第13話 附け打ち、女ボスと会う

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 嵐山こども歌舞伎千秋楽の翌日、僕は国宝さんに頼まれて、出演した「犬」を返しに行った。

 きちんと、それ専用のバスケットに入れていた。

「ギャンギャン鳴き叫んだからって、鴨川に捨てないでよ」

 国宝さんの妻、輝美さんに云われた。

「しませんよ、そんな事」

「でも東山くん、事、犬に関しては冷静じゃなくなるから」

 飼い主の名前は聞かされなかった。

 待ち合わせに、京都北山植物園の正面を指定された。

 京都の繁華街、四条河原町から北の方向にある。

 地下鉄烏丸線、北大路駅下車すぐの所だ。

「お相手の方の特徴は何ですか」と聞いたら、

「行ったら、すぐわかるから」と云われた。

 午前十時。

 すでに、この時点で、夏の光が、強烈に降り注ぐ。

 道を歩く人の顔は、拷問を受けているように、歪み、口を半開きにしていた。

 京都の夏は、息をするのもしんどいくらい、過酷だ。

 文豪谷崎潤一郎は、京都に住んでいたが、京都の夏の暑さに、辟易して、晩年は熱海に住まいを移していた。

 待っていると、一人の老紳士が、日傘をさして近づいた。

「お待たせしました。東山さんですね」

 日傘の中から、一人の老人の顔がゆっくりと出て来た。

「またお会いしましたね」と言葉を続けた。

「また・・・どこで・・・」

 その質問に、老紳士は、

「ワンワン」

 と犬の鳴きまねと、両手で柏手を打つ仕草をした。

 それで、たちどころに、僕の疑問は氷解した。

 阿藤カオルさんと一緒に滋賀の大瀧神社(犬神社)を参って、犬の縫いぐるみを抱いていた光景が蘇った。

「あああ!ひつじとリムジン婆さん!」

 思わず僕は、そう口走っていた。

「ひつじじゃないです。執事です。執事の宇多野です」

「失礼しました」

 そこからリムジンに乗って、五分もしないうちに着いた。

「宇多野さん、確か貰った名刺には、下鴨神社の住所が書かれてましたけども」

「ええ、あれは、窓口なんです。鳴滝清子は、お忙しい方で、京都市内に五つの家をお持ちです」

「五つもあるんですか」

 何でそんなにいるのだろうか。

 着いた家は、和風建築で、三百坪はあった。

「その中でも、ここが一番狭いんです」

「ここが狭い!」

 じゃあ広い家はどれぐらいなんだ。

 母屋に入り、中を進む。

 灼熱から一気にクールダウンした。

 洋間に、鳴滝清子は座っていた。

「またお会いしましたね」

 清子は、宇多野さんと同じように台詞を云った。

 宇多野さんは、犬のバスケットを受け取ると部屋を出て行った。

「ご縁があるんだわねえ。さあお座りなさい」

「はい、失礼します」

 女中が、冷たいコーヒーとサンドイッチを運んだ。

「昼ごはんと云うより、朝食メニューねえ」

「はい」

「嵐山こども歌舞伎、盛況のようでしたね。先ほど、ビデオ見てました」

「有難うございます」

「清水元助さんから、お聞きしました。犬嫌いの附け打ちさんが入られたとか」

「はい、それ僕です。すみません」

「謝らなくてもいいわよ。誰だって苦手な物あるんだから」

 鳴滝清子さんは、この前、大瀧神社でお会いした時、九三歳と云っていたはずだ。

 しかし、それよりもはるかに若く見えた。

 この頃は、若い人の年齢がわからないとよく云われる。

 僕から云わせれば、年寄りの年齢がわからない。

 国宝さん九五歳、大向こうの会「都鳥」会長の松岡さん。九四歳。

 二人とも、若い。

 ジョニーズ事務所社長、北大路さんも八〇歳には見えなかった。

「彼女は元気なの」

「彼女?」

 しばらくして、一緒に行っていた、阿藤カオルさんだと気づいた。

「あの時、ああいいましたが、彼女じゃないです」

「あら、そうなの」

「はい、小学生の子供がいる、お母さんです」

 ドアがノックされて、執事の宇多野さんが入って来た。

 手に古びたアルバムを持っていた。

 再び出て行こうとすると、

「宇多野も、ここにいて」

 と短く云った。

「あなた、南座で附け打ちされているんですって」

「はい、やってます」

「南座、再び改装されてきれいになったわねえ」

 南座は、平成三年、三十年と二回改装されたが基本的な造りは、昭和四年のままである。

「ええ、舞台の広さや、三階の急こう配の客席などの基本的作りは、昭和四年のままです」

 客席数は、昭和の南座は、1500あまり。

 今は、1082席。

 昔は、二階席、三階席の淵の部分、馬蹄形の所は椅子席ではなく、桟敷席でしかも一桝席、六人。幾ら当時の日本人が小さいと云っても詰め込み過ぎだろう。

 だから金持ちの御大臣様は、一桝席、六人分の席を買って、舞妓と二人で鑑賞していた。

 南座のある京都は東京、大阪などの太平洋戦争の大規模空襲がなかったので、戦前の建物がそのまま残っていた。

「私にしたら、この前の出来事だけど、あなたにしたら、はるか昔の出来事かもしれないわねえ」

 そう云いながら、清子さんは、一冊のアルバムを開いた。

 白黒写真で、外国人と南座の客席、ロビーで撮った写真だった。

「残念ながら、戦前の写真は、空襲で焼けて残ってないのよ」

「空襲?戦前は大阪に住んでいたんですか」

「いえ、違います。京都です」

「京都は、空襲がなかったはずですが」

 少し、僕は遠慮気味に云った。

 九三歳の高齢なので、認知症まで行かないけど、軽いぼけかもしれないと思った。

「そう、皆そう云うわねえ、宇多野」

「ええ、一様に学校で(京都は、空襲を受けなかった)と習いますから」

 宇多野さんは、苦笑した。

「だから、東山さんが間違うのは、仕方ないか」

 清子さんは、ここで大きなため息をついた。

「そうです」

「じゃあ、京都も空襲があったんですか」

 僕は聞いた。

「そう、ありました。大阪のような大規模の空襲はなかったけどもね」

 順番に清子さんは話してくれた。

 京都で空襲があったのは、昭和二十年(一九四五年)一月十六日の深夜。

 東山区馬町周辺であった。

 京都女子専門学校(現在・京都女子大)の寮、周辺民家などに被弾。その後に起きた火災、家屋の倒壊で四十人以上が死亡。

 二回目は、同年六月二六日、今度は西陣地区での被弾。この時も四三人が亡くなった。

 警察、軍部は、京都市民に動揺を与えないために、報道管制を敷き、市民には知らせなかった。

「その馬町の空襲で、私の両親は亡くなったの」

 戦災孤児。

 当時二〇歳の清子は、父に云われて独学で英語を勉強していた。

「父は生前、何度も云ってたのよ。この戦争は日本は負ける。いずれ、アメリカが乗り込んで来る。英語は勉強しなければいけないとね」

 初めて知る事ばかりだった。

 日本史の授業では、「京都は空襲受けなかった」の一言で、済まされていた。

 恐らく、その教師も知らなかったのではないだろうか。

「家屋は、爆弾で破壊されて無くなるけれど、知識は死なない限り、無くならない。父はそうも云ってた」

 昔話を語る清子の目に、涙の小さな水たまりが宿った。

「だからねえ、皆一様に、云うでしょう。(京都は、空襲を受けなかった)と。それ、云われる度に、何だか私の両親の死まで否定されてる気がしたの」

「確かに、そうですね」

 ここで一息つくために、アイスコーヒーを戴いた。

 そして敗戦を迎える。

 進駐軍が日本にやって来て、占領した。

 それから日本は、六年間、実質、アメリカ軍の支配下に置かれた。

「この京都にも進駐軍やって来たの。家や建物が接収されたの。そして、兵士の娯楽の提供で、劇場を抑える必要性が出たの」

 当時、英語力が買われて、清子さんは進駐軍幹部の通訳を務めた。

 南座と、祇園甲部歌舞練場が接収の対象になった。

「もし南座が接収されたら、顔見世興行が出来なくなるの。それで私は、誘導したの」

「誘導ですか?」

 清子さんの話は続く。

 当時、祇園甲部歌舞練場は、兵器工場として、稼働しており客席は全て取り払われていた。

「だから、私は云ったの。(ここなら、ダンスホールとして、明日から使えるわよ)と」

 広い空間とステージ。

 もし南座なら、客席を撤去する費用と手間がかかる。

 すぐに、清子の提案を受けて、接収は祇園甲部歌舞練場に決まった。

「南座の顔見世存続が決まった瞬間なの」

 少し誇らしげに、清子は笑った。


    ( 2 )


 その後、祇園甲部歌舞練場は、進駐軍に接収されて、「KABUKI HOUSE」と名前を変えて、進駐軍の兵士たちのダンスホールとして歩み出した。

「通訳担当した兵士の名は、イチ・ジョージ。当時、三人のジョージがいて、私達日本人仲間で、一種の符牒で、イチ、ニ、サンジョージと区別してたの。イチジョージは、歌舞伎が好きで、南座の顔見世一緒に見たの。それがこの時の写真なの」

 今の南座と、そんなに変わっていない。

 ロビーも場内に通じる扉の数が、昔は多かったぐらいだ。

 南座正面で撮った写真も、今は右側端に、京阪電車へ降りる階段があるが、当時は地上を走っていたので、このエリアも南座だった。

 違いは、それぐらいだ。

 その後、数年間、毎年四月に開催される、祇園甲部歌舞練場での「都をどり」は、南座で行われたのである。

「あと、京都植物園が、アメリカ兵士幹部のハウスになったの」

「つまり、京都植物園も接収されたんですね」

「そう」

 本来、大多数の民家は焼けてないので、接収で住民の立ち退きが求められる。

 それを回避しようと、清子は動いた。

 広大な京都植物園なら、沢山のハウスが作れると。

「自分好みの、大きさ、高さに。町家は天井が低いから、頭を何度も打つから、あなた方が住むのに、適してないとまで云ってやったの」

 この提案も受け入れられた。

 六年間、通訳として働いた。

「その頃よ、清水元助と出会ったのも」

 清子二〇歳、元助二二歳。

「附け打ちだったんですね」

 僕は確認した。

「違うわよ。あの人、ドラマーだったの」

「ええええーー!」

 意外な真実が明らかになった。

「進駐軍のキャンプで、演奏してたの」

「信じられません!」

「ドラマーから附け打ちの転身も私が云ったの」

「清子さん、実は僕も学生時代、ドラムやってたんです」

「ええ、聞いたわ。あの人、(わしの若い時と同じや)と云ってました」

 国宝さんが、自分と同じ趣味を持っていたなんて知らなかった。

「私ねえ、通訳してるうちに、アメリカ人のジョージと深い関係になったの」

 ジョージは、歌舞伎に精通していた。

 当時、演劇、歌舞伎の上演は進駐軍の許可が必要だった。

 戦時中も日本は、検閲制度があった。

 敗戦となり、やれやれこれで自由に芝居が出来ると、演劇人は思ったがそうは、いかなかった。

 検閲の相手が、日本軍部から、米国進駐軍に代わっただけだった。

 仇討ちがテーマの「忠臣蔵」は上演出来なかった。

 進駐軍が一番恐れたのが、日本人のこころの中に潜む、「狂気」「魂」だった。

 民族蜂起で、反乱軍の結成、国内戦争が起こる事だった。

 これは日本だけではない。

 占領地域で、必ず起こる武装蜂起だった。

 しかし、日本では起こらなかった。

 不思議なくらい、静かだった。

 その静けさが、逆に進駐軍幹部に、疑惑と猜疑心を増幅させた。

 静けさの中で、いきなり背中をばっさり、切られるかもしれない。

 そんな日々だった。

「ジョージに云われたの。結婚してくれって。つまり(戦争花嫁)よ」

「戦争花嫁って何ですか?」

 僕にとっては、初めて耳にする言葉だった。

「そうよねえ、あなたのような若い人は知らないわよねえ」

 知らない事に、清子さんは怒らずに、説明をしてくれた。

 戦後、焼け野原、食糧難の日本。

 街頭では、餓死の大人、子供が出た。

 一日、何百人と出た。

 今の飽食の日本では考えられない事件、日々だ。

 当然、日本政府は、アメリカに食料援助を求める。

 まず学校給食のミルクに、アメリカでは豚の餌に使われる、「脱脂粉乳ミルク」が輸入された。

 これは、無茶苦茶臭い。匂いを嗅ぐとゲロ吐く。

 そこで、当時の子供たちは、鼻を抑えて飲んだ。

 しかし、これは骨を丈夫にするには、最適だった。

 当時これを飲んで育った大人が、老人になっても骨が丈夫なのは、このためである。

 そんな未来のない、絶望的な日本を捨てて、アメリカ人と結婚して、米国本土に渡った日本人女性が多数いた。

 その人達の事を、(戦争花嫁)と呼んだ。

「今では当たり前だけど、京都植物園に出来た、(進駐軍ハウス)に行って驚いたの。トースターもある。大人が二人入るような大きな冷蔵庫もある。食料も草鞋の大きさのステーキが出て来るのよ。それも毎日」

「人間、食べ物には弱いですからねえ」

「特に、空腹の日本人にはねえ」

 清子は、そっと笑い、遠くを見つめる目つきになった。

「あとねえ、コカ・コーラに驚いた」

「何でですか」

「進駐軍は、米国本土から空輸で、本場のコカ・コーラを持ち込んでいたの。それを生まれて初めて飲んだ。最初、苦くて薬臭いと思った。でも何回も飲んでるうちに、美味しく感じるようになったの。でも勘違いしないでね。今の日本のコーラとは違うわよ」

 今のコカ・コーラは全て、日本の工場で作られている。

「今のコーラは、水臭い、薄いの。本場の当時のコーラは違うかったの」

「そんなもんですか」

 清子さんは、思い悩んだ末、出した結論が、(京都)に残るだった 。

「私は、京都を捨てられなかった。私を生んで育ててくれた両親も京都も捨てられなかったのよ」

 六年間の進駐軍の占領が終わり、イチジョージは米国に戻った。

「それから、私、元助と一緒になったの」

「つまり、結婚したんですか」

 国宝さんの今の奥さん、五十歳年下の輝美さんとは、再婚とは聞いていた。

 その初婚の相手が、今目の前にいる鳴滝清子とは知らなかった。  

 附け打ち志願した、国宝さんは、上京する決意をした。

 当時、関西は、歌舞伎は壊滅状態で、年に一度の南座の顔見世しか歌舞伎を上演していなかった。

「私は、京都に残った。この時も私は(京都)の呪縛の殻を破る事が出来なかったのよ。私って、弱いの。そして娘を生んだ」

 清子は、宇多野に目で合図した。

 宇多野は、部屋を出た。

「でも、別れたんですね」

「そうなの。私、京都を捨てられなかったの」

 清子さんは、喋りつかれたのか、沈黙を始めた。

 ドアがノックされて宇多野が二人の人間を連れて来た。

「東山さん」

 ドッグヨガ&カフェ・わんわん笑顔のオーナーの犬養雅美さんだった。

 そして、同じ附け打ちのジェフだった。

「犬養さんに、ジェフ?何でジェフなんだ」

「おいおい、説明するわ」

 二人は、座った。

「犬養雅美は、私の孫なの」

「つまり、国宝さんの孫でもあるわけですね」

「そうです」

「わかりました。次はジェフ、きみだ」

「東山さん、僕のお爺さんは、イチジョージさんなんです」

「何だって!」

 今朝、この屋敷に来て、僕は何度驚愕の飴を呑みこまされた事だろうか。

「本当か!」

「本当です」

「何で今まで黙っていたんだ」

「国宝さんから、喋るなと云われてました」

 僕は、清子さんと話しながら、もっと多くの人に知って貰いたいと思った。

 突然、頭の中に閃いたものがあった。

 いつもなら、一度頭の中で、整理して話すのだが、この時は、そのまま口に出た。

 僕の提案を聞き終えると、清子さんはにっこり笑った。

「それ、面白そうね。冥土の土産にするわ」


    ( 3 )


 僕からの申し出は、すぐに鳴滝清子さんから、直接国宝さんに伝えられた。

 僕が、国宝さんの自宅に戻ると、すぐに、

「お前はん、鳴滝清子に何やらけったいな事云うたらしいなあ」

 でもその顔は笑っていた。

「東山君も、云う時は云うのね。見直した」

 輝美さんは以前から、鳴滝清子さんの事は知っていたようだ。

「九五歳のわしと、九三歳の鳴滝清子二人コンサート。最初で最後云うのがええな」

 国宝さんは、そう云って僕を優しく見つめた。

 僕の最初の申し出は、国宝さんのドラム伴奏に、鳴滝清子さんが歌う事だった。

 場所は、二人の思い出の地、祇園甲部歌舞練場。

 祇園甲部歌舞練場は、現在耐震工事するために閉鎖されたままだった。

 まだ工事は、入っていなかった。

 清子さん、国宝さんとの打ち合わせで、

「東山くんもドラム出来るんでしょう。国宝さんとドラムセッションやってよ」

 と清子さんが云い出した。

「お二人の(思い出コンサート)に、僕が出てもいいんですか」

「出て出て。死にかけの、棺桶に身体全部入ってるジジ、ババだけより若い人出た方がいいに決まってる」

「それ、ええ事や」

 国宝さんも快諾してくれた。

 すぐに附け打ち、竹松のホームページにアップ。

「あなたを応援してる舞妓、芸妓さん沢山いるのよ」

 お世辞だと思って、聞き流していたが、どうやら本当だった。

 僕は、祇園の「マルサン」にポスターを持って行った。

「いよ、祇園のスターが来た」

 と丸太さんが声を掛けた。

 ポスターは、僕と国宝さんのつけを打つところと、ドラムセッション、それに鳴滝清子さんの写真が載っていた。

 但し、清子さんは現在のものではなくて、七〇年前の若き白黒写真だった。

「楽しみやなあ」

 丸太さんは、カウンターの後ろの壁に貼ったポスターを眺めながら云った。

「さすがに、国宝さんのドラムは、私も見てない」

「そうなんですか」

「恐らく、尾崎さんも堀川さんも見てないと思うよ」

「お兄ちゃんに聞いたけど、お兄ちゃんも見てないて」

 丸太さんの奥さんの峰子さんが云った。

 お兄ちゃんとは、竹嶋屋、十五代目片山三左衛門である。

「これ、今、祇園中でえらい騒ぎになってるんやで」

「ほんまですか」

「これ、東山君のアイデアやてなあ」

「はい」

「やるねえ。あんたのファンの舞妓、芸妓連中も大騒ぎやで」

 今回の公演は、一般にも発売されたが、客席半分以上は、祇園舞妓、芸妓、その他関係者で占められた

 すぐに、切符は完売していた。

 それから、さらに打ち合わせをして公演日を迎えた。

 晩から、お座敷があるので、平日の昼間、午後二時開演。

 

 第一部 祇園と戦争

 これは、清子さんのさらなるリクエストで、短編映画が作られた。

 太平洋戦争末期、祇園甲部歌舞練場が爆弾、兵器工場だった事

 京都で馬町、西陣の二か所で空襲があり、八〇名以上の人が死んだ事

 進駐軍が、祇園甲部歌舞練場をダンスホールとして接収した事

 そのため「都をどり」が戦後、数年間南座で開催された事

 京都植物園が、進駐軍幹部のハウスだった事


 僕が、清子さんの家で聞いた話を、映像で再現した。

 当日、馬町、西陣空襲で亡くなった方の遺族を招待した。

 第二部 国宝さんと僕のドラムセッション

 清子さんの歌


 こんな構成になった。

 舞台には、上手下手にそれぞれ、高さ一メートルぐらいの台が組まれていた。

 その上にドラムセットが組まれた。

 上手に国宝さん、下手に僕が陣取った。

 さらに、それぞれそれより小さな台が、組まれた。

 そこには、つけ板とつけ析が置かれていた。

 そこには、上手に堀川さん、下手に尾崎さんがいた。

 つまり、ドラムセッションプラス附け打ちのセッションを追加する豪華版だった。

 真ん中にスタンドマイク一本。

 椅子が一脚。

 緞帳が上がると、すでに鳴滝清子を始め、全員定位置にいた。

 つまり、「板付き」と呼ばれるものだ。

 四人の頭上には、ムービングライトから、一条の光の輪が投射されていた。

 ムービングライトの光のタッチ(道筋)を見せるために、上手下手の袖から、ロスコマシンと呼ばれる、煙が絶え間なく噴出していた。

 原料は、油である。

 それを霧状に空中に噴出させていた。

 開演五分前になると作動し始めた。

 緞帳が開くと、どうしても空気の流れで前へ行く。

 そのために、五分間で煙を舞台に溜めて置くのだ。

 はたと、胸元に手をやって、ぼくはどきりとした。雪駄があった。

 僕ら附け打ちは、黒の着流し、裁着け袴姿だが、雪駄を脱いで、上手袖に置くのを僕は忘れていた。

 もう時間がない。胸元の雪駄が落ちないよう、ぎゅっと奥に、仕舞い込んだ。

 全員「板付き」にしたのは、清子さんも国宝さんも高齢のため、移動に時間がかかるために、少しでも体力消費を抑えるためだった。

 さらにドラム台は、一メートルも高いところにあったからだ。

 開演ブザーが鳴る。

 ゆっくりと緞帳が上がった。

 いよいよ、始まりだった。

 緞帳が上がり切ったのを見て、上手袖の舞台狂言方の堀内が、マグライトを片手で、舞台に向けて振った。

 喋り始めのQ出し(合図)だった。

「皆様、今日は。鳴滝清子です。今日はこんなに多くも人がお集り頂きまして有難うございます。祇園は、私にとって思い出深い場所です。

 そして、ここ祇園甲部歌舞練場は私の青春そのものの場所です。

 その場所で、私のような、もういつ死んでもいい、死にかけの婆さんのリサイタルにお越しくださいまして、本当に有難うございます」

「まだ死なないでええ」

 客席から応援野次が飛んだ。

「はい、死んでません。生きてます。皆さんも死なないでね」

 やんわりと、清子は野次を打ち返した。

 ほんのりとした、笑いが舞い降りて、客席と舞台を包み込んだ。

 何故か、僕はいつもの緊張感がなくて、どこか優雅なオーラを感じ取って、気が安らいだ。

 本来なら、一度もやった事がない、国宝さんとのドラムセッションだから、かなり緊張が身体全体を支配するはずだった。

 それもないのは、やはり清子さんの人柄だったかもしれない。

「では、一曲目です。戦後すぐに流行りました曲です。(祇園で会いましょう)


   祇園で会いましょう( 作詞 円山たかお・作曲 八坂光沢 )

🎶

 神宮道で    会いました

 きみの微笑み  輝いて

 私のこころ   ふくよかに

 木々のゆらぎは こころ模様か

 石塀小路の   ふたりの影を

 確かめる愛   見つめ合う目を

 会いましょうね 会いましょうね

 それは祇園の  夢世界


 一曲目は、緩やかな曲で、僕らのドラムセッションも堀川さん、尾崎さん両者の附け打ちのセッションも入らない。

 僕ら四人は、正座して客席正面を見つめた。

 歌い終わると、清子はじっと客席を見渡した。

 拍手が終わる。

「まだ、皆さん寝てないわね」

 笑いが起きた。

「まだ死んでないわよね」

「生きてるよお」

 すかさず、切り返しの応援野次が飛んで来た。

「有難う。私も生きてます。私も皆さんも高齢なので、一曲ずつ確かめないとね。皆さんも両隣、お互いに息をしてるか確かめあってね」

 客席にいた正直者の何人かは、顔を左右に振って確かめている人もいた。

「では、お待たせしました。ドラムと附け打ちセッションです。ドラムは、附け打ちで唯一の人間国宝であります、清水元助さん。そして若手の東山トビオさんです。附け打ちは堀川さん、尾崎さんです」

 僕ら四人の名前が呼ばれると、センターピンスポットライトが一台ずつ正確に投射された。

 久し振りに味わう、光のまぶしさと高揚感だった。

「では聴いて下さい。( 京都スタート)です」


 京都スタート ( 作詞 清水元助 ・ 作曲 イチジョージ)

 🎶

 朝から夢を 追いかけるのは

 誰なんよねえ ため息ついて

 皆、顔上げて 進もうよ

 ねねの道誓い 忘れずに

 暑さ忘れて  鴨川の床

 

 ここで間奏が入った。

 まず国宝さんのドラム一人演奏。

 次に僕のドラム演奏。

 それに呼応するかのように、堀川さん、尾崎さんの附け打ちセッションがかぶさって来た。

「パタパタ、パタパタ、パタパタ」

 豪快で繊細な付け音がドラムの音に重なる。

 祇園歌舞練場は、幾多の歌舞伎、舞踊が上演されて来た。

 そして、数多くの附け打ちもそれに伴いあっただろう。

 しかし、このドラム演奏とのセッションはこれが初めてだった。

 激しいドラム応酬に、頭上の二三台のムービングライトも様々な幾何学模様を描きながら激しく回転、前後左右シャッフルしながら光の洪水、点滅を舞台から客席に投射した。

「グイーン!」

 ムービングライトが鈍い音を立てて、舞台から、一斉に並んで客席を投射すると、観客の顔に色とりどりの模様が、出来ていた。

「ドンドンドン、ドンドンドン」

 国宝さんが叩く。

 それを見て負けじと、僕も太鼓を叩く。

 さらに国宝さんの九五歳の高年齢を微塵も感じさせない、ビートの効いたドラムは、今までおとなしく見ていた、客のこころを一気に高揚、昇華、上昇させた。

 何人かの客が立ち上がった。

「パシン、パシン」

 シンバルを叩く音も力強い。

「パシン、パシン、パシン」

 僕も負けじと応酬した。

 久し振りに眠っていた音楽魂、闘争心が目を覚まし始めた。

 そして何人かが、懐かしい「紙テープ」をステージに向かって投げた。

 昭和三〇年代から四〇年代にかけて、紙テープを投げるのが大流行した。

 絵面は、一気に「昭和」に描き替えられた。

 口笛鳴らす者、通路でジャンプする者、肩を組みあって足を踏み鳴らす者、手拍子する者など瞬く間に、高齢コンサート会場に様変わりした。

 さらに客のこころを興奮させたのが、堀川さん、尾崎さんの二人の絶妙な附け打ちだった。

「パタパタ、パタパタ、パタパタ」

 それぞれの呼吸、そして僕と国宝さんのドラムセッションの「間」まで計算していた。

 二人は、決して出しゃばらずに、ドラムセッションを際立たせた。

 と、同時に附け打ちの連打も主張していた。

 それを見ていた、元附け打ちの丸太さんは、両手で自分の膝を叩いていた。

 足元は、小刻みに互い違いに踏み鳴らした。

 🎶

 京都始まり スタートだ!(スタート)

 今宵始まり スタートだ!(スタート)

 町家の中を 走り抜け  (ダッシュ)

 新京極 寺町 錦市場

 運命ともに 託したぜ

 京都スタート 皆の走りよ

 京都スタート 皆の希望よ

 スタート、スタート

 ダッシュ、ダッシュ


 国宝さんのドラムさばきは、衰えない。

 いや、初めよりもさらにヒートアップしていた。

 横目で見ながら、僕は心配になった。

 その時だった。

 余りにも激しくドラムを叩き過ぎたのだろう。

 手からスティックが滑った。

 瞬間、堀川さんが手を伸ばしたが、掴みきれずに指先に当たった。

 スティックは、変則な円弧を描いて、清子の背中を直撃した。

「痛いっ!」

 清子が小さく叫んだ。

 スティックは、清子さんの足元に落ちた。

 僕も、他の人も、清子さんが拾って、国宝さんに届けると思った。

 しかし、現実は違った。

 清子さんは、歌い、ステップ踏みながら、何とスティックを足のつま先で蹴り上げた。

 スティックは、円弧を描いて、客席前に落ちた。

 僕も国宝さんも、予備のスティックを用意してなかった。

 僕は、一瞬立ち上がって、国宝さんを見た。

 しかし、国宝さんは、目でそのまま叩き続けろと合図した。

「何か、代わりのものはないか」

 僕はドラムを叩きながら、焦っていた。

 ふと、胸元に自分の雪駄があるのを思い出した。

「窮鼠猫を噛む!!!」

 僕は、胸元に仕舞い込んでいた、雪駄を、国宝さん目掛けて投げた。

 雪駄は、太鼓の上に落ちた。

 国宝さんは、それをすぐに拾い上げて、雪駄でドラムを叩き出した。

 客席が、大きくどよめき、場内が揺れた感じの拍手、客の興奮の大嵐が、場内から舞台奥まで打ち寄せた。

 国宝さんは、ただ、雪駄で叩くのではなくて、雪駄の先、底、横、サイドとあらゆる角度を使ってドラムを叩いていた。

 客席も僕も、嫌恐らく、この場にいた全員の目が点になった。

 もちろん、雪駄でドラムを叩いたのは、史上初の出来事だったに違いない。

 確かに、雪駄なので、音の劣化はいがめない。

 でもそれ以上の国宝さんのドラムに対する執念の魂とも云える、好意が人々のこころの奥底に芽生えた。

 雪駄ドラムが、場内を魅了の世界へ誘った。

 清子は、ちらっと横目で見ながら、顔に笑みをじんわりと宿して歌い続けた。

 🎶

 いばらの道も  何のその

 決めたこころは 固いもの

 辰巳稲荷の   玉垣に

 込めた言葉の  約束を

 手繰り寄せては 確かめる

 京都の町の   明かりとて

 味方につける  運命か

 京都スタート  手たずさえ

 京都スタート  始まりだ

 スタート    スタート

 ダッシュ    ダッシュ   


 拍手が続く。

 舞妓、芸妓があんなにも客席で身体を揺らして、両手を握りしめてリズムを取っている姿を僕は、初めて見た。

 紙テープが、僕らのいる舞台奥のドラムセットまで飛んで来た。

 今の紙テープは、真ん中の芯を抜いているので、仮に直撃しても痛くない。

 昔は、芯が取ってなくて当たると、目から火花が出たらしい。


  ( 4 )


 盛況のうちに終わった。

 これで終わりかと思った。

 すると、舞台にスクリーンが降りて来た。

 ジェフが上手から花束持って現れた。

「お疲れ様です、鳴滝清子さん。実は花束ともう一つプレゼントあります」

「えっ何なの?」

 ジェフが、上手袖に合図を送った。

 スクリーンに一人の人物が突如映し出された。

「鳴滝清子さーん、リサイタルおめでとうございます」

 一人の年老いた外人が、流暢な日本語で話し始めた。

「えっ、ひょっとしてイチジョージなの?」

「はーい、イチジョージでーす」

「嘘、本当に。あなた、まだ生きてたの。幽霊じゃないのよね」

「足ありまーす」

 イチジョージは、おどけて足を踏み鳴らした。

「まだ生きてたの?」

「はい、それはお互いさまです」

 客席がどっと沸いた。

 清子は、慌ててイチジョージの事を説明した。

「そのお孫さんが、今、附け打ちの勉強しておられます」

 ジェフが頭を下げた。

「鳴滝清子さん、折角のこの機会だから、お爺さんとセッションしましょうよ。いいですよね皆さん」

 客席から大きな拍手が起こった。

「何する?」

「祇園パレやりましょう」

 カメラが少し引いた。

 イチジョージは、ピアノの椅子に座っていた。

「よく、祇園甲部歌舞練場、当時はカブキハウスと呼んでた、この劇場でよく歌い、ダンスした曲ね。やりましょう」

 始まった。


 祇園パレ (作詞 祇園濁音 作曲 花見浩司 )

 🎶

 うち好きなんは 青空と

 あんたの笑顔  ほんになあ

 笑顔と平和   祈願して

 皆で笑おう   あはははと

 皆で口あけ   あはははと

 不安なんかを  吹き飛ばせ

 祇園パレパレ  パレード始まり

 祇園パレパレ  パレード行くぞ!

 明日もパレレ  パレード踊る

 年がら年中   祇園パレパレ

(もう一丁)

 祇園パレパレ  祇園パレパレ

 どこまでもパレ 祇園パレパレ


 スクリーンの中で、イチジョージは、華麗な指さばきでピアノ伴奏を披露した。

 これに僕と国宝さんのドラムセッション。

 さらには、堀川さん、尾崎さんの附け打ちの連打が重なった。

 途中で、スクリーンから、イチジョージの姿が消えた。

(あれっ)と思った。

 次の瞬間、上手袖から、ピアノ弾く台がスライドして出て来る。

 それを見て客席が、

「わあああーー」と叫んだ。

 清子は、何も気づかずに、歌い続けた。

 途中で気づいて、振り向く。

 何も信じられない。

 どうして、この舞台にイチジョージがいるんだ。

 私は、きっと夢を見ている。きっとそうに違いない。

 そんな顔を清子さんは見せた。


 祇園「マルサン」で、ささやかな打ち上げが行われた。

 乾杯の音頭は、国宝さんだった。

「九三歳の鳴滝清子さんと・・・」

「いちいち、年齢云わないの」

 清子さんが、すぐに突っ込んだ。

「えらい、すんまへん。九五歳の私、そして若手の東山君、熟練の堀川さん、尾崎さん、皆有難う。お疲れさまでした」

 乾杯して、宴が始まった。

「しかし、東山さん、よくもまあ、師匠に雪駄を投げつけましたね」

 まず尾崎さんが切り込んだ。

「本当。俺なんか恐れ多くて、出来ません」

 柄になく、しおらしい返事を堀川さんがした。

「いやあ、おおきに、おおきにやで。あれでドラム叩けた」

「歌舞伎の(鏡山「加賀見山旧錦絵」)の岩藤の草履打ちは、何回も見ましたが、国宝さんの(草履打ち)、初めて見ました」

 尾崎さんが笑いながら云った。

「あそこで、草履持って、見得切ったら、俺、つけ入れたのに」

 堀川さんは乗って来た。

「袖で見てて、私は、スティックが、清子さんの足元に落ちたから、てっきり渡すのかと思いました」

 イチジョージは、皆の思いを代弁した。

「そんな事しません」

「どうしてですか」

「お客さんは、私の歌を聴きに来たのよ。歌い続けるのが本筋」

 確かに正論だった。

 それに対して誰も反論出来なかった。

「よく、テレビで、何か受賞して、涙流しながら、歌うのをやめる若い歌手がいるけども、あんなもん、私から云わしたら、愚の骨頂。皆、歌を聴きに来たの。お前のウソ泣きなんか見たくないのよ」

 吐き捨てるように云った。

「でも今は、泣いてても、声を出さなくても、口パクなので成立するんです」

 ジェフが、今の歌謡界の事情を説明した。

 清子さんの隣りには、元旦那の国宝さん、元恋人のイチジョージさんがいた。

 不思議な光景だった。

 今宵は、輝美さん、今の国宝さんの奥さん、五十歳年下である。

 その輝美さんも、今夜は付き人のように、わき役だった。

「ところで、私があげた緑のブローチ、今でも持ってますか」

 イチジョージが聞いた。

 一拍、間をおいて、

「あれ、国宝さんにあげた」

「そ、そ、そうやったなあ」

「国宝さん、今でもお持ちですか」

「いや、そのう・・・」

「もう七十年も昔のものなんだから、なくなったわよねえ」

「いや、そのう・・・」

「あのう、これでしょうか」

 輝美さんが、遠慮気味に、皆にわかるように、胸を張った。

 襟に、エメラルドに輝くブローチがあった。

「あら、あなた持っていてくれたの」

「はい」

「私もイチジョージもすぐ死ぬから、輝美さん持ってて頂戴。それでいいでしょう、イチジョージ」

「はい、私は構いません」

「今回、この企画をしてくれた、東山くんに私からプレゼントあります」

「何でしょうか」

 清子さんは、バッグから、小さな袋に入ったものを手渡した。

「これ、キャッツアイ。と云っても宝石じゃなくて、勾玉。平安京造営した桓武天皇が身に着けていたと云われるものなの」

 いきなり平安京。いきなり桓武天皇。

 普段の会話に、そんな古代の事、人物が入る京都の不思議さ。

「はい、どうぞ」

「僕で、いいんですか」

「あなただから、あげる。この中で一番長生きするから」

「有難うございます」

 同じ理由で、僕は秀也さんから、南座の舞台の檜で作ったコースターを貰った。

 これで二つ目だ。

 僕のポケットの中で、勾玉とコースターが仲良くシェアした。

 次は、僕の番だった。

「今度は僕の番です。鳴滝清子さん、これをプレゼントします」

「あら、何くれるの」

 僕は、鞄の中から取り出した。

「帽子です」

「有難う、冥土のみやげにするわ」

「ただの帽子じゃないですよ。こうして広げると鞄にもなります」

 僕は、取っ手のふちを広げた。

 内側から鞄の取っ手が現れた。

「あら凄い。有難う。これどこで買ったの」

「売ってないです」

 南座照明の友川さんは、趣味で鞄作りをやっていた。

 僕が、前にお願いしていたものだった。

「帽子いいねえ。被ると危険防止にもなる」

 堀川さんのオヤジギャグで締めくくった宴だった。

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