん、尾崎さんの事ですか」
「一人やめたでしょう」
「丸太さんですね。ジャックこそどうして歌舞伎役者やめたんですか」
「老後の事考えるとね、そろそろ潮時かなあと」
「老後って、まだ若いのにですか」
「あんた、私の事幾つだと思ってるの」
「四五歳ぐらいですか」
ジャックは、口元を押さえてけたたましく笑った。
本当は五五歳ぐらいだと知っていたが、ここはあえて十歳若く云った。
「あら、嬉しい事云うじゃない。もう抱いてもいいわよ」
「遠慮しときます」
ジャックは、片山富蔵、その息子の走之助についていた。
走之助のよき相談相手でもあった。
ジャックが辞めた時、走之助の落ち込みは尋常ではなくて、舞台で、
「僕も歌舞伎やめようかなあ」
と何度もつぶやいていた。
走之助が小さい時からの、遊び相手でもあった。
走之助が、高校生の時、母親を病気で亡くした。
ジャックは、若い時から料理が得意で、よく嵐山の片山冨蔵の自宅に泊まり込んで、料理を振る舞っていた。
ひとたび、公演が始まると着替えから、食事の手配、台詞覚えの相手、移動時の切符の手配、宿泊先での雑用、全てジャックがやっていた。
最早、家族同然、いや家族以上の絆だった。
「走之助さん、頑張ってますよ」
「お坊ちゃまねえ、頑張りが空回りしてるから心配なの」
僕らが話している所に、ぶらっと走之助が一人で店に入って来た。
「おや、東山さん、きみこさんも」
僕らを見て云った。
きみこらは、気を利かして、奥のボックスに移った。
走之助は僕の隣りに座った。
「お疲れ様です。いよいよ顔見世ですね」
まず僕は、差しさわりのない話題を口にした。
走之助の顔には、疲労の景色が、顔と身体に溢れていた。
「ああ。一年早いなあ」
「お疲れのようですねえ」
「今回も出番は、一回だけだから、他の三左衛門さんのような大幹部の役者さんからしたら、たいした事ないんや。けどなあ」
走之助は、そこで、顔をうつむけた。
今回の顔見世では、「勧進帳」で片岡八郎役を務めていた。
この一本だけである。
僕は黙って、次の言葉を待った。
ジャックも黙って、カウンターに小瓶のビールとグラスを置いた。
僕は、グラスにビールを注いだ。
走之助は、グラスを持たずに、じっと注がれるビールと泡を見つめていた。
「歌舞伎やめたい」
ゆっくりと、お腹の底の溜まりにある、澱(おり)、濁り、沈殿の暗い思いをゆっくりと吐き出した。
「お坊ちゃま、その言葉は禁句ですよ。京都は狭い街。ましてこの祇園界隈なんですから」
ジャックがたしなめるように云った。
「お坊ちゃまは、いつも云ってましたね、その言葉。楽屋でも舞台でも」
「舞台で云ってたのが、親父にばれて、えらく怒られた」
ふっと走之助は、口元に笑みを作った。
「頭取の鴨田さんも云ってたでしょう。口は禍の元だって」
鴨田も、元は竹嶋屋の役者だった。
鴨田の場合は、竹松からのお達しだった。
昨今、歌舞伎公演が増加していたが、「頭取」職を務める人間がいなくなっていた。
鴨田は、役者から頭取への職種変更だった。
「でも今回は本気」
ぎゅっと口をすぼめると、ビールを急いで口に流し込んだ。
「歌舞伎やめてどうするんですか」
「附け打ちをやる」
「うへっ!」
走之助の口から、「附け打ち」の単語が飛び出したので、僕の脳裏は錯乱状態に陥った。
「本気ですか」
「本気だよ」
僕と走之助は、顔を見合わせた。
三左衛門さんが、昔、上方歌舞伎が壊滅状態だった時に、附け打ち志願して、国宝さんに弟子入りした話は、前に聞いた。
しかし、走之助の附け打ち志願は初耳だった。
歴史は繰り返す。
歌舞伎役者の思いも繰り返す。と云う事だろうか。
「三左衛門の旦那も、附け打ちやりたいて昔、云うてました」
ジャックも、知っていた。
「でも時代が違います。今は歌舞伎隆盛時代ですよ」
「だから、附け打ちなんだ」
「お坊ちゃま、幾ら何でもそれは駄目です」
ジャックは、静かに諭した。
「僕もそう思います」
「私達もそう思います!」
ボックス席に移動して静かに飲んでいた、きみこと雅美が同時に立ち上がって叫んだ。
「君たち、有難う。でも決めた事なんだ」
「親父さんは、どう云ってるの」
「いや、それはまだ」
「まず、親父さんに云わないと」
「それはわかってると。私が云う前に、東山くん、国宝さんと親父さんに云ってよ」
「ぼ、ぼ、僕が云うんですか!」
いきなり、火の粉が飛んで来た。
「そんな二つも東山さんにお願いは、駄目。親父さん(當蔵)には、私の方から云ってあげる。国宝さんの方は、お願いするわ」
ジャックが、すぐに折衷案を出してくれたので、負担が半分に減った。
「ねえ東山さん、お願いします」
(何で、僕なんだ!)
(しかも顔見世の稽古の最中に)
と叫びたかった。
「わ、わかりました。でもちょっと時間下さい」
「それはわかってる」
あまりこれ以上長居すると、どんどん走之助が、さらにリクエストして来そうな気がして、僕はもう早々と席を立った。
同じ気配を感じた、きみこさんも雅美さんも同じく席を立った。
祇園花見小路は、夜になっても賑わっていた。
圧倒的に外国人観光客、中国人、韓国人で溢れていた。
またお座敷に急ぐ舞妓を撮ろうと、プロ、アマのカメラマンが、お茶屋の前に陣取っていた。
四条通りに隣接する一力茶屋ののれん前には、五十人ぐらい、餌に群がるゴキブリのように張り付いていた。
「東山君、本気で国宝さんに云うつもりなの」
きみこさんが聞いて来た。
「ええ」
「私は反対。走之助さんは一時の気まぐれで逃げてるだけ」
「でも頼まれましたから」
「ちょっと、あなた頼まれたら何でもするの。生きるのいやになったから、四条大橋から飛び降ります。だから背中押して下さいと云われたら、背中押すの?」
きみこさんは、四条通りに出たとこで、立ち止まりひと際、声を大きくして叫んだ。
「きみこさん、声が大きい」
雅美さんが、制止してくれた。
( 5 )
顔見世昼の部、一本目「車引」の舞台稽古が始まった。
附け打ちは、尾崎さんが担当していた。
その稽古の様子を、国宝さんは、上手袖の暗がりの中で、パイプ椅子に座ってじっと舞台と尾崎さんのつけを見つめていた。
その傍らには、五十歳年下の輝美さんがついていた。
僕は、走之助の附け打ち志願の件をいつ云い出そうかと、あれからずっと頭の中を逡巡していた。
僕は、国宝さんを見つめていた。
「何や、どないしたんや。わしの顔に何かついとるんか」
ふと振り返り、国宝さんが僕に尋ねた。
「あっ、いや、尾崎さんのつけは、いい音色だなと」
「尾崎のつけと、わしの顔と何か関係あるんか」
「あっいや、国宝さんならどう叩くかと」
「そんな事気にせんでもよろしい。お前はん、客席の後ろで見て来てもええで」
「そうよ。ここは私がいるから大丈夫」
輝美さんも云ってくれた。
「あっ、いや国宝さんのおそばがええです」
「けったいな奴や。好きにしたらええがな」
稽古が終わり、控室で食事を皆でしていた。
稽古の間に、走之助からラインが届いた。
「お早うございます。
ジャックが早速、親父に云ってくれました。
親父は黙って聞いていて、
(顔見世始まって落ち着いたら、話する)と。
東山さんは、国宝さんに云ってくれましたか?」
すぐに返信した。
「まだです。頑張ります」
「吉報待ってます」
走之助からのラインがさらに、僕の後ろからせっついているようで、緊張しまくりだった。
国宝さんが食べ終わるのを僕は、待った。
国宝さんがお茶を飲み終えた。
(今がチャンスだ!)
「あのう」
「何や」
「そ、そ、走之助さん、つ、つ、つけ・・・」
「はあ?」
国宝さんが、顎を突き出した。
走之助さんが、崖っぷちに立つ僕の背中を押すシーンが見えた。
僕は必死で、足元に力を入れていた。
「走之助さん、つ、つ、つけもの好きらしいです」
走之助さんが足元で、ずっこける構図が目に浮かんだ。
「そうかあ。若いのに漬物好きか」
「京都人だからよ」
輝美さんが云った。
「何やお前はん、この頃おかしいでえ」
「そうですね。そんな気がします」
尾崎さんは正座したまま、お昼を戴いていた。
「女でも出来たんじゃないの」
胡坐をかきながら、堀川さんは云った。
「違いますよ!」
僕はすぐに訂正した。
「じゃあ男か」
「えっ、東山君、その趣味があったの」
輝美さんの目が輝き出した。
「そうやったんか。何も気にせんでもよろしい。この世界では、ようある話や。何も卑屈になる必要はない」
「ち、違いますって!」
僕がむきになればなるほど、周りの附け打ち仲間はどんどん自分勝手に話を作り上げて、どんどん盛って行く。
「この場に及んで、云い逃れは出来ないぞ。お前、(雀)行っただろう」
堀川さんの目は、獲物を狙うハゲタカがとどめを刺そうとする鋭い牙のようだった。
「な、な、何で・・・」
京都の街は、狭い。
どこで、誰が見ているかわからない。
悪い事は出来ない。
いや、いや、別に悪い事はしてませんけど。
「そ、そうですけど」
「で、東山君のお相手は誰、誰?」
しつこく、輝美さんが云い寄って来る。
「そもそも、そっちの道に進んだ切っ掛けが何だったのか知りたいですね」
いつも冷静な判断をする尾崎さんの的確なコメントだった。
「そりゃあ、去年のお嬢、白梅との愛の熱い一夜からだろう」
講釈師堀川さんが、前面に出て来た。
白梅泰三(富士屋)は、今、女形の第一人者で、今回の顔見世でも昼は、一力茶屋で、遊女お軽役で三左衛門と共演する。
夜の部では、「鳥辺山心中」お染役で中林半九郎(中林屋)と共演する。
昨年、僕は白梅さんの宿泊するホテルで、会食、バーで飲んで、部屋で軽いキスをしただけだが、講釈師・堀川が、話を盛って、流布していつの間にか、それが歌舞伎界では、(事実)として受け入れられていた。
「相手、誰教えて?照明の友川さんなの」
「そうかあ、友川かあ」
「ち、違いますって」
「確か友川は、愛媛今治出身だったな」
「そうです。父親がタオル工場経営してて、(友川)ブランドのタオルは地元では有名らしいです」
「やっぱり、お前は相手が男でも打算で動くんだな」
「東山君も同じ愛媛、松山」
「同郷のよしみ」
「同じ穴のよしみ」堀川さんが、すかさず云い足した。
ここで一同は爆笑した。
( 6 )
片山富蔵の楽屋に呼ばれたのは、翌日だった。
明日が顔見世初日。
表も裏も一番忙しい時だった。
僕が、顔を出すと部屋の中で富蔵さんと国宝さんが談笑していた。
その前に走之助さん、弟子の富弥さんがいた。
「おお、忙しいのにすまんなあ。さあ入って、入って」
「はい」
僕が座ると、
「お前はん、昨日云いたかった事わかったわあ」
国宝さんは、大きく笑った。
「そらあ、うるさい先輩の前でさぞ云いにくかったやろなあ」
と付け足した。
すでに、走之助さんの附け打ち転向の意向は、両巨頭の間で意思確認されていた。
「さて、話進めよか」
弟子の富弥が、気を利かせて、立ち上がって部屋を出ようとした。
「いや、富弥もいた方がええから、このまま聞いてくれ」
「わかりました」
「走之助、もう一回聞くけど、本気なんか。附け打ちやりたいて」
「本気です」
「歌舞伎役者は、やめるのも本気やな」
「本気です」
「そうか」
結論は、だからと云って、すぐに役者をやめるわけにもいかない。
「取り敢えず、走之助。お前勧進帳だけの出番やけど、朝から楽屋入りせい。附け打ち見習いや」
富蔵さんは、淡々と述べた。
僕はもっと親子の間の、し烈なバトル、場合によっては殴り合いの修羅場になると覚悟していたので、いささか拍子抜けした。
「まあ、歌舞伎役者が途中でやめたり、廃業は何も珍しない。頭取の鴨田も、転向組。雀郎もやめたしな」
(雀郎)の言葉に僕も走之助もびくっとなった。
「お前はん、この一か月走之助の面倒見てやれ」
国宝さんが云った。
「はい」
「よろしくお願いいたします」
走之助が頭を下げた。
竹嶋屋の御曹司である。
「走之助、云うとくけど認めたんとちゃうで」
富蔵が念押しした。
「私の方も云うときます。期間限定見習い預かりでっせ。お坊ちゃま」
今度は国宝さんが念押しした。
その後の話し合いで、附け打ちの控室に走之助がいるのは、回りの目があるので、朝から四階の自分の楽屋に待機となった。
走之助は、勧進帳しか出ていなかったが、富蔵の息子とあって、一人部屋があてがわれていた。
一日の内、ほとんど使われない予定で、弟子の富弥の稽古場、控室になる所だった。
控室に戻ると、
「お前も忙しいなあ、阿藤の世話に走之助の面倒見なければいけないし。その合間に(雀)で、金持ってる中年男を見つけないと駄目だしな」
早速、堀川さんにいじられた。
「念のために、最後の(雀)のくだりは、ありません」
恐らく、一日で楽屋雀のおかげで、あっと云う間に広まるだろう。
僕としては、走之助の本気度はまだ掴めていなかった。
顔見世の幕が開いて、三日後。
僕と、走之助さんとのつけの練習は、南座の屋上で、朝八時から始まった。
阿藤君も参加した。
僕と阿藤君は、顔見世期間中は、国宝さんの自宅(清水寺近く)に泊まり込んでいた。
朝八時は、まだ舞台の作業灯はついていない。
屋上なら、人もいないしまだ叩ける。
基本的な動作。
つけは、左手で始まり右手で終わる。
つけ析の一方の角は丸くなっている。
その根元の丸くなっているところを支点に叩く。
円弧を描くように叩く。
つけ析は、ぎゅっと握るのではなくて、手のひらに卵を挟むかのように軽く握る。
などを教えて、叩いて貰う。
走之助は、力一杯叩く。
つけは、力一杯叩けばいいと云う先入観がある。
これは誰でもそうだろう。
実際は違う。
「間」だ。
「間」が一番重要なのだ。
走之助のつけを聞きながら、改めて尾崎さんや堀川さんのつけが、如何に軽やかで、リズム感に溢れているかがわかった。
この感覚は、素人の踊りの発表会に出た時の感覚と似ていた。
踊りの素養がない僕は、日頃歌舞伎役者の踊りを見ている。
踊りとは、そんなものだと思う。
素人の発表会で、同じ演目で踊るのを見る。
それが歌舞伎役者と全然違う。
そこで、改めて歌舞伎役者の踊りの上手さに気づくのだ。
今、目の前で走之助がつけを打つのを見て、聞いて改めて尾崎さん、堀川さんのつけの上手さと凄さを思い知った。
「そんなにわか附け打ちと一緒にするな」と怒られそうだろうけれど。
「あまり強く叩こうとしないで。阿藤君やってみて」
「はい」
阿藤君は、つけ板の前で一礼。
東の鴨川に向かって叩き出す。
「パタパタ、パタパタ、パタパタ」
最初は軽く、ゆっくりと。中盤リズムを刻む感じだった。
阿藤君の方が、リズム感があった。
「いいですよ。リズム感があって。走之助さん、じゃあもう一度」
「はい」
走之助は、つけ板ばかし見ていて、一心不乱に叩き続ける。
「はい、ストップ」
僕は途中で止めた。
「走之助さん、附け打ちって何ですか」
基本的な質問をした。
「附け打ちは、歌舞伎における効果音と云うか・・・」
「そう、その通り。歌舞伎での附け打ち。と云う事は、一人で打つんじゃないよね。必ず打つ動機と目的があるよね」
「あります」
「歌舞伎だから、役者が演技してるよね。顔を上げてその役者がいると思って、その視線をあげないと」
「あっそうか」
得心したようだ。
「朝から大変ですね」
振り向くと尾崎さんが立っていた。
「尾崎さん、こんなに早くからどうしたんですか」
「今朝の天気を見ておこうと思って」
つけ析とつけ板は木で出来ている。
その日の天候で、湿気の度合いも変わって来る。
それを予測して、どのつけ板、つけ析を使うかを決めるのも大事な役目だった。
尾崎さんは、毎日南座屋上にある、社に参って拝んでいる。
それは、同時に天を仰ぎ、天気を見る行為も同時に行っていた。
僕らは、尾崎さんに習って、お社に参った。
お社の向こうには、京都市内中心部を南北に流れる鴨川、両岸には遊歩道、さらにその向こうに東華菜館(ヴォーリズ設計)と四条河原町の繁華街が見えた。
繁華街、川、山が同時に見れるのは京都だけで東京、大阪にはない。
京都は、厳しい建物の高さ制限があるので、高層ビルも高速道路もないので空が広く感じる。
京都にずっと住んでいると、あまり感じないが東京へ行くと初めて、京都の空の広さを再認識させられる。
( 7 )
今年の顔見世は、奇数日に、夜の部三左衛門さんの勧進帳、偶数日に鯨蔵の鳴神と、日にちによって出し物を変更すると云う、顔見世始まって以来の冒険を、竹松は行った。
これが、大当たりとなった。
何故なら、歌舞伎ファンなら、両方見たいと思うだろう。
今までなら、昼の部、夜の部それぞれ一枚ずつで済んだが、今回は最低三枚買わないといけない。
もしくは、数少ない幕見券を買わないといけない。
幕見券は、予約も、ネット購入も出来ない。
二十席しかない。
当日の朝でないと買えない。
あまりに人気で、竹松は、一人一枚に限定した。
すぐに売り切れる。
ネットでは、転売目的で三千円の席が、五十万円で売り出されていた。
顔見世一等三万円の席が九十万円で売り出されていた。
今年の七月のジョニーズ歌舞伎の転売価格を上回っていた。
竹松としては、一応買わないよう云っているが、これを防ぐ手立ては、今はなかった。
ネット社会を反映して、歌舞伎専門のチケット売買のサイトが、日本だけですでに三十万社も林立していた。
中には騙されて、昨年の切符を高額で買って、騙されるケースが相次いでいた。
京都では、お茶屋を通しての購入が昔からあった。
一等席とお弁当付きで、五万円から。
客はそれ以外に、きちんと祝儀を払うから、実質その倍ぐらいの値段で買っていた。
顔見世の経済波及効果は、百億円とも云われている。
主要なホテルは、顔見世観劇と京都観光を組み合わせて売り出していた。
南座から、徒歩十五分以内に建仁寺、八坂神社、知恩院、青蓮院、高台寺、圓徳院長楽寺、霊山観音、清水寺と東山の有名社寺が、集積していると云う、他の都市がうらやむ、絶好の場所でもあった。
これは大人気で、今年観劇、観光した人は、すぐに来年の顔見世パック旅行を予約する人が続出していた。
顔見世で、南座は興行収入、番付(筋書)、その他もろもろ合わせて十二億円の売り上げをたった一か月で上げる。
興行は、当たれば大きいのである。
今回つけは、尾崎さん、堀川さん、福岡さんの三人が担当していた。
尾崎さんは偶数日の鳴神(鯨蔵)を担当しているから、奇数日の夜の部のキリ狂言(最後の演目)の三左衛門さんの勧進帳は、いなくてもよい。
しかし、毎日残っていた。
堀川さんの出番が終わるまで、控室で待機していた。
「何が起こるかわからないのが、生の怖さなんです」
静かに尾崎さんは答えた。
これが口癖だった。
走之助の唯一の出番でもある、勧進帳だったので、僕もつきあった。
長い台詞もないし、掛け合いの台詞もない片岡八郎役だった。
それでも、走之助は毎回緊張しているのが、舞台袖から見ていてわかった。
勧進帳のつけは、最後、飛び六方の前にある。
軽く二、三度、叩く。
六方の時には、姿を隠す。
いつの頃からだろうか。
弁慶の飛び六方に手拍子をする風習が根付いて来た。
これを苦々しく思っている関係者は、数多い。
そのうちの一人が国宝さんであり、附け打ち皆だった。
「あれは、演者からしたら、惑わしの薬や」
と国宝さんが云った。
「惑わしですか」
「そうや。大勢の手拍子と云うのは、段々早くなる法則があるんや」
大観衆も興奮している。
ゆっくり始めた手拍子も、鼓動の速さに連動して、段々早くなる。
特に土日、若い人が多い日は特にそうだ。
「まあ、三左衛門ぐらいの役者やと、惑わされんようになるけども、耳障りなんは確かやで」
「そうですねえ」
「弁慶の気持ちて何や」
急に質問された。
「感謝ですか」
「それもある。コンサート会場と歌舞伎は根本的に違う。歌舞伎の世界を堪能するのが醍醐味。そこに(今)の手拍子が、乱入して来たら、一時間あまり構築して来たものが、あっと云う間に壊される、もろいもんや」
暗転中、スマホを取り出す客がいる。
そのスマホの光に文句を云う客だけではない。
その(スマホを取り出す行為)そのもの自体が、すでに芝居の世界をぶち壊しているのだ。
鋭敏な感覚を持つ客はそこに、神経をとがらす。
しかし、真逆の鈍感な客は、全く気付かない。
「時間見てただけや」と開き直る。
劇場側としても、そこまで注意出来ない。
今では、携帯電話抑止装置が完備されたので、電話が鳴ると云う事はなくなった。
しかし、客の携帯電話を見る行為は、今でも続いている。
「高い金出して、見に来てて、手拍子ぐらいさせろ」と怒鳴られるかもしれない。
観劇マナーの線引きは、ますます難しくなって来た。
勧進帳、弁慶を演じる三左衛門さんはどう思っているのだろうか。
僕は、そこが一番聞きたかった。
日にちが過ぎて行く。
一か月公演の場合、中日までがとてつもなく長く感じる。
それが、中日過ぎると早い。あっと云う間に楽日だ。
この感覚は、二月に走った歌舞伎マラソンにそっくりだ。
マラソンも折り返し地点までが凄く長く感じる。
しかし、そこを過ぎると一気にゴールが見えて来る。
顔見世をやりながら、知恩院野外歌舞伎の準備が、進んでいた。
一週間前から、知恩院の男坂からの参拝を停止。
女坂から参拝は出来た。
仮設舞台、楽屋、仮設イントレ、照明機材、電源車、テレビカメラ中継ケーブルを敷く、仮設トイレ、切符売り場、売店、事務所などが着々と作られていった。
当日、ネコネコ動画サイトが、完全生中継を行う。
僕と尾崎さんは、南座にいた。
堀川さんは、昼から知恩院へ行き、福岡さんも知恩院組だった。
阿藤君とジェフは遊軍で、両方を行ったり来たりしていた。
今まで、野外歌舞伎は、京都では醍醐寺、比叡山延暦寺等で行って来た。
しかし、今回のように、南座と知恩院、二つの会場の同時開催は、前代未聞であった。
夜の部。
南座「鳴神」が始まる前だった。
尾崎さんが、有田屋の楽屋に呼ばれた。
僕が、控室で待っていた。
戻って来た尾崎さんの顔色が険しい。
「何かあったんですか」
「鳴神は、マキで行くから」
尾崎さんは、僕の質問には答えずにそう云った。
マキとは、時間を巻く。
つまり、いつもよりも早く行うと云う事だった。
狂言作者の松柴近作も同様に呼ばれて同じ事を云った。
「幕間の時間、盗みで行きます」
僕らの控室に顔を出して、そう云った。
「近作さんも、有田屋に呼ばれましたか」
「はい、呼ばれました」
にこっとして去った。
時間の盗みとは、場内掲示「幕間 二十分」とあっても、三分から五分早めて幕を開ける。
何かあったのか。
でも云ってくれない。
阿藤くんから、ラインメール来る。
「こちら、随分押してます。て云うか、わざと(女殺し油地獄)をゆっくりやってた。次の勧進帳、かなり遅れるようです」
すぐに返信した。
「知恩院で何かあったんですか?」
「わかりません。ただ、堀川さんが、竹嶋屋の三左衛門さんに呼ばれて、出来るだけ時間延ばしてやると云われたそうです」
南座は、早く終えようとしていた。
一方、知恩院野外歌舞伎公演は、ゆっくりと時間をかけてやろうとしていた。
予定時間では、鳴神と勧進帳が始まる時間は、ほぼ同じ時刻だったが、
こちらの鳴神は、予定よりも十分早く始まり、知恩院では、まだ女殺し油地獄が終わってなかった。
(何かあったんだ!)
直観的に僕は気づいた。
「東山君、今すぐに知恩院へ行ってくれ」
「すぐですか」
「それからの指示は、堀川さんに聞いてくれ。私は鳴神が終わり次第、有田屋とすぐに駈けつけるから」
「はい」
僕は答えた。
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