第3話 附け打ち、葬儀に参加する

       ( 1 )


 今年の桜前線は、何度も足踏み停滞しながら、ようやく北上し始めた。

 京都の桜も例年よりも五日ほど遅く、満開の日を迎えた。

 その満開の桜の下に僕はいた。

 その場所は、京都東山、高台寺の隣りにある、霊山観音(りょうぜんかんのん)。

 そこで花見ではなく、葬儀に参加していた。

 沢田秀也さんは、南座見学から一週間後、黄泉の国へ旅立った。

 四月に入り、一気に桜の花が咲き始め、京都の町を覆いつくす。

 桜と云えば、花見、入学式、僕の頭の中には、桜イコール嬉しい、楽しい情景しか思い浮かばなかった。

 今までは・・・

 でも今日からは違う。

 恐らく、これから何年も月日を重ねても、今日の悲しみの桜の情景を忘れないだろう。

 それとも、もっと悲しい事が起きて、それに上書きされて消されてしまうのだろうか。

 でも、今は、その上書きはまだない。

 霊山観音様の開眼は、昭和三十年(1955年)、六月八日、第二次世界大戦の戦没者、及び戦争の犠牲者を追悼するために建立された。

 高さ24m

 顔  6m

 眉  1m10㎝

 目  1m

 鼻  1m6センチ

 口    90センチ

 総重量 約500トン

 屋根のない、高さ24メートルの観音様が東山の借景を従えて鎮座なさっていた。

 この辺りは、八坂神社、圓徳院、長楽寺、清水寺、高台寺などの有名な社寺が密集する東山、祇園観光地でもある。

 高い建物は皆無。

 だから、遠くからでも、白い観音様は目立つ。

 東山の新緑の緑を借景にしているから、さらにひと際、観音像は浮き出ていた。

 建立から、まだ六〇年ちょっとしか経過してないので、屋根のない、自然の中での劣化はある程度仕方ないが、今のところ大丈夫だ。

 元々は、第二次世界大戦の戦没者と戦争の犠牲者を追悼するために建立された。

 左右の扉から中に入って、台座の下まで行ける。

 ここには、十二支ごとに祭壇が設けられて、それぞれ違う神様がいた。

 例えば、兎年は文殊菩薩、未年・申年は、大日如来と云う具合だ。

 世界無名戦士の碑もある。敵も味方もない。一人の人間として供養している。

 こうして人間には、戦争を起こす凶暴な側面と二つの造反する、矛盾なものを持つ生き物だと改めて思い知った。

 また「花塚」もあった。

「花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき」

 冒頭、林芙美子の有名な作品の一節が刻まれていた。

 京都の花の卸の組合の人達の碑である。

 僕は初めて、ここに来た。

 京都に住み始めて、七年。しかし、ここを訪れたのは初めてだった。

 こんな場所がある事も恥ずかしながら初めて知った。

 葬儀には、南座関係者、歌舞伎関係者が沢山訪れた。

 附け打ちも、御園座に出ていた堀川さん、尾崎さんも駈け付けた。

 この日は、御園座は昼一回公演だった。

 附け打ちの人間国宝、国宝さん(清水元助)も五十歳年下の輝美さんもお手伝いの烏丸京子さんも参列した。

 南座の舞台で、秀也さんのために創作浄瑠璃を披露した矢澤竹也師匠は、弟子の梅子さん、お琴の福本松子の二人を従えて参列していた。

 案内の藤森理香さん、ミキサーの新川真由子もいた。

 真由子の黒の上下のスーツは、一層女を消滅させて、男を出していた。

 恐らく知らない人は、百パーセント男と思うだろう。

 関西大向こうの会「都鳥」会長松岡弘、小林耕三、照明笠置明夫、岩倉椿、上桂寛子の姿もあった。

 これだけの南座のメンバーが、南座以外の場所で、一堂に揃うのは、二月の歌舞伎マラソン以来である。

「ここ来るのは、竹嶋屋の十三代目の葬儀以来やな」

 国宝さんはつぶやいた。

「そうですねえ」

 堀川さんと尾崎さんが同時にうなづいた。

 もちろん、その時僕はいない。

 後で、スマホで検索したら出て来た。

 十三代目片山三左衛門。平成六年(1994年)三月二六日。霊山観音で葬儀が行われる。

「あの時も確か春やったな」

「はい、三月春でした」

「春に人が逝くのは、春の季節の華やかさとは裏腹に、何やけったいやな」

 国宝さんは、満開の桜に視線をやりながら云った。

「まだ若いのになあ」

 沢田秀也さんは、享年四八歳だった。

「若すぎる」

 今度は、後ろにいた、関西大向こうの会「都鳥」の会長がつぶやいた。

 この人も、確か九三歳ぐらいだったはずだ。

 マスコミも駈け付けた。

 地元の都新聞、みやこテレビ。

 二月の歌舞伎マラソン中継でお世話になった人たちも何人か見受けられた。

 日頃は、上下黒装束の大道具連中も、この日は全員黒上下スーツ姿だった。

 祭壇にはまだ元気だった頃の遺影が飾られていた。

 参会者に笑顔を向けていた。

(どうか、安らかにお眠り下さい)

 焼香の時、僕のこころは、月並みな言葉しか浮かばなかった。

 拝みながら何度もポケットに忍ばせた、あの物を確かめていた。

 南座の舞台の檜で作った、自家製のコースター。

 僕の中では、今も秀也さんが、このコースターの中で生き続けると確信していた。

 あの二人だけの会話は、誰にも云っていない。

 申し訳ないけど、お兄さんの三治さんにも云っていない。

 云うと、このコースターを取り上げられる気がしたからだ。

 お焼香が済むと、堀川さんが、

「そろそろ、着替えようか」

 と声をかけた。

 僕と尾崎さんは、無言でうなづいた。

 上下黒の礼服、黒ネクタイから、いつもの舞台で着る、黒の着流し、縞模様の裁着け袴に着替えた。

 各自、ジュラルミンケースから、つけ板、つけ析を取り出した。

 参拝者のお焼香が済むと、三治さんが挨拶した。

 型通りのお礼の言葉のあと、

「秀也は、私より一回り年下でした。小さい時は、忙しかった母親の代わり、親代わりでありました。今の心境は、弟を亡くしたと云うよりも、自分の子供を亡くしたかのような喪失感でいっぱいであります。

 あいつ、失礼、秀也は、私よりも芝居が、歌舞伎が好きな奴でした。恐らく、十八代目、中林屋に呼ばれたんだと思います」 

 十八代目中林半三郎(中林屋)も若くして亡くなった。享年五七歳だった。

 人気の歌舞伎役者で、京都平安神宮社殿前に「中林座」仮設劇場を作り、大好評だった。

「恐らく、今頃、(来るの遅いよ、皆大道具さん待ってたんだから)と云われてるはずです。これから黄泉の国へ旅立ちです。皆さん最後です。見送ってあげて下さい」

 三治は、決して泣かなかった。

 その泣かない顔を見て、参列者の方が泣き出した。

 そしてついに、秀也さんの出棺の時が来た。

 大道具の人達が棺を取り囲んで、霊柩車に入れようとしていた。

 棺の上には、大道具の佐々本さんが作った、大きな法被が被せられた。

 それには、黒地に、「京都タツミ舞台」と白抜きの文字が描かれていた。

 車は、出発前、

「パアアーン」

 とクラクションを、一回大きく鳴らした。

「タツミ舞台」

「沢田!」

「秀也!」

 あちこちで、関西大向こうの会「都鳥」の人達の大向こうがかかった。

 と、同時に尾崎さんの先導で、堀川さん、僕の三人による、附け打ちの連打が始まった。

 車の後ろに三人並んだ。

 左から尾崎さん、僕、堀川さんの順番だった。

 地べたなので、つけ板の下に、五分の合板ベニヤと厚手のフェルト生地を敷いていた。

 一番心配したのは、天候だった。

 春は、三日に一度は雨が降る。

 湿気を一番嫌がるのが、つけ板だった。

 湿ると、いい音も出ないし、雨に濡れたつけ板は、しばらく使い物にならない。

 幸い、春の温かい風と陽光が輝いた。

「パタパタ、パタパタ、パタパタ」

 附け打ちの効果で、さらに大向こうの掛け声が幾重にも重なった。

 参会者は、両手を合わせてもう一度拝み、最後のお別れを無言で告げた。

 十三代目の竹嶋屋の葬儀では、つけ音はなかった。

 だから東山のこの霊山観音の地につけ音が響くのはもちろん初めてだった。

「パタパタ、パタパタ、パタパタ」

 車が見えなくなるまで、つけ音を叩き続けた。

 尾崎さんの右手がゆっくりと、弧を描いて最後に振り下ろされた。

 つけ音は、左手で始まり、右手で終わる。

「チョン!」

 それを見届けて、関西狂言方の堀内が、止め析を打つ。

 東山の空、天まで届きそうな澄み切った切れのある止め析だった。

 その時だった。

 何の前触れもなく、一陣の大きな風が参会者の周りにだけ吹いた。

 桜の花びらが何枚か、いや、続々と落ちる。

「あっ、秀也さん」

 大道具の人達が次々に同じフレーズを口にした。

 歌舞伎で、よく頭上に仕掛けた桜が、上手、下手の袖で紐を引っ張り、降らせていた。

 秀也さんは、よくこの役目を行っていたらしい。

 これは、後で聞いてわかった事で、その時の僕は何も知らなかった。

 後で考えると、確かに不思議な光景だった。

 風が吹くなら、辺り一面に吹くはずなのに、まるで、霊山観音・出発の場の芝居のように、霊柩車、参会者の周りだけの限定風だった。

 多くの人が空を見上げた。

 ゆったりと、春の雲が所々浮かんでいた。

 不思議だった。


    ( 2 )


 全ての作業を終えた。

「折角、霊山観音さんへ来たんや。ここへ来たからには、参らないとなあ、あそこへ」

 国宝さんは笑いながら、関西大向こうの会「都鳥」会長の松岡さんへ視線を送った。

「せやな。でないと友達に怒られるしな」

「友達も先輩もや」

 一体二人が何を喋っているのか、僕には皆目見当がつかなかった。

「僕、押すの代わります」

 車椅子を押していた、輝美さんと代わった。

「有難う、東山君、気がきくようになったわね」

「ようやっと、その辺まで来たわけや」

 国宝さんは、今年九五歳で車椅子、松岡さんは九三歳で、杖をついている。

 その後ろを、輝美さん、京子さん、尾崎さん、堀川さん、大向こうの小林さんが続いた。

 僕らは、手に受付で貰った、太さが一センチ、長さが三〇センチはあろうかと思われる巨大な線香を持ち、本堂前にある、受け皿にその線香をさした。

 中には、灰が山盛りあった。

 ずぼっと入った。

 ここからは、本堂に隠れて観音様は顔しか見えない。

 本堂の中には入らず、ここで一礼して拝んだ。

 僕は車椅子の国宝さんの線香を受け取ると、さした。

 次に向かったのは、本堂の右奥にある、「メモリアルホール」だった。

 入り口には、「世界無名戦士之碑」の立て看板が出ていた。

 建物は、間口が五メートルほどで、高さは、二階建てぐらいだが、中は吹き抜けで、一階のみだった。

 右手に縦書きの、淵に金色の紙をあしらった扁額があった。

「誉あれ、敵も味方もおのか祖国のために倒れた勇士に。

 しかし彼に至高の犠牲を拂わせた戦争は、人類の悲劇であった。生ける吾等はここに心眼を開いて奮起し、いや高まる熱意をもって平和探求に精進しよう

      世界平和 四海兄弟

 昭和三十三年六月八日

      京都霊山観音会 建立 」


 と書かれてあった。

 もう建立から六十年も過ぎていた。

 しかし、京都で、六十年の歳月はほんの一瞬短い。

 何しろ、この前の戦争が「応仁の乱」であり、昨日の戦争が幕末に起きた、「蛤御門の変」なのだから。

 時間感覚が、東京とは全然違う。

 京都では、江戸時代創業の店は、老舗とは呼ばない。四百年は、老舗でなく、新興組なのだ。

 京都では、町の中にある小さな、文具店や八百屋が、平気で創業300年なり400年なりが軒を連ねる。

 たまたま、入ったうどん屋で、

「創業何年ですか」

 と聞いた事がある。

「もううちとこは、新参もんどすやさかい、お恥ずかしい」と云われた。

 それでもしつこく聞くと、

「ほんの、三百八十年どす」と云われた。

 京都の今宮神社門前で売っている、あぶり餅屋の創業は、千年である。

 最初僕は聞いた時、聞き間違いかと思って、二回聞き直した。

 百年ではなくて、一桁多い千年だった。

 京都では、江戸時代創業の店は、老舗ではなくて、新参扱いだった。

 東京のように江戸時代創業の店も老舗と呼ぶと、京都の店は、老舗だらけになってしまう。

「老舗」の希少価値がなくなるのだ。

 東京と京都では、時間の認識が違うのだった。

 話が脱線してしまった。

「四海兄弟って何ですか」

 扁額の最後の方に書かれている文言を、僕は指さして聞いた。

「真心と礼儀を尽くして、相手と話したら、人類は、皆、兄弟のように仲良くなるって事や」

「四海は、四方の海。転じて世界をさすんや」

 国宝さんと松岡さんの九十歳以上コンビから有難い説明を聞いた。

「でも兄弟喧嘩もある」

 ぼそっと堀川さんがつぶやいた。

「これ、堀川っ!」

 国宝さんが睨みつけた。

 堀川さんは、ぺろっと舌を出してみせた。

 正面奥と左右の小高い所には、ステンドグラスがはめ込まれていた。

 左右のステンドグラスからは、春の日差しが降り注いで、色鮮やかに輝いていた。

 祭壇には、アベマリア像、タイにあるような仏像とが、世界無名戦士を祀るだけあって、国際色豊かだった。

 ここで、一同深々とお辞儀して拝んだ。

 もう戦後七十年以上経過した。

 歳月を測る物差しの「半世紀」を遥かに過ぎた。

 僕にとって、「太平洋戦争」は明治維新と並ぶ、歴史の中に入る。

 でも国宝さんも松岡さんもきっと、実体験しただけあって、歴史ではなくて、生きた証の積み重ねなのだろう。

 別室には、「世界各国軍人墓地より贈ラレシ浄土」と書かれた戸棚があった。

 本箱のように、一辺三十センチ四方の三段、七列に並んだコーナーに各国の旗と、瓶が並んでいた。

 ここには、宗教も国境もない。

 全ての人類のエリアなのだ。

 もっとここを訪れる人が増えて欲しいと思った。


   ( 3 )


 そのままのメンバーで、少し早かったが、祇園「御池」へ行った。

 祇園にある、小料理屋である。

 昨年、女将さんの紹介で、堀川さんが子連れの人と見合いしたが、結局振られた。

 堀川さんに云わせれば、見合い相手の復縁を取り持った、「福の神」だそうだ。

 一つの事実でも、見方を変えると、こんなにも変わるのかと一つ勉強になった。

 二階の個室に集まった。

「堀川と尾崎は、今日中に名古屋へ戻らなあかんのやろ」

 現在二人は、御園座公演の担当である。

 御園座は、四年ぶりに新築再開場した。

 益々、附け打ちの増強が急務であった。

「明日は、夜一回なんで、今夜は師匠のお家に泊まります」

 まず堀川さんが云った。

「私は、名古屋に今夜戻ります」

 次に尾崎さんが云った。

「どうしてですか」

 僕は聞いた。

 尾崎さんが説明してくれた。

 こんな事は滅多にないのだが、もし仮に二人とも泊まって、明日の朝、名古屋へ戻ろうとした時に、新幹線での事故、運悪く車内で閉じ込められる事態もある。

 片方がいれば、何とかやれる。

 尾崎さんは、必ず相棒の附け打ちも、急に代わっても打てるようにどんな時も準備していた。

 用心深い、責任ある尾崎さんだった。

「と云う事なんで、酔いつぶれても尾崎がやってくれるんで、今夜は心置きなく飲める」

 ひとりほくそ笑む堀川さんだった。

「駄目ですよ、来てくださいよ」

 笑いながら尾崎さんは念押しした。

 京都、名古屋間は新幹線で40分あまり。

 近い。その距離の近さが、こころの余裕をもたらしたのだろうか。

 堀川さんは、いつもよりも早いピッチで手酌で飲んだ。

 料理とビールがそろった所で、乾杯した。

「沢田秀也くんの冥福を祈って乾杯やな」

 静かな飲み会だった。

 公演千穐楽の打ち上げ会に見られる、一種高揚感もなく、一抹の寂寥感が漂った。

 近しい人の死は、

(人間は、いつかは誰でも死ぬ)

(今、ここにいる全員が、この地上から姿を消す)

 と云う残酷な一面を誰も表に見せずに暮らしていた。

「あいつ、秀也は器用な奴でね、お前は知らないと思うけど、俺も尾崎もあいつに作って貰ったつけ板、つけ析があるんだ」

 静かに酒を呑みながら、堀川さんが喋り出した。

「云わば、オーダーメードつけ析、つけ板です」

 尾崎さんが付け加えた。

 つけ析の長さは、微妙に違う。

 それは、堀川さんと尾崎さんの手のひらの大きさが違うからだ。

 つけ板は、欅(けやき)で出来ている。

 一方つけ析は、白樫で出来ている。

 つけ板は、削らず叩く事で慣らしていく。

 寿命は約二年である。

 つけ析の長さは、七寸から七寸五分(約二十一センチ)だった。

「秀也は、つけ析の寸法調整する時、必ず腕相撲して来るんだ」

「そうでしたね」

「何で腕相撲すると思う?」

「さあ、分かりません。教えて下さい」

「こうして、相手の手を握りしめて、その感覚が頭の中に入ってから、つけ析の長さ、厚さを調整してたんだ」

 おもむろに、堀川さんが僕の手を握って、腕相撲をした。

 ふいを食らって、僕は負けた。

「力弱いなあ、お前。よくそれで歌舞伎マラソン優勝出来たな」

「それとこれとは、関係ないでしょう」

 少しだけ、僕は抗議した。

「もう、秀也に作って貰ったつけ析とつけ板は使わないようにするよ」

「使い続けると、駄目になりますもんね」

 普通、つけ板、つけ析の寿命は、二、三年と云われていた。

「劇場公演の時は、ジュラルミンケースの中に入れて、参加はして貰うがな」

 僕ら、附け打ちは、特注のジュラルミンケースの中に、附け打ちの道具一式を入れて持ち運ぶ。

 去年、僕はそれを持っていたら、河原町交差点で、外国人に盗られた、苦い経験がある。

 通常、遠距離移動は、トラックで運ばれる。

 万が一、トラック自体が事故に出会い、破損する場合があるので、予備は必ず持ち運んでいた。

「でも、ずっとジュラルミンケースの中で眠ったままなんて、秀也さんも悲しむと思います。折角作った作品なんだから。南座で歌舞伎やるときだけ、使用したらどうですか」

 と僕は提案した。

「お前も、たまにはいい事云うねえ。じゃあそうするよ」

 珍しく、すんなりと堀川さんは、僕の意見を受け入れてくれた。

「ナイスアイデアです」

 尾崎さんは笑った。

「あと、顔見世の着到盤の台も、毎年彼がやっていましたね」

 今度は尾崎さんが思い出を語り出した。

 着到盤とは、楽屋口の頭取部屋の前に置かれた台である。

 ここに出演する役者、鳴り物、義太夫語り、義太夫三味線弾きの人の名前が書かれてある。

 役者らは、楽屋入りすると自分の名前の上にある小さな穴に、着到棒をさす。

 云わば、出勤簿だった。

 これを見て、頭取は役者の楽屋入りを確認していた。

 達筆な墨文字で書かれてある。

 公演が終わると、捨てずに、削ってまた再利用するのだ。

 その削る係が、秀也さんだった。

 一口に削ると云っても、これが簡単なようで、難しい。

 筆を使って、文字を書くので、一ミリたりとも、凹凸があってはいけない。

 カンナで何度も削り、最後の仕上げは、十種類のサンドペーパーで丁寧に磨き上げていたそうだ。

 秀也さんは、自分の手のひらで、何度も表面を触り、凹凸がないか、チェックしてたそうだ。

「あれこそ、本当の職人でした」

 静かに尾崎さんは、思い出話を締めくくった。

「人は、二回死ぬんやでえ」

 横で僕らの話を聞いていた国宝さんが、つぶやいた。

「二回?普通一回でしょう」

 思わず僕は聞き返した。

「途中で息吹き返すの」

 もう酔って来たのか、堀川さんがヨタを云い出した。

「そうやない。一回目は肉体的、物理的な死。今日の沢田秀也くんのようにや」

「はい。で、二回目は」

 僕は、答えを催促した。

「その人の事を知ってる人もいなくなり、誰もその人の事を話さなくなり、忘れられる事や」

「国宝さん、死がまじかに迫った私には、よおくわかります」

 大向こうの会「都鳥」会長の松岡さんがゆっくりと喋った。

「つまり、我々の二回目の死から長引かせるのは、東山くんにかかってるわけやな」

 全員の視線が僕に注がれた。

 そうだったんだ。

 沢田秀也さんも同じ思いだったんだ。

 だから、あの時自分の分身の南座の舞台で作った自家製のコースターを僕に預けてくれたんだ。

 何らかの形で、自分が死んでも南座、歌舞伎の行方を見守りたかったんだ。

「東山君、責任重大ね」

 輝美さんが笑った。

「私ら、東山君がいるから、二回目の死ぬまで、まああと五十年は大丈夫よね」

 国宝さんの家でお手伝いしている烏丸京子さんが云った。

「五十年かあ。どんな世の中になってるかなあ」

 尾崎さんがつぶやいた。

「ロボットが、つけを打ってたりしてな」

 堀川さんが、お酒をお替りして、云った。

「じゃあ、演じる歌舞伎役者もロボットなの」

 輝美さんが会話に加わった。

「そしたら、見てる方もロボット」

「おいおい、じゃあ人間はどこに行ったんだよ」

「嫌な世界ですねえ。附け打ちは、どんな世の中になっても、人間がやってます」

「まあ東山さん、頑張って下さい」

「その頃は、東山さんが人間国宝の附け打ちね」

 幾分か輝美さんの声が、弾んでいた。

 少しだけ、厚い雲に覆われた店内に薄日がさしたようだった。

「お前が人間国宝かあ。その時代まで、生き続けるの嫌だなあ」

 しみじみ、堀川さんが僕の顔見ながら云った。

「心配しなくても、堀川さんは死んでますから」

「そうよ。一体いつまで生きるつもりなの」

「生きてやる。とことん生きてやる」

 負けず嫌いな堀川さんは、云い返した。

「生きてどうするんですか」

「お前の人間国宝就任を阻止してやる」

 今宵の、宴をどこか、天井の片隅で秀也さんも聞いているような気がした。

 外に出ると、少し肌寒い春の風が飛び込んで来た。

 しかし、冬のキリキリ肌に食い込む風ではなかった。

 ひんやりとした中にも、底辺に優しいものが包まれていた。

 本格的な春は近かった。 

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