第8話 幕間2 附け打ち、犬の縫いぐるみを抱く
「アート・カオル」の阿藤カオルさんから電話があった。
「東山君、大の犬嫌いだったよね」
いきなりの電話、いきなりの犬の話。
あの祇園バーで、あれから僕の犬嫌いで話は盛り上がった。
憎いけど、堀川さんの事実三分にモリモリ創作話七分の話に、場は一気に盛り上がった。
「笑いすぎて、お腹痛い」
とまで、新婦の峰子さんに云わせた堀川さんだった。
この人は、講談師でも食っていけると確信した。
その笑いのグループにカオルさんがいた。
南座では、あんな真剣な顔つきなのに、よくもまあ、大きな口を開けていられるもんだと思った。
僕の名誉のためにも、以下に事実と創作、伝聞を列挙しておきます。
(事実)
南座歌舞伎ミュージアムで、公開附け打ちの稽古をした。
たまたま、この日、堀川さんは見に来ていた。
観客を舞台に上げて、附け打ちを実際に体験してもらう。
その観客の中に、盲導犬を連れた人がいた。
僕は、その盲導犬に怖気づいて、気を失った。
(堀川さん・創作)
馬乗りならぬ、犬乗りされた東山は、殺虫剤を降り掛けられたゴキブリのように、仰向けに倒れて、手足をひくひくさせた。
さらに、犬は、片足上げて、東山の顔におしっこをかけた。
すぐに、紙で拭こうとしたが、あいにく、紙がなかった。
まさに、神(紙)に見放された東山だった!
(伝聞)
今度本物の犬が登場する、新作歌舞伎を竹松文芸部の北野さんが書いているそうだ。その時の附け打ちは、東山に決定しているそうだ。
全館、ペット愛好家のための貸し切りで、歌舞伎をやるが、その附け打ちも東山に決まってるそうだ。
これは、枕詞のようなもので、「犬」イコール「東山」である。
まず克服するために、犬の縫いぐるみ着て、頑張っているそうだ。
「舞台に本物の犬が登場する事は、今はないと思うけど、やはり附け打ちとしては、ここは克服しないといけないよねえ」
「はあ、それはわかってます。カオルさん、聞いてもいいですか」
「何?」
「まさか、堀川さんの講談話全部、信用してるんじゃないでしょうねえ」
「わかってるわよ。でも、犬嫌いは本当でしょう」
「まあ、それはそうですけど」
「きみは若いんだから、苦手なものから逃げては駄目だよ。伊集院静って作家知ってる?」
「はい、夏目雅子さんと結婚した人でしょう」
「若いのによく知ってるねえ。その人がねえ、人生の岐路に立った時は、苦手な方を選べって云ってた」
別に、附け打ちしてるのだから、そんな岐路に立ってる僕じゃない。
しかし、カオルさんの押しに負けてつきあう事にした。
JR琵琶湖線「河瀬」駅に、僕とカオルさんは立っていた。
カオルさんの案内で、バスに乗り向かった。
カオルさんは、大きな紙袋を持っていた。
「どこ行くんですか」
「いいからついて来て」
向かった先は、「大瀧神社」だった。
神社なら、京都市内に幾らでもあるのに。
でも、口に出せなかった。
スマホで検索。
ここは、犬上川のほとりにある神社で、創建は807年だから平安京よりも古い、バリバリの古刹だ。
忠犬ハチ公ならぬ、「小石丸」伝説がある。
日本武尊(やまとたける)の皇子稲依別王命(いなよりわけおうのみこと)が、この地域の大蛇退治をしようとしてた時、夜中に吠える、小石丸に腹を立てて、思わず刀で首をはねた。
しかし、小石丸の頭は、近くに潜んでいた大蛇を襲って、主人を助けたと云う。
「別名犬神社かあ」
「さあ、お参りするわよ」
そう云って、カオルさんは、大きな紙袋から、犬の縫いぐるみを取り出した。
「はい、これ」
犬の縫いぐるみでも、いきなり取り出されて、渡されると僕は怖くて、思わずのけ反った。
「縫いぐるみで、そんなに怖がっててどうするのよ」
びくびくしながら、犬の縫いぐるみを抱いた。
犬は、白地に小さな黒の斑点があった。
三十センチぐらいの大きさ。
それを拝んで祈る。
(犬が来ませんように)
と拝んでいた。
「ワン」
小さく吠えた。
縫いぐるみが吠えた!
と思い、振り返ると、老婆が子犬を抱いてこっちを見た。
「あれ、可愛い縫いぐるみねえ。お兄さんの趣味なの」
「あっ、いえ、まあ」
後ずさりしようとしたら、後ろからカオルさんが笑いながら僕の背中を押した。
「カオルさん、駄目ですって!」
「お二方、恋人同士なの」
「はいそうです!」
僕が答える前に、カオルさんは、腕を回して来てほほ笑んだ。
「ここは、犬の長寿、幸せを願う神社なの。本物の犬は連れて来なかったの」
「はい、今ちょっと病気で、病院にいます」
「ああ、そうだったの。代理ね。代理でもこうしてお参りするとは、見上げたものね」
それから、三人で色々と話した。
「鳴滝清子と云います」
僕とカオルさんも名前を云った。
僕らは、京都まで帰ると云うと、
「あら、私も京都。じゃあ車で送って行ってあげる」
と云われた。
(老婆の運転かあ。怖いなあ)
「心配しなくていいから。運転は私じゃなくて(執事)がするから大丈夫」
鳴滝清子は、僕の心配事を悟ったかのように、そう補足した。
(ひつじ?なら、余計心配だよ)
浮かぬ顔をする僕と対照的に、カオルさんは、
「はい、喜んで有難うございます」と答えた。
僕は生まれて初めて、ひつじじゃなくて、執事と云う職種と云うのだろうか。そう云うたぐいの人と会った。
第一、 会話の中に、執事って単語が出て来る人と出会ったのも初めてだった。
迎えに来た車は、リムジン!
車内は、無茶苦茶広い!中にワインセラーがあるなんて、これも初めてだった。
「家では、何の犬飼っていらっしゃるの」
「はあ」
僕はカオルさんに助け舟を呼んだ。
「この人のマンションは、ペット飼うの禁止なんです」
「でも、さっき病院にいるとか」
「それ、私の家です。私は東京で、この人京都住まいなんです」
「あらっ、遠距離恋愛なの。せっかくのお二人の逢瀬邪魔した感じねえ」
「いえ、二人とも京都に戻りますから、丁度よかったです」
「こんな事、聞いていいかしら。年下の彼氏ねえ」
「はい。もう可愛くて、ペットみたいなもんです」
鳴滝清子は、小さく上品に笑った。
「そうよねえ、わかるわあ」
清子さんは、じっと僕を見つめた。
何歳ぐらいだろうか。
でもいきなり、初対面で聞くのは失礼だ。
八十歳ぐらいだろうか。
髪は、真っ白だが、白に染めているのかと思うくらい、光り輝く。
「僕ちゃん、この婆さん、一体幾つだろうと思って見ているでしょう」
清子さんは、僕の心の中を、両手でぐわっと掴んだ。
びくっと背筋に稲妻が通り抜けた。
「あっ、すみません」
僕は、思わず謝ってしまった。
「いいのよ。私九三歳なの」
「九三ですか」
国宝さんが、九五歳だから、ほぼ同世代だ。
「国宝さんとほぼ同じね」
カオルさんも、僕と同じ事を思っていたようだ。
「誰か知り合いにいるの」
「ええ、僕の師匠が、九五歳なんです」
「師匠って。あなた、踊りでも習っているの」
「いえ、歌舞伎の附け打ちやってます」
「この人の師匠は、附け打ちで唯一の人間国宝の清水元助って云うんです」
「清水元助・・・」
「御存じですか」
「ええ、まあ」
車は、京都駅前、正面についた。
「有難うございます」
執事が、運転席から降りて来て、ドアを開けてくれた。
清子さんは、執事に、
「宇多野、二人にあれをお渡ししなさい」
この時、執事の名前が宇多野さんとわかった。
「これを」
僕ら二人に名刺を一枚ずつくれた。
「ごきげんよう」
「有難うございました」
「じゃあ、またどこかで」
リムジンは去った。
帰宅して、僕は名刺を再び見た。
「鳴滝 清子
京都市左京区下鴨泉川町59 」
それだけだった。
固定電話も携帯電話も書かれていなかった。
グーグルマップで検索したら、その住所は、下鴨神社「鴨社資料館秀穂社(しゅうすいしゃ)」だった。
「何だ、これは」
僕は、つぶやいた。 少しだけ謎めいた、老婆だった。
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